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アルプスの薔薇と契約の誓い  作者: Lucy M. Eden


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第二章:聖域の不可侵条約

シュロス・ローゼンに、二日目の朝が訪れた。


ヴィクトリアにとって、この城での初夜は「最悪の宿泊体験」以外の何物でもなかった。天蓋付きのベッドは不必要に柔らかく、数百年前の木材が夜風に鳴る音は、彼女の論理的な思考を妨げるノイズでしかなかった。


午前六時。彼女は迷わずリビングのコンセントに、持参した最新式の全自動エスプレッソマシンを接続した。


「……何をしている」


背後から、凍てつくような声がした。振り返ると、そこには完璧に整えられた三つ揃えのスリーピースを纏ったユリアンが立っていた。まだ夜明けだというのに、彼のシャツには一筋のシワもない。


「見ての通り。脳を覚醒させるための儀式よ。あなたの淹れるまどろっこしい紅茶を待っていたら、午前中の市場の動きを見逃してしまうわ」


「その安っぽいプラスチックの箱を、ルイ十五世様式のテーブルに置くのはやめていただこう。その振動は、この部屋の調度品たちが積み上げてきた静寂を冒涜している」


ユリアンは眉一つ動かさず、しかし明確な拒絶を込めて言い放った。ヴィクトリアは鼻で笑い、マシンから溢れるコーヒーの香りを深く吸い込む。


「『静寂』で利益が出るなら、喜んで協力するわ。でもユリアン、私たちは昨日、弁護士の前で契約を交わしたはずよ。この一年のプロジェクトを成功させるためには、私の効率性を最大限に尊重してもらう必要があるわ」


二人は、長い大理石のダイニングテーブルの両端に座った。その距離、およそ五メートル。物理的な距離以上に、二人の価値観は銀河の端と端ほども離れていた。


ユリアンの前には、銀のトレイに乗せられたボーンチャイナのカップと、丁寧にアイロンがけされた紙の新聞。ヴィクトリアの前には、無機質なマグカップと、めまぐるしく数字が動くタブレット端末。


「契約書には、互いの生活を尊重するとあったはずだ」


ユリアンが優雅にページをめくる。


「君の持ち込んだ『スマート家電』とやらは、この城の配線を焼き切る。昨夜、一部のブレーカーが落ちたのは、君がバスルームで使った異様な出力のヘアドライヤーのせいだ」


「それはインフラが中世レベルで止まっているからよ。私が今日中に光ファイバーの引き込み工事と、最新の電力制御システムを導入する。費用の全額は私の会社が持つわ。あなたはただ、黙ってWi-Fiのパスワードを覚えればいい」


「断る」


ユリアンの声は短く、そして重かった。


「この城に不可視の電磁波を張り巡らせるなど、死者に鞭打つ行為だ。ここは、外界の喧騒から隔離された聖域でなければならない。君がやろうとしているのは、モナ・リザにLEDライトを埋め込むような蛮行だ」


「芸術品に固執して餓死する道を選ぶのは、あなたの勝手よ。でも、私はこの城を再生させる。祖父が残した『負債』を、私の手で『資産』に書き換える」


ヴィクトリアはタブレットを叩き、画面をユリアンに向けた。そこには、城の各エリアを高級スパやコワーキングスペースに改装する、緻密な三次元図面が並んでいた。


「見て。この西翼の塔は、瞑想とデジタルトックスを売りにしたスイートルームにできる。そのためには、まず……」


「その汚い画面をしまえ」


ユリアンが初めて、瞳に静かな怒りの火を灯した。


「君の言う『再生』は、ただの『換金』だ。ヴィクトリア、君にはこの壁を流れる風の声も、薔薇の棘が守ってきた名誉も見えていない。数字でしか世界を認識できないのは、哀れな障害というべきだな」


「……『哀れ』?」


ヴィクトリアの口角が、挑戦的に跳ね上がった。彼女は椅子を立ち、ユリアンの目の前まで歩み寄った。高価な香水の香りと、厳格な紅茶の香りがぶつかり合う。


「一年後の今日、この城にどれだけの現金が残っているか、楽しみね。伝統という名の埃をかぶって心中したいなら止めないけれど、私は私のやり方で、この契約を完遂する。あなたを私の『夫』として、完璧にマネジメントしてみせるわ」


「マネジメント、か。面白い」


ユリアンもまた立ち上がり、彼女を見下ろした。


「ならば試すがいい。君の合理性が、私の矜持に一歩でも踏み込めるかどうかを」


その時、ヴィクトリアのスマートフォンが、冷ややかな着信音を鳴らした。画面に表示された名前を見て、彼女の眉が微かに動く。


『Robert (ロバート)』


ユリアンの視線が、その画面に落ちる。彼はすべてを察したように、薄く冷ややかな笑みを浮かべた。


「……計算外の通知のようだが?ビジネスパートナー殿」


ヴィクトリアは無表情で端末を伏せた。しかし、その指先が微かに震えたのを、ユリアンの鋭い観察眼は見逃さなかった。


契約結婚の初日。朝の香りが漂うダイニングは、平和な朝食の場ではなく、宣戦布告の儀式へと変わっていた。

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