八杯目 『下戸の鬼医者、酒精に耐性をつける修行を始めるの巻』
「こ、これは、もしかして、粕汁では……」
「そうですよ。お美和さんから、白童先生の分だけはいつも粕汁ではなく普通のお味噌汁にしていると聞いて、今日からは粕汁にしてもらったんです」
悲田院から運ばれてきた膳を前にすると恵が言った。夕餉はいつも玄米に山菜、豆腐にたまに川魚といったたぐいだ。そして味噌汁。
蒼親の管理している酒蔵ではもとより密造酒のため、幕府の『寒造り令』を無視して、年中酒を造っている。酒蔵の奥に天然の洞窟氷室があり、夏でも腐らせずに醸すことができる。つまり、年中酒粕が出る。だが、煮切っても酒の匂いが残るため、白童の苦手な食べ物の一つになっている。
「だが、その、酒粕は……」
「今日は、なので、味噌多めの上、使う酒粕はあぶっておきました。少し風味が違うはずです」
「あぶった……」
「酒は煮切ると匂いも酔う成分も抜けるはずなのです。つまり、粕汁も苦手であるということは酔う成分にかかわらず、苦手ということになります。なぜなのかを確かめたくて」
白童は、手前に置かれたみそ汁の白木椀をそっと持ち上げ覗き込むと、少しだけ膳の奥に置いた。
「やはり、その色と匂いかもしれませんね」
「色と匂い?」
確かに粕汁は白い。その白さを見た時には、もう酒の匂いを想像していた。
「白童さん。少し試してみたいことがあるのですが」
「何をです?」
「目と鼻を覆って、この汁物を飲んでもらいたいのです。少しでいいですから」
「だが、目を覆って飲むのは難しいのでは」
「私が匙で、お口に運ばせてもらいます」
「お、お、お恵さんが」
「大丈夫です。病人に粥を食べさせていた経験があるので、上手に運びますから」
「そ、そ、そういう問題ではなくて」
白童は慌てた。目や鼻を覆うのはいいとしても、目を閉じればとたんに、恵の髪をおろした姿が目に浮かんでしまう。この男装をしてくれてこその、ごまかしだというのに。だが、目の前の真剣なまなざしの恵にそのふざけた理由を言うわけにもいかない。
「……わかりました。お願いします」
恵はあらかじめ用意してくれていた白い布を、白童の後ろから目と鼻を一緒に覆うように巻いた。
「息はなるべく口からお願いします。多分匂いがするだけでも、苦手な気持ちが呼び起こされるかもしれないので」
「承知しました」
白い布の向こうははっきり見えなくとも、光が透けてくるので、怖くはないが、自分では何もできない。
目の前では、どうやら、恵が自分で椀の中の汁の熱さを確かめているようだ。これくらいなら大丈夫と言っている。ということは、恵がいったん口に含んだ匙が差し入れられるということか。
ツバキの花びらのようにしっかりした質感のある、優雅な曲線の唇を思い浮かべ、白童はごくりと唾を飲み込んだ。
「気持ちを穏やかに、匙を運ばせていただきます。お口を開けてくださいませ」
「わ、わかりました」
白童は匙の大きさが思い出せなくて、できるだけ大きく、口をパカリと開けた。
目の前でふふっと恵が笑った気がした。そのあと、匙が舌の上に差し込まれ、ぬるめの汁が口腔内に流れる。
白童は思わず、ごくりと飲み干した。
吐き出すのではと思ってぎゅっと目をつぶって飲み込むつもりだったが、何のことはない、普通の汁のように、滋味が口いっぱい広がり、乾いた喉を潤し、暖かい汁が腹に降りていく。
「う、うまい。いつもの味噌汁よりおいしいです。香ばしい香りがするのはこれは……」
「やはり、大丈夫そうですね。もう少しいいですか?」
「はい」
もう一口差し込まれる。酒の味など少しもしない。それどころか、芳醇な味噌の味が引き立っている。
「椀を持たせてもらえませんか」
「大丈夫ですか?」
「ええ、口元まで持ってきてもらえれば」
もう少し飲んでみたい。
恵は、白童の両手に椀を持たせると、その手に自分の手を重ね、ゆっくりと動かした。椀の縁が口元に当たり、白童はそのまま椀をもって飲み干した。
「飲めましたね」
恵が白童の手から椀を取り上げると、白い布が外された。
汁椀が空になっている。
「いつもの味噌汁よりもずっとうまかった」
「最初の試みがうまくいきました。明日の朝餉も同じものを作ってもらいますから、今度は目隠しなしで飲んでみましょう。それが成功したら、毎日少しずつ酒粕の量を増やしてもらいます」
「なぜ匂いだと思ったんですか」
「初めて小島屋に来られた時、貴方は酒を飲まされたのではなく、かけられたのだと思いました。顔には出ていなかったので。でもすでに具合が悪くなっていた。つまり匂いを吸い込んだのだと思いました」
「そうです。その通りです。島原の天神様で手水屋を陣取っているお方がいて、水を欲しいと言ったら徳利を投げられて」
「島原……」
「あ、違うんです! 違うんです! 人を探していて」
とっさに白童は嘘をついた。天命の相手などという前に筆おろしして来いと玄翼に置き去りにされたなどとは言えない。
「さ、お恵さん。ご飯にしましょう。すみません。私のために、汁ものがすっかり冷めてしまって」
「そうですね。いただきましょう」
恵は丁寧に手を合わせると、箸をとって食べ始めた。ゆっくりとした箸の運び、川魚の身を少しずつ骨から外す器用な手さばきを白童は盗み見ながら自分も食べた。上品な食べ方が白童の母、詩を思い出させる。母は魚の身をほぐすのがとても上手だった。母の味噌汁もそういえば香ばしい匂いがすることがあった。もしかしたら、同じように酒粕を焼いて加えたものだったのだろうか。
「こういった酒粕を焼いて入れる方法というのは、お恵さんが知っていたんですか」
「いいえ、ただ、小さいころ、あのあたりにはたくさん蔵元があって、酒粕は普通に使う調味料であり、私達のおやつでした」
「おやつ?」
「焼いて食べるんです。そうすると酒精が飛んで子供にも食べられるんです。それに元はお米ですから、腹持ちがいい」
養父だったという正次郎が餅を焼くように薄くした酒粕をちぎって焼いてくれたのだと恵は言った。
「白童さん、お酒の匂いが不快だと思った記憶で一番古いものがどんなものだったか覚えていませんか」
「一番古いもの……」
白童はほとんど食べ終わった膳に箸をおくと、何かを思い出すように顎を少し上げて、上を向いた。見上げた天井には煤で黒くなった梁しか見えない。そのまま、少し目を閉じた。酒の匂いのする場所というのはいつも喧騒が一緒だった。誰かが楽し気に飲んでいる場所。宴会だ。自分も宴会の席には座る。というのも、最初から酒の匂いが充満するわけではないし、戸外ならなおさら匂いはしない。
そういえば、小さいころは宴がたけなわになるころ、自分は眠ってしまっていたのではないだろうか。小さいころは特に、そして誰かに抱きかかえられて退場していた。
「もしかしたら、母も酒の匂いが苦手だったのかもしれません。鬼族たちの酒宴はいつも長くて、一緒に食事を始めても母は飲まない人だったので、途中で席を立っていたのだと思います。最初は自分が眠ってしまって抱きかかえられて出ていましたが、そのうち、母よりも自分のほうが先に匂いにやられて、二人で宴会の席を立っていたように思うのです。全く忘れていたのに。小さいころの話など……」
小さいころの記憶に蓋をしたのは、母が亡くなってからかもしれない。思い出すと自然と涙がこぼれ出て、青陽の手伝いにならなかった。だから、あえてなにもかも忘れようとしていた。自分の顔を鏡で見るのも避けていた。母と似た面影を自分に見るのさえもつらかった。
「つらい思い出だったのですか」
恵が、心を読んだように言った。自分が酒に弱いのは亡くなった母の体質を継いでいるからだろうと思うという話はしていた。恵の母親も早くに亡くしたのだとも聞いた。
白童は微笑んで首を横に振った。
「いい思い出ばかりでした。無理に忘れようとしていました。母との思い出は自分を弱くすると思っていて。ですが、今は大丈夫です。お恵さん、ありがとうございます。思い出させてくれて」
白童の前で恵も柔らかく微笑んだ。
恵は翌日から数日間、酒蔵で寝泊まりすることになった。酒造りの工程が佳境に入り、一つ一つを体で覚える必要があったからだ。
実質現場を仕切っているのは伊八一人だったが、彼は今はもう、特殊技能を持つそれぞれの妖の頭に判断を任せていると言った。自分が夜を徹して何日も見ることはなくなったらしいのだが、今回だけは、恵のために全工程を一緒に作業するという。
「大丈夫や。二人で仮眠をとりながら、覚えてもらいたいところを中心に作業を進める。基本、ここは年中作業をしているようなもんやから、寒造りだけやないんやけど、今も都は寒造り以外を推奨してないやろ」
恵はその言葉に頷いた。
酒造は基本、米作りの一環だ。どんなに酒が高く売れようと、農民が米作りを怠っては石高に影響が出る。この国はすべて米本位で回っている。だから、幕府が酒造りは寒造りのみと定めた。農家は春から秋にかけては米を作る。そして、米ができたら、寒造りに限り、酒造りを担う。それが正しい農民の在り方だとされている。
「玄翼さんにここの酒はほとんどが、里の人たちで飲まれてしまうと聞いたのですが」
「うん。そうやな。それは正しいけれど、もう一つ、大事なことがある。ここの諸白の一部は秘蔵の酒としてちょっと特殊な経路で売られている。そんで、その銭があるからここの暮らしが成り立っているらしい。けど、そのあたりは別のお方の管轄や」
「商いを見ているお方がいらっしゃるということですか」
「そうやな。ま、おいおい、いろんなお方が出入りするから、紹介するわな」
「あ、ありがとうございます」
「ほんなら、昨日、話をしたところから、多分、さっきから聞こえていると思うけど、隣の蔵ですでに洗米が始まってるから一緒に見よか」
「はい。よろしくお願いします」
しゃきりしゃきりという音と節をつけた唄が聞こえてきている方へ二人で移動した。
酒造りに必要なものは、大まかには米、麹、水。材料はそれだけだが、洗うためにも、水は大量に、そして最後に酒を絞り、透明な諸白にするためには炭が必要だ。
伊八は都にしろ、どこの蔵元にしろ、大事なことは一緒だと言って、手順と失敗してはならないことを教えてくれた。
まずは作業する蔵や家屋の清掃だ。保存場所にもなっている洞窟の氷室も含めると大きなお屋敷が二つ立ちそうなくらいの作業場所の清掃を伊八一人でやるわけではない。ここも伊八に指導のもと、『あかなめ』という風呂の掃除を得意とする妖がやるのだという。
「人がやるよりずっと綺麗になるで。なんせ、見逃しなしやからな。道具も綺麗にしてくれる」
「道具の清掃も……?」
恵は手元にあるざるを見た。まるで、今、竹を割いて作ったかのように、つやつやしている。確かにどれもこれも綺麗だ。自分にここまで道具を綺麗にできるだろうかと、最初から不安に思ったほどだ。
「お恵さん、最初から言っておくけど、一人で酒を造るのは現実的には難しい。誰かの力を借りなできん。よう考えて仕事覚え」
「はい」
掃除が一人でできたとしても、そのあとは時間との勝負だ。確かに一人では無理だ。米を洗う工程だって、半端なく大変そうだ。
恵は目の前の光景を見ながら思った。さっきからずっと聞こえていたシャキリ、シャキリという音は、米を研ぐ音だった。そしてよく聞くと節をつけた唄が一緒に聞えてくる。
研いでいる後ろ姿は子供のように小柄だが、かれらもまた、妖の一族。『小豆洗い』達だ。たくさんの桶を目の前に置いて、小さな手の中で米を研いでいる。
「おーい。みな、人を紹介するからいったん手を止めてくれ」
そういうと、唄が止み、音楽のようにシャキリシャキリとリズムを刻んでいた手が止まって皆こちらを向いた。
「か、可愛い……六つ子?……」
皆同じ顔をしている。そして、総じて可愛い。年のころはおそらく、十二歳くらいだろうか。おかっぱ頭で丈の短い着物を来た美しい少年たち。
「こんにちは」
真ん中にいた子がそう言い、同時に六人ペコリと頭を下げる。恵も頭を下げた。
「こちらは今日から一緒に作業をする恵司郎さんや、皆の仕事を手伝ってもらう。よろしゅう頼む」
「よろしゅう御頼み申します~」
ほとんど同時に六人のまだ声変わり前の高くて可愛い声が響いた。
「こちらこそよろしくお願いいたします」
「子供の姿はしてるけど、みんな、わしよりずっと年上や。主食はおはぎ。あの子らで作って食べるからほっといてもいいけど。小豆の差し入れは一番喜ぶから、もし、機会があれば持ってきてやってくれ」
「北廻船経由でいただく小豆がおいしかったので、是非、一度」
「小豆?」
「小豆持ってるの?」
「どこ?」
「今持ってるの?」
「どれくらい?」
「洗ってもいい?小豆」
あっという間に恵は小豆洗い少年たちに囲まれた。あまりに愛らしく、頬に血が上る。
「今度、今度持ってきます。今日は持っていないの」
「そうか、じゃあ。今度。約束ですよ」
どうやら少しだけ顔立ちが大人びた子がこの中の年長さんらしい。彼の言葉で、六人は散って米研ぎに戻る。
恵も伊八の指導で、米研ぎを始めた。
酒造りは、米を磨き、米を洗い、米を蒸す、蒸した米の一部は麹になり、一部は醪という酒に発酵させるための酒母となる。さらに、三回に分けて水と蒸米、麹を足して、醪を増やしていく。
まずは洗米から、麹をつくるまでが一区切りだった。
洗米は小豆洗い達と一緒にひたすら米を洗う。彼らが唄う短い「米洗い唄」を歌って時間を図り、何回目かの途中で水揚げする米があったり、なかったり、唄を覚えて唄のどこで水を上げたのかを覚える。そのあと、一晩乾かした米を今度は蒸す。
蒸し器は人が何人もはいるような大きな窯に甑を置いて蒸す。今度は『まめだ』という猫の姿をした妖怪たちが温度管理をしながら、麹米を作っていく。まめだはむかしから酒蔵にいるといい酒ができると謳われた妖怪だ。実在していることを知って驚いた。しかも、姿形は全く持って猫なのに、伊八と言葉を交わしている。
二足としっぽのバランスで器用に歩き回る本物の猫だ。
この時はひたすら暑かった。人は伊八しかいなくとも男で通すため、着物も脱がずに頑張った。暑い麹室で一度貧血を起こして、氷室蔵で休ませてもらった。
それからはこまめに水を飲み、汗を取るなどして策をとった。修行で倒れていてはこの先やっていけない。
伊八は無理をするなと何度も言ってくれたが、今無理をしなくて、いつするのだと自分に言い聞かせた。
こんな特殊な環境でなければ、今、国中どこを探したって女の蔵人を雇ってくれるところなどない。
麹は蒸米に麹だねをまんべんなく巻き、菌が繁殖するのを待つ。繁殖すれば、どんどん温度が上がる。だが、温度が上がりすぎても下がりすぎてもいけない。温度の見方は自分の手を入れて感触でつかむ。
まめだ達の鼻はさすがに猫で、少しの変化でも検知する。彼らがいい温度の時には恵の手を引っ張り、ここにいれてみろと言わんばかりにいうので、清潔な手でその米をさわり、温度を肌で覚える。時に温度が上がりすぎているときにも、夜中に呼び起こされ、まめだと一緒に団扇で仰いで麹をさます作業をした。何度か積み替えをして、丸二日でいい状態の麹を作る。
「ええやろう。次の工程に入ろう」
まめだ達が作り上げた麹の状態を見た伊八が言った。
次の工程は、醪の元になる酒母と言われる麹、蒸米、水を加えたものを作る。ここは毎日の作業のため、いったん、恵は施薬院に帰ることになった。そろそろ、白童の酒修行も次の段階にはいっていいころだ。
「親方、少し甘口の諸白があれば、持って帰ってもいいでしょうか」
「ええけど。飲むんやったら、あんた、辛口がええんとちゃうんか。そんな顔してるで」
伊八はにやりとしていった。確かに自分が飲む時は香りを殺さない程度の辛口が好きだ。だが、自分のためではない。
「いいえ、私は修行が終わるまでは飲まないつもりです。ですが……」
恵は自分の計画を手短に話した。
伊八は俯いて、じっと恵の話を聞いていた。
話し終わっても伊八は顔を上げなかった。恵は心配になった。いくら、本人が望んでいるからといって酒の耐性を鍛えるなど、体にはよくない。だが、焼酎への耐性をつけて、何より医者修行を再開したいという白童の気持ちは痛いほどよくわかった。単に、家業のためやら、周囲の信頼を得るためやらという最初の理由は恵にも承服しかねたが、一人でも多くの人の力になりたいという白童の気持ちには、感じ入った。
そして、自分がずっと望んでいた酒造りの修行をする場所をこうやってようやく与えてもらえて、どれほど感謝したかわからない。白童に恩返しできるならしたい。
「うまくいくかはわからないのです。杜氏、駄目なら無理はしないつもりです。何より体質の問題ですから」
伊八は俯いたまま、貯蔵の氷室に去っていった。
怒らせてしまったのだろうか。ここにいる人間は皆、一度は大江山に迷い込んだ人だと聞いている。白童が悲田院や施薬院で面倒を見ていた人たちだと。なら、伊八もそのうちの一人だ。親方にとってもきっと命の恩人に違いない。
「杜氏……伊八杜氏……」
恵は氷室蔵の戸口に立って伊八の名前を呼んだ。
ここへの入室はまだ許されていない。具合が悪くなった時に入っただけだ。
暗い中、伊八が戻ってきた。
手には徳利を持っている。
恵の手にその徳利をしっかりと持たせた。その手を拝むように包んだ。
「杜氏……」
「先生のこと、よろしゅう頼むわ」
顔を伏せたまま鼻に詰まった声が下から聞こえる。恵は思わず、その手を上からもう一度包んだ。見た目よりもごつごつしていて、なおかつ年季の行った手の甲が温かい。
「わしがこうやって酒をつくれてるんも、先生のおかげやから。もう二度と杜氏なんぞできんと思ってたのに……あの先生が……」
顔を上げた伊八の顔には皺に阻まれながらもとつとつと流れゆく涙で濡れていた。
「……お前たち……」
恵の後ろに伊八が声をかけた。
後ろを振り返ると、まめだと小豆洗い達が一列にならび、恵に頭を下げている。後ろに幽霊のように立っているのはもしかしたら滅多に姿を現さないという『あかなめ』かもしれない。
恵は自分も手ぬぐいを首からとって頭を下げた。
これは大変なことを請け負ったのかもしれないと恵は思った。
白童の立場は一体どういったものなのだろうか。もう一度確認する必要がある。
もしかしたら、白童自身が自分の立場に気づいていない可能性があるのではないだろうか。恵は伊八から渡された徳利をしっかりと胸に抱えた。
夕日が落ちてきた薬草園で作業をしながら、しまったと白童は内心思っていた。
薬草の世話を手伝うと言ってくれた朱峰にちょうどいい機会だと思い、雑草を引き抜きがてら、鬼の将来についてどう思うかを広く聞いてみた。
「今思いつくだけでも十を超えるのだが、こんな機会はめったにない。全部聞いてくれ」
そう言った朱峰はほとんど一日しゃべり通しだった。昼の握り飯を食べている時も、話を途切れさせることなく続けた。とうとう、薬草園には一本の雑草も生えていない上、成長の妨げになりそうな小石も全部取り払われてしまった。
もちろん収穫できる薬草はすべて収穫し終え、乾燥させるための棚にすべて並べ終わった。
日が傾きかけたところで、やっと少し話が途切れた。白童はすかさず礼を言って話を止めた。
「朱峰がこんなに将来のことを考えているのなら、もっと早く話をすればよかった」
「ここまでは、商い中心の話だったが。もう一つやりたいことがある。鬼の人間社会の中の位置付けを修正したい」
「位置付けというと?」
「悪しきものの象徴として後世に語り継がれるのをなんとかして修正したいのだ」
修正したいというのはどういう意味なのだろう。朱峰達が上手に商いをしてくれているおかげで、大江山での暮らしに不自由はない。特に、悲田院と施薬院を維持できているのは、朱峰がこの里でできる農産物を銭やそのほかの物資に変えてきてくれているからだ。最も実入りのいいのは、酒と味噌。
朱峰が本気を出せば、おそらく、都の商売を取りまとめるくらいのことはしそうだ。
「本当に怖いのは鬼ではなく、人だと思わないか」
朱峰は言った。
「人を売り買いするのも人。家族を山に捨てるのも人。それに対して、人を食うと言われてきた鬼。本当にいなくなってほしいのは人を粗末にする人ではないのか」
「朱峰……」
「私は人と交わって生きていくなら、高みを目指したい。高みを目指さねば、世の中は変えられないからな」
「高みを目指すというのなら、人里に降りて武士にでもなろうというのか?」
「武士? 今の世の中、本当に力を持っているのは武士じゃない。本当に力を持つものは知恵を持つものだ。そして、この国だけの知識では足りない。白童、お前がやろうとしているより高度な医術の知識だって、きっとこの国以外の知識を得られれば、よりよい治療ができる。私はもっと広い世界を見たい。もっとたくさんのことを知りたい。そうすれば、我々が何をすべきかおのずとわかってくる」
「朱峰……」
朱峰の考えは遠く、高く、深い。目の前の人を救いたいという白童の単純な思いよりも壮大だ。あまりに壮大過ぎて白童には朱峰の人の世に溶け込む様子が想像できなかった。朱峰は理想ややりたいことをたくさん語ったが、自分自身の近い将来については何も具体的に語らなかった。山に居続けるつもりなのだろうか。それとも、一足飛びに国を出てもっと広い世界を見ようとしているのだろうか。
悲田院の庇から湯気が立ち上った。夕餉の支度が始まっている。外の空気も冷えてきた。
白童は朱峰を促していったん施薬院の中に入った。白木の椀に白湯を入れて一息入れる。
椀を見て、今日の夕餉を思い浮かべた。
この数日、ずっと粕汁が夕餉に出されている。毎日少しずつ粕の量が増えている。確かに最初匂いを嗅いだ時には、遠ざけてしまったが、自分が匂いを嗅ぐことなく飲んでみれば、それは美味な汁ものとして素直にのどを通った。しかも、体が温まる。
施薬院と悲田院では滋養をつけさせるためにも、消化の良い具材の粕汁を病人に出してもらっていた。頭ではその効能を理解していても、酒だという感覚で白童は遠ざけていた。
白童は、この食べ物に対するよい点と匂いの記憶を結びつけるようにした。すると数日たつと、匂いへの抵抗が薄らいできた。その匂いは体に良いという記憶のすげ替えに成功したように思えた。
恵に早く報告したい。早く会いたい。
なぜこんなにも彼女のことで頭がいっぱいなのだろう。やはり彼女は天命の人なのだろうか。そもそも天命とはいったいなんなのだろう。父と母のような夫婦になりたいと思っていたことがまるで遠い昔のようだ。心が自在に形を変える迷路にいるようだ。
「白童? 大丈夫か。今日はこれで失礼するが」
白湯で温まったといった朱峰が続けた。考え事が昂じて朱峰がいたことを忘れかけていた。
「あ、ありがとう。また話の続きを今度聞かせてくれ」
「こんなにも考えていたことを話せたのは初めてだ。楽しかった。これからもよろしく頼む。それはそうと、どこか具合が悪いのか? 顔が赤いぞ」
朱峰が白童の顔を覗き込んだ。
「あ、そんなことはない。元気だ。けど、朱峰、聞きたいことがある」
「なんだ?」
「天命の相手にあったことがあるか?」
「は……?」
朱峰の星熊童子の一族は本人も常日頃言うように知識の集積を重んじる血筋だ。人、妖にかかわらず、嫁も、婿も、知識を蓄えた、もしくは知識にどん欲な者たちと縁を結んできた。海の向こうの高僧を婿にした鬼女もいるほどだ。だが、まだ、朱峰が嫁を貰ったとは聞いていない。蒼親が早々に何人も嫁を迎えているのだから、一人くらいいてもよさそうなものなのに。
「多分、まだ、そのような相手には巡りあえていないのかもしれない。それに、今の私にはあまり興味がない」
「興味がない? 誰かを好きになったこともないのか」
「ないこともないが。ま、そういう意味ではまだ天命の相手には会っていないのだろうな。では、また」
朱峰はそういうと、施薬院のあいた扉から外に出ようとした。
「あ!」
扉の向こうから顔を出したのは、恵だ。
白童の方を見ながら出ようとした朱峰とぶつかりそうになり、恵が体をそらせ、朱峰がとっさに背を低くして衝突を避けた。
「失礼いたしました。お怪我ございませんでしたか」
恵が朱峰に手を差し伸べた。
朱峰はその手を取って、立ち上がった。大きく見開いた恵の瞳が左右に揺れた。二人が手をつないで見つめあっているように見えて、白童は慌てて二人の間に入った。
「け、恵司郎さん、おかえりなさい。朱峰、こちら、今、酒蔵に修行に来ている小島屋の主人だ。朱虎に店番をお願いしている、都の請負酒屋の恵司郎さん。こちら、星熊朱峰。同じく鬼族で、朱虎の主人だ」
白童はお互いの属性をわかるように紹介した。恵はそれを聞くと、首に巻いていた手ぬぐいを取り、深く、頭を下げた。
「朱虎さんの御主人様ですか。この度はありがとうございます。手前どもの修行のために、優秀な番頭さんのお力をお借りできて、大変に助かっております。なんとお礼申しあげていいやら」
「貴方が、小島屋の。こちらこそお初にお目にかかります。玄翼から聞いております。こちらこそ、都の請負酒屋の番頭はとても興味深い仕事です。朱虎からは毎日のように報告がきています。多種多様な品揃えの請負酒屋で客の途切れがないと。近所の方に評判のお店で、恵司郎さんのことも何度も聞かれるのだそうです」
「それは恐縮です。お店のことをおほめにあずかり大変うれしゅうございます」
「それは、もしや、伊八さんの諸白なのでは?」
朱峰が恵の手の中にある徳利を見て言った。
「はい」
「では、白童の秘密の修行に付き合ってくれているというのはまことのこと」
「あ、いえ、その」
恵が言葉を濁している。どうしたのだろう。酒蔵で何かあったのだろうか。
修行の成果は自分次第なのだと、白童が言いかけたとき、朱峰が片膝をついてもう一つの膝は立て、恵の前に体を折った。
「え? 朱峰さん?」
朱峰は恵の手の指先だけを恭しく取って、手の甲に自身の唇を当てた。
「朱峰、何を!」
「感謝の意を表したく、恵司郎さんの本当のお国のご挨拶だと聞いたことがあるのです」
「朱峰さん……」
恵の目が動揺に揺らめいた。
「その瞳の色はこの国の人ではないのでしょう? 誰にもいいません。ただ、貴方が遠い国から来られ、我々に力を貸してくださっていることに感謝したい」
「お、恐れ入ります」
恵の頬に赤味がさした。徳利を持つ手が震えている。
「もしよろしければ、いつか、お国の言葉やお国のお話を聞かせてもらえませんか」
「ええ、私でよろしければ、ただ、小さいころのことで、覚えていないことも多いのですが」
「もちろん。覚えてらっしゃることだけで結構です。ああ、楽しみが増えた。では私はこれで。白童をよろしくお願いいたします」
朱峰はペコリと頭を下げると、そのまま施薬院を出て行った。
恵が、土間に座り込みそうになり、今度は白童が支えた。
「大丈夫ですか」
「ありがとうございます。大丈夫です」
「朱峰はいつも新しいことに心を向けるやつで、不躾なことを」
白童が支えて、上がり框にようやく腰かけた恵が首を横に振った。
「いいえ。確かに。ああいった挨拶は幼いころ、身近に見ていた気がします。身分の高い人へ忠義を立てる形でもあります。ただ、この国では誰かの肌に触れることを人前では憚りますし、私ももうそれに慣れてしまっていました。朱峰さんが私の国の習慣を知っていらしたことに驚いてしまって」
「すみません」
「いえ、本当に皆さん白童さんのことを大事にされているんですね」
「そんなことは」
「こんな私にさえ、あんなに礼をつくしてくださるんですから。ちょっと驚いたのは、私が女性だとばれたのかと思ったのです」
「どうしてですか?」
「男性が女性を前に膝間づいて、手の甲に、あの、触れるのは、思慕を伝える時にする挨拶の仕方でもあるので」
恵が徳利を丁寧に上がり框に置いたあと、両手を胸に当てている。
「本来は男が女に思慕を伝えるしぐさなのですか」
「ええ、父が母にそうしていた場面を覚えています」
恵はそういうと、胸に当てていた両手を無意識のようにほてった頬に当てた。
「あれ、恵司郎さんもおかえりでしたか」
美和がそう言って、施薬院に入ってきた。
手には箱膳を持っている。中から粕汁のいい香りが漂っている。今日も少し酒粕が増したようだ。
「お美和さん。今日からは通いになりました」
「それは良かった。若先生、お待ちかねでしたよ」
「お、お美和さん」
「あれ? 本当のことでしょう? 私がお膳を持ってくるたび、ため息なんかついて。お志乃ちゃんが持ってきても、ため息ついてたって聞きましたよ」
「そ、そんなことは」
「いいんですよ。隠さなくっても。さ、今日も粕汁ですよ」
すんと、匂いを嗅いだ恵が、白童に向かってにっこりした。
「お美和さん、お願いした通りに作ってくださっていたんですね。ありがとうございます。それと、盃の水も」
「え?この盃、水ではなかったのですか」
夕餉にいつも小さい盃の水がついてきていた。美和からは最後に飲むように言われて飲んでいたがずっと水だと思っていた。
「それ、実は少しだけお酒を混ぜてもらっていたんです」
「えええ、知らなかった」
「空腹で飲むと匂いが鼻につきやすいですが、薄めれば匂いも薄らぎますし、満腹だと恐らく、酔いにはつながらないだろうと思って」
「知らなかった……ありがとうございます」
「こんなことくらいなんでもありません。今日ので、大体、私たちがよく作る粕汁と同じ配分です。色も相当白くなりましたけど、先生、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。こんなにおいしいものを避けていたとは本当に残念なことをしてきたものです。それはそうと、足のほうは? もう普通に歩いているようですが」
「ええ、もう、すっかり。ま、ゆっくり歩くようにはしていますけどね。もう年ですから」
そういった美和の手から白童は膳を受け取った。
「恵司郎さんのもすぐお持ちしますよ」
「あ、私、取りに伺います」
と、恵が出ようとしたところに、おさげ髪の年長の少女が姿を現した。手にはもう一つ膳を持っている。
「あ、お志乃ちゃん」
「玄翼様が来られて、こちらにお泊りの方がもう帰ってこられたとおっしゃってたので」
「相変わらず気が利くね。ほんとに、こんないい子、滅多にいませんよ。先生、早く何とかしてあげてくださいね」
「ああ、わかっているよ。お志乃とよくよく話をしてから一番いい方法を考えるから」
「お願いしますよ。私ももう長くないから、早く安心させてくださいな」
「そんな縁起でもないこと言わないでくださいよ。お美和さん」
そんな会話をよそに、志乃が恵に盆を渡している。
礼を言いながら、受け取った盆を恵はいったん、上がり框に置いて、志乃の方に向き合った。何か気になっているようだ。
「あの、お志乃さん。……もしかして、もしかして……巳之助さんところのお志乃さん?」
志乃の肩がぎくりと動いた。慌てて、美和の後ろに隠れている。
「恵司郎さん、お志乃をご存じなのですか」
白童が聞いた。
「ああ、良かった……無事でいてくれて……」
恵は何度も頷くとその場に座り込んでいる。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
座り込んだまま、恵は謝り続けている。志乃に対してだろうか。
「もしかして、おとっつあんが通ってた酒屋さんの……」
「お志乃ちゃん、恵司郎さんを知ってるのかい?」
美和が聞いた。
「直接は知らないけれど、一度だけおっかさんに言われて、酔っぱらって家を出てったおとっつあんを探しに行ったことがあるの。小島屋さんに」
「お志乃、心配ない。この人は酒造りの修行に来ているだけで、お前を連れもどそうとして来ているのではない」
恵も立ち上がって、頷いている。
「うん。ちょっとびっくりしただけ。先生、この人はお金の持っていないうちのおとっつあんに酒を売らなかった人なの。つけでも売るお店はいっぱいあったのに。この人ちゃんと断ってくれていた」
「でも、でも、だから……お志乃さんが……ごめんなさい……」
恵は志乃が遊郭に売られた経緯を知っているのかもしれなかった。
だが、涙でまともに声が出ていない。
白童は、恵の背中をそっとさすった。しゃくりあげた恵の嗚咽がだんだんに小さくなる。
ぐっと手ぬぐいで顔を拭くと、しゃんと顔を上げた恵が言った。
「お志乃さん、生きていてくれてありがとうございます。白童さんも、お美和さんも、お志乃さんをここでかくまってくださって、ありがとうございます。私、巳之助さんが、酒代の工面のために、してはならないことをしたと聞いて、探しに行ったんです。でも、貴女は行方不明になった後で……本当にごめんなさい……」
恵は志乃と美和に向かって深く頭を下げている。
それを見ていた志乃が美和の背中から出てきて、恵の手にそっと触れた。
恵の濡れた瞳がはっと志乃をとらえた。
「恵司郎さんのせいではありません。それくらいわかります」
「でも……」
「白童先生。家のおとっつあんは酒で身を持ち崩していた。誰にも止められなかった。それだけ」
「お志乃……」
「先生、家族以外にも私を心配してくれていた人が都に居たんだね……」
「お志乃ちゃん……当たり前じゃないか。きっともっとたくさんいるよ。あんたが帰ってくることを待ってる人が都に」
そういって、美和が志乃を抱きしめた。
「さ、私達はあっちで食べますから、お二人ともゆっくり食べてくださいな。お志乃ちゃん、行こう」
「はい、お休みなさい。白童先生、恵司郎さん」
志乃はそう言ってペコリと頭を下げた。その顔は笑っている。志乃が笑っているところを見たのは久しぶりだと思い、白童も頬が緩んだ。
すっかり冷えた膳を二人で囲む。
恵は食事をしながら、とつとつと志乃の父親の話をしてくれた。
金を持っていない、酒に飲まれた人間に絶対に酒を売るなと先代に言われており、その言葉を守ってきたのだそうだ。だが、それが裏目に出た。金を作るために娘を遊郭に売るとは思わなかったのだと。借金をしてでも、なんとか彼女を取り返しに行こうと思って島原に探しにいったのだと言った。
白童は、最初、酒に強くしてほしいと恵に弟子入り志願したとき、強く拒絶された理由が分かった気がした。
それにしてももう一つ気がかりなことがあった。
施薬院を出た先で、美和が咳をしていた。
移ったのではないだろうか。白童の胸に嫌なものが渦巻く。
先日の地震の後、衰弱して山に迷い込んだ老人を世話した。
彼は流行り病を患っていたようだったため、白童と美和とだけで顔に覆いものをしながら世話をした。結局三日も持たずに亡くなった。
美和に流行り病が移ったのではないだろうか。あとで様子を見に行って、咳止めの薬を処方しよう。白童は思った。
そして、今日からまた恵と一緒だ。
だが、いざ、会いたかった恵の姿を見たら、上手に接することができるのか自信がない。
朱峰のあの特殊な挨拶を見てしまってからは特に、胸がざわついた。朱峰は恵が女性だとは知らないはずだ。なら、あれはやはり、朱峰が言った通り、敬意を表しただけなのだろうか。
時々、朱峰がわからなくなる。蒼親のほうがまだわかりやすい。
白童は鬼族が一番大変なのかもしれないと言った、玄翼の言葉を思い出した。




