七杯目 『恵司郎、とうとう修行の場所を得るの巻』
それからの数日は恵にとって、人生の中で一番忙しい時間となった。潔く店を閉めて山に行くつもりだったが、反対したのは玄翼だ。
小島屋の商売を続けておけば、当面の稼ぎになる上、小島屋の諸白ができたときに売り出すための場所になる。理屈には納得しても請負酒屋として任せられる人の当てはいないという恵に、玄翼は「問題ありません」の一言をいうと、次の瞬間にはどこから現れたのか、番頭風の男が一人現れた。朱虎と呼んでくれといった小柄な彼が今日からお店を切り盛りしてくれるという。
朱虎は白童と同じ里の鬼の末裔の眷属だという。恵は玄翼に促されるまま、丸一日かけてできるだけ詳しく、仕入れやお得意様の情報を伝え、仕事を覚えてもらった。恵でないとできないことは、朱虎が大江山に使者を飛ばすことになった。使者と言っても、大江山には急いでも丸一日はかかる。いや、もっとかかるかもしれない。なにか手段があるのだろうが、想像つかなかった。大江山に来るまでは。
天狗は呪術を使ったのかもしれない。
なぜなら、自分と白童は玄翼と玄翼の眷属だという弁慶に連れられ、目を閉じた一瞬のうちに山に移動したのだから。
そして、女子だと明かしたものの、玄翼と相談の上、これまでと同じ男装で山に行くことになった。一つには女子の姿だと白童は近寄ってくれず、意思疎通も難しいからだ。大江山では白童が住んでいるという人が住む施薬院というところに身を置くことになったのだが、意思の疎通を図れないのは困る。その上、酒蔵での仕事は男が中心だ。杜氏には女子だとは伝えるが、男装のままのほうが皆も接しやすいだろうということになった。
恵が店を突然他の誰かに任せることについては、三人の顔が浮かんだ。妹の凛と平右衛門そして不思議な常連客、零条信理だ。恵は凛と平右衛門当てに便りを書いて出した。満月前後にやってくる零条には手紙を書いて朱虎に渡しておいた。
本人が恵に素性を明かしたことはないが、先日、刀の脇に十手を入れているのが見えた。やはり勤め先は都の奉行所なのだろう、なら、この地震で忙しくしているだろうから、来ない可能性もあると思う。だが、このまま、別の請負酒屋に鞍替えされるのは寂しい気がした。
どちらの手紙にも、都の北の酒蔵で酒造りの修行に出ることにした、暖かくなるころまでには戻ってくるというような内容だ。
毎日のように来る菊や近くの長屋の職人たちの顔も浮かんだが、常連客にはしばらく留守にする理由を書いた手紙を朱虎に渡しておいた。だれに見せてもらってもいい旨を伝えて。
玄翼によると、朱虎は普段、出来上がった酒を取引する親分の元で働いているというので、白童などよりもずっと酒に詳しいらしい。なるほど、何を言っても、酒関係の言葉や店の切り盛りの内容で飲み込めない事柄はないようだった。人当たりもよく、頼もしい。
妖の里だというから、一緒に働くのは妖ばかりなのだと恵は思っていたが、違った。一番驚いたのは、杜氏が正次郎の知り合いで、正真正銘の人間だったことだ。
玄翼に連れられて訪れた酒蔵で迎えてくれたのは五十路を過ぎたあたりの職人。名を荻野伊八と名乗った。
恵は作業を中断させて申し訳ないと伝えつつ、挨拶をした。
「都で小島屋という請負酒屋をしております。恵司郎と申します」
「小島屋さん! あの、出屋敷組の小島屋さんかい?」
「はい、さようです」
出屋敷組というのは、京の都での酒造組合のようなものだ。都の南西の地区のことをいう。寺では西本願寺や東寺周辺。そして、島原の北側あたりまでを管轄している。組合の名前をこの地で聞くとは思わなかった。
「なんと、あんた正次郎さんの倅か? こんな立派な跡継ぎがいたとは」
「父をご存じなのですか?」
伊八は若狭の荻野屋という酒蔵を営んでいた。若いころにその酒蔵に修行にきていたのが正次郎だという。
「あの後どうしたのかと思ってたんや」
「あの後というと?」
「いや、かみさんが亡くなって、子供の面倒を見なくちゃならんから酒造りを休んで、酒の請負商売を始めたっていうのは聞いたんやけど、いつかまた、荻野屋で使ってた米を使って酒造りを再開したいっていうてたから」
「そうだったんですか」
恵は初めて正次郎に家に着いた時のことを思い出した。家の中は線香の匂いがしていた。朝夕、短くした線香に火をともし、その煙が消えるほんのひと時を、正次郎は位牌に向かって手を合わせていた。小さい凛が、おっかあは仏さんになってしまったから、おまんまのかわりにお線香が必要なのだと言っていた。凛は足を崩して一緒に正次郎と、両手を合わせていた。
天に上った者に向かって手を合わせるというしぐさは世界中どこも同じなのだろうかとぼんやりと思った。恵も凛ぐらいの年に母を失くしていた。母が亡くなって自分はしばらく部屋からも出てこなかったのに、凛は気丈にも正次郎と一緒に祈りをささげていた。
―ケイト、一緒に船に乗るかい―。
ダッドは言った。
英国で、母を失ったあと、父は若くてしっかりした女性の教育係を自分のために雇ってくれていた。自分のための話し相手になるようにと人選していたのはわかっていた。けれど、自分は誰にも懐かなかった。懐いてしまったら、父がその人と再婚するというのではないだろうかと思ったのだ。いつまでも自分の父でいてほしかった。
誰にも気を許さない気難しい娘を見ていて、父は仕事に連れていくことにしたようだ。幸い、厳しい教育係のおかげで、恵の学習は十二にしてすでに大学の予備教育を受けられるレベルに達していた。頭でっかちになるより、外に出たほうがこの子のためになると父は思ったのだろう。常に父の後ろ姿を追いかけていた一人娘だった自分は二つ返事で一緒に行くと言った。
手を合わせる凛の後ろ姿を見て、自分の姿と重なり、声を出して泣いたことを覚えている。自分達にはわからない言葉を言いながら泣く恵に、正次郎は胸を貸してくれ、凛は長い間、恵の手を握っていてくれた。
「伊八さん、私は正次郎さんの実の子ではないんです」
「へぇえ養子さんかい?」
「ええ」
「それと、恵司郎さんは女子だ。本当の名前はお恵さんだ。このことは内密に頼む」
玄翼が言葉を挟んだ。自分では言いにくいと思ったのだろう。
最初はひええとのどのおくから声がでて、まじまじと恵を見ていた伊八は、にやりとして、そのあと豪快に笑った。
「いやはや! 昔の酒造りは巫女さんの仕事やった。米を口に含んで天然の麹を作って、酒を造ったんやで。ま、でも男の格好をしてくれていたほうがなにかとこちらも助かるけどな。仕事きついで」
「承知の上です、よろしくお願いいたします」
「恵司郎さんは白童の客人でもある。杜氏、頼んだぞ」
「先生の? そりゃ、私にとっても客人や」
「いえ、伊八さん、私は酒を造れるようになりたいんです。どうか、厳しく導いてください」
「ま、ここの酒造りはちょっと特殊やけど、都で酒を造りたいっちゅうんやったら、それなりに教え方を考えます。ちょうどええわ。明日から今年の新米の洗米ですねん。次の次の満月くらいまでに多分、この新米最初の諸白ができあがります」
約一月あまり、恵の最初の勝負の一か月が始まろうとしていた。
数日前まではまだまだ日差しが暑い日もあったのに、朝晩はずいぶんと冷えるようになった。山の冷え込みは特に厳しい。
白童は久しぶりに帰ってきた酒天の館の前にいた。母が生きていたころはここに住んでいた。広くはないが、父と母と、白童、三人と数人の妖達がすむには十分な広さだった。薬草園がなかった時に、母はこの中庭に薬草を植えていた。
今もあるのだろうか。
白童はゆっくりと玄関や廊下を歩きながら懐かしく思い出していた。
大江山に帰ってきてすぐにでも銀童に会いに行くようにと言われたのだが、何よりも恵司郎の世話を優先させてくれと玄翼に折れてもらった。
男装のままの恵を悲田院の皆に紹介し、身の回りの支度を整え、その日は施薬院に泊めた。自分は施術室に布団を敷き、彼女には空いた患者用の部屋で寝てもらった。玄翼からも、酒の修行を兼ねるのだから寝起きは一緒がよかろうと言われたのだ。おかげで一睡もできなかった。
男だと思っていた時には全く普通に接することができたというのに、なぜにこうも急に立ち行かなくなるのだろう。妖の姫達とはあまり緊張しないのだが、特に人となると余計に緊張する。
今日から恵も蒼親の館にある酒蔵に修行に出かけた。
一緒についていくつもりをしていたのだが、玄翼に断られた。一緒にきて酒の匂いでぶっ倒れること間違いなしの顔色だと言われ、もっともだと自分でも思った。
銀童の部屋には先客がいた。
今までなら最も会いたくないと思っていた長老たちだ。だが、今は違う。毎日のように父を見舞ってくれる長老たちにはどれほど感謝をしてもしきれない。
昔は大きい人に見えていたのに、杖を突いた彼らの影はひどく小さく見えた。年を取ってきたのだ。長老たちの世代交代も始まろうとしている。
「白童、ひさしぶりじゃな」
「がけ崩れがあったようだが、施薬院は無事だったとか」
狐狸族の長老、海狸孝三郎と河童族の長老、河田辰之助だ。どちらも古希をとうに超えているが、いつ見ても矍鑠としている。もっとも種族の特徴で、背筋が伸びていても背丈は白童の半分くらいだ。白童は腰をかがめつつ丁寧に礼をした。
「大変ご無沙汰していて申し訳ありません。父の見舞いをいただき感謝しております」
「うむ。狐狸の里にも顔を出してくだされ。歓迎いたしますぞ。今年も山では実りが豊かゆえ、柿も栗も豊作じゃ。馳走いたそう」
「いやいや、河童の里へもどうかお寄りくだされ、よく太った川魚も取れますゆえ」
「はい、ご相談したいこともあるので、近いうちにお伺いいたします」
二人とも頷いて、門を出て行った。
「白か」
部屋の奥から声が聞こえた。父は、母がよく「はく」と呼んでいた呼び方をまねて呼ぶ。小さいころに呼ばれて以来だ。白童は返事をする代わりに、部屋に入って、床の傍に座った。
床に横たわった銀童は、目を閉じている。
生まれたときから髪が銀色だったらしく、銀童という名前が付けられたと聞いている。だが、その髪は今や銀ではなく、白い。太い眉もあごひげも真っ白だ。
鷲鼻に毛虫のような眉とへの字の口元。口元の両脇から牙を出せば、鬼の形相そのものだ。だが、笑うと目は途端に細い三日月が二つ並び、口元には大きな上弦の月が結んで、人懐っこい顔に様変わりする。
昔は笑っていないときの父に近づくのは怖かった。そういうと、白童の顔を見ると、すぐに笑ってくれた。だが、今は、いかめしい顔で寝ていても、どこか、柔和な表情が浮かぶ。
「お加減いかがですか」
「悪くもないが、良くもないよ。皆が騒いでいる通りあまり長くはないな、それは本当だ」
ゆっくりと瞼が上がって、その瞳が白童の方を見た。その口元がゆっくりおわん型に曲線を描いた。
「お前はいつ見ても、詩、そっくりだな」
「お父さんに似たところは一つもありません」
「そんなことはない」
ため息をつくように銀童が言った。
「気質は私にそっくりだとよく詩が言っていた」
「母上が……」
自分のことを母がそんな風に言っていたことは知らなかった。詩は、白童の前で自分の思っていることを滅多に言わなかった。幼いころのしつけは厳しかった。だが、物心がついてからは自主性を重んじる教育を受けたように思う。詩は自分の意見が必要以上に子供に影響を与えると思っていたようだ。確かに、いつも母親のことを気にしていた自分がいる。母が大好きだったのだ。それは自分だけではない、詩は人間にも妖達にも好かれていた。
施薬院で治療を受けていたお年寄りの手伝いや、悲田院に保護されたやせ細った幼子の面倒も、一度も手伝えとは言わなかった。けれども、里から流れてきてしまったり、捨てられてしまったりする人たちに無償の愛を注ぐ母を見ていて、美しいと思った。最初は母の近くにいたくて手伝っていたのだと思うが、自ら進んで水汲みや、給仕、洗濯を手伝ううち、誰かが元気になっていく姿がうれしくなった。
手伝う理由を聞かれて、素直に、元気な人の笑顔を見たいと言った。苦しんでいる人を、元気にしていく手伝いをしたいと。
それから母は積極的に手伝うことを許してくれた。青陽が来てからは特に医術に興味を持ち、どこからか仕入れられる医術や本草学の書物を青陽の指導に従って読み、実際の治療の手伝いをし始めた。
特に痛がって苦しむ金創治療中の患者を押さえておくことや、薬草園の世話、収穫など、力のいる仕事は母よりも背が伸びた自分が進んでやっていた。そういえば、青陽が来たのと入れ違いに父は、施薬院には来なくなっていた。
不仲でもなかったのにと思ったが、なぜ急に来なくなったのかは聞いたことはない。母の最期も看取ったのは自分と青陽で、報告を受けた銀童はちらりと母の亡骸を見に来ただけだった。多分、あの頃から自分は父に腹を立てていたのだ。
銀童は考えていることを見透かしたように、布団の中で、わずかに首を動かした。
「私も詩とともにあの場所で一人の妖でいられたらよかったのにと思っていた。ただの一人の鬼なら、別に、この山を守ること、日ノ本の妖全員の行く末のことを考えなくてもよかった。あの場所さえ守っていればよかった」
「父上」
「なぜ私がこの山の主を継げといったのか、わかるか」
白童は玄翼の、あそこを守りたければ、自分が主になるべきだと言った言葉を思い出したが、それも違うような気がしていた。頭ごなしに継げと言われたことで、自分が大事にしていたことを否定されたような気になっていたが、銀童にはもっと深い理由があるように思えた。
白童は素直に首を横に振った。
「そうか、少し、昔話をさせてくれ。私の祖先の鬼の時代、人の世は戦ばかりで、妖達は人と別々に暮らしていればよかった。人は怪しいものの現象をすべて我々のせいにし、決して近寄っては来なかった。だが、世の中は変わり始めた。人の世に戦がなくなり、無用に傷つけ、命を落とす人も少なくなる代わりに、貧しさから山で命を落とす人が増えた。戦で山に分け入るやからは勝手に死んでいってくれればよかったが、そうでないものはいったん保護し、山から安全に降ろしてやる必要があった。我々は結界の張り方を考え直す必要があった」
「結界の張り方?」
結界は基本、我々の里をだれからも見えないようにするためのものだと思っていた。ふもと近くに足を踏み入れたもので、年寄りと子供はほぼもれなく天狗族が保護してくるのだと。けれど、それも違うのだろうか。
「玄翼たちが保護してくる人たちはすでに結界の中にいるということですか」
銀童がゆっくり頷いた。
「白、お前はどんなふうにこの山と、この世の中とかかわっていきたい? この数百年でさえも、世の中は大きく変わった。戦がこのままずっと起きないかもしれないし、また起きるかもしれない。けれど、確実なことが一つある。そしてそれはもうすでに始まっている。この山を、まだ、山に宿っている妖達を守っていくには、この先を見通す力がいる。いや、見通すだけではたりない。どうあれば、皆が人も妖も幸せに暮らせるのか。都度、考えていかなくてはならない。飽くことなく、将来を考え続けられるものがこの山の結界を制御していくべきなのだ」
「私にそんな大それたことは……」
「いいや、お前は詩の手伝いをしながらずっと考えていたはずだ。誰のことも分け隔てなく寄り添い、笑って暮らせる日々を作り出すことを」
「わかりません……。考えていたかもしれません。でも、未熟すぎて、なにもかもが中途半端すぎて……」
自分には足りないものばかりだ。それだけはわかる。そして、そんな先のことを見通せる力があるはずもない。天狗族の眷属、管狐さえも、少し先の未来しか見通せない。自分が何百年も先を見越して、考えていくなど途方もなくて想像もつかない。
だが、一つだけわかっていることがある。もう始まっているという事実。妖という自分達の存在意義は、人間の進化する新しい知識によって置き換わっていくということ。そして、妖達の中には、山にこもってしまうものと、外に出ていくものに分かれてしまうということだ。
「白、お前の思い描く将来を、この山のありようを考えてみてくれ。彼らを導いてやってくれ」
銀童は体を起こそうとし、白童はその手を握り肩に手を添えて体を支えた。
細い、こんなにも肩の細い人だっただろうか。
「父上、無理なさらないでください」
「うん。だが、この通りだ」
銀童は白童に頭を下げるように体をくの字に曲げた。白童はその背に手を当てて起こそうとした。衣の下では背の骨が痛々しく突き出している。
「父上、頭を上げてください。考えます。考えてみますから。ですが……」
主を継ぐと宣言できるほどしっかりとした考えが導き出させる自信はない。
「もし、その上でやはり山の主を継ぎたくなければ、それも致し方ない。だが、私はお前だからこそ、半妖のお前だからこそ、人も妖も幸せになる方法を考えてくれると思う。そう……信じている」
「父上……」
銀童がせき込んだ。
白童は銀童の背中をさすり、もう一度、床に就かせた。
隣の間に控えていた子供のような小鬼たちが数名入ってくる。一人は白湯の入った椀を。もう一人が手ぬぐいを銀童の口元に充てた。そして、最後の小鬼が恭しく台子に乗せた椀を枕元に置いてこちらを寂しそうに見上げる。
白童は、促されるまま、薬湯を飲ませるのを手伝った。
銀童は言いたいことを言えたからか、薬湯の効き目がでたのか、もう一度寝かせると、ほどなく眠りに入った。
白童は小鬼たちに後を頼むと館を去った。
「で、どうだったのだ?」
酒天の館から施薬院に帰ってきて、気になるお年寄りの診察をしたころ、玄翼が姿を現して聞いた。悲田院の方からは夕食の煮炊きの匂いが漂ってきている。
恵を迎えに行った方がいいのではないかと考えあぐねたところに、天井上で翼が旋回する音がした。今日は少し風が強いようだ。
玄翼は白童の顔を見て、ふと目を細めた。
「情けない顔をしているぞ」
「本当だったのだな。玄翼」
「銀童の様態のことを言っているのか」
見た目にも衰えたのはわかっていたが、体に触れてより一層実感した。医者を志しているというのに、一番近くの肉親のことを放っておいた負い目が今更ながらにひしひしと押し寄せてきた。どこかで思っていたのかもしれない。父が衰えることなど絶対にないと。
具合が悪いと言っているのは仮病ではないのかと。自分を館に呼び戻すための狂言ではないのかと。そんなことまで考えていた自分が今更ながら恥ずかしい。銀童は自分のことなど、家族のことさえこれっぽっちも考えていなかったというのに。ひたすら、妖達の未来を、変わりゆく世の中での自分達に有り様を見据えようとしていたというのに。
「話はできたのか」
白童は頷いた。あれが話なのかどうなのか。だが、確実に課題は渡された。課題を考えれば自分が主を務めたいと思うのかどうかもおのずと答えがでるだろうと。それは自分にも理解できた。この重い責任に対する自分の適応能力の問題なのだと。
「考えろと言われた。この山の未来を、世の中の、人と妖の遠き将来を」
「そうか」
「天狗族はどうするのだ」
「どうというと?」
「世の中に溶け込んでいくつもりなのか? 河童族や狐狸族のように」
「ふむ」
片頬を上げて、玄翼が微笑んだ。
「どうしたんだ」
「いや、天狗の心配をしてくれるのかと思って。ちょっとうれしかったのだ」
「あ、当たり前だ」
「では、真面目に答えよう。能力のそれほど高くない川天狗や、人との間に生まれた天狗の末裔たちはすでに人の世に溶け込んではいる」
確かにそうだ。だが、人の世に出ていって難に合わなかった天狗の末裔がいないかというとそうでもない。妖の力を使ってしまい、人から疎まれることはまれではない。天狗は人の形をしている分、情に厚い。人助けをすることが本質だといってもいい。だからこそ難に合う。
「だが、本来、天狗の能力は人の想像をはるかに超える。隠しておくのも困難だ。能力の強いものであればあるほど人の世に出ていくのは難しいだろう。実際、知っての通り、行方がつかめなくなった天狗も多い。世の中が本当に人の能力を超えた何かを必要とする時までは積極的に出ていくつもりはない。もちろん、個人の自由だから、出ていきたい部族も天狗も止めるつもりもない」
「そうか」
確かに、翼を広げて自由に飛ぶ天狗たちに人の世へのあこがれは少ないだろう。彼らの団扇があれば、縮地と呼ばれる瞬時の移動も可能だ。自分だって、どれほどその恩恵を受けてきたか。だが、人の世では絶対に受け入れられない能力だ。その上、妖も人もかまわず心を見透かす。魔物扱いがおちだ。
「私は鬼の部族が一番難しいし、考えがわかれると思うぞ」
「私達のことか……」
「狐狸や、河童はある意味、昔から人の世と近かった。その上、彼らは友好的だ。人の世の役に立ちたくて世の中に出て行っている。雪女でさえ、彼らは歳神様扱いだ。なんだかんだ、雪深い地域では人を助けて大事にされている。だが、鬼は基本、人に害を及ぼす存在だと認識されている。お前や銀童のように人を助けたいと思っている鬼がどれほどいるだろうか」
玄翼の言葉は妖の有り様はまずは鬼の有り様だと言っているように思える。確かに鬼同士が対立していては、この山の平和も保てないどころか、世の中とのかかわり方も決められない。先日の蒼親との一戦だってそうだ。
「わかった……」
蒼親と話をすると言いかけて迷った。今、自分の考えが定まっていない時に、蒼親と話をして自分の意見を導き出せるだろうか。いや、まだ自信はない。だが、避けては通れない。わかっていても出てきた名前は違っていた。
「……まず、朱峰と話をする……」
隣の玄翼が呆れた顔をした。大きなため息が続く。本当は蒼親と話をすると言い切りたかった。だが、やはり、今の自分に、昔からなんでも即決できる蒼親に対等に話し合えるほどの考えはない。
「ま、順番はどうでもいい。一人でどうにかできる問題ではないということがわかれば今はそれでいい」
「ありがとう。それはそうと、お恵さんを迎えに行かなくてはいけない頃では」
日が暮れ始めた庇の向こうをずっと気にして話をしていた白童が言った。
「お恵さんはもう連れて帰ってきてある。悲田院で夕餉の支度を手伝っているはずだ」
「そ、そうなのか?」
そう聞いただけで、耳たぶが熱くなる。
「白童、わかっているだろうな」
「わ、わかっている。ちゃんと酒の修行もする」
「ならいい、悲田院に迎えに行ってやるのだな」
そういうと、玄翼は扉をでてさっと翼を広げ、空高く去っていった。
白童は立ち上がって悲田院に足を延ばそうとして、はたと、思い返し、水鏡でさっと自分の姿を見返した。白童は髪の乱れを少しだけなでつけ、水を一口飲んで気を静めると、歩いて行った。




