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九杯目 『酒造り佳境に入るの巻』

 奉行所の帰り道、遠くに護摩祈祷の炎を見ながら、零条信理は寺の前を通った。この都のいたるところで、今、祈祷が行われている。

 数日前の地震は、各地で被害をもたらしただけではない。どこかしら、後ろめたい思いを持っている者たちに日々の行いを改めるべき時だという感情を湧きおこした。自分達のような与力にはわからないような、何か後ろ暗いものが公卿や上級武士、御用達作っている商人たちにはあるのだろう。

 信理は今日、上司に呼び出された。

 与力である信理の上司は京都町奉行の中の番方で、人々の訴えの管理と市中警護の役目を仰せつかっている。信理も普段は身分にかかわらず奉行所に訴え出るものの事実確認や、新月前後の夜間の市中警備を請け負っている。新月前後に盗賊が出やすいことから、満月前後にしか休みは取れない。普段はおちおち酒も飲んでいられない。

 上司から呼び出され、言い渡されたのは大江山の調べである。

 里近くのものから、大江山の山頂で地震の際に尋常ではない地鳴りを聞いたという報告があり、山崩れの心配がないかどうかの確認に行くようにとのことだ。

 市中警護は番方のお役目だが、山となれば、道の整備をつかさどっている新屋方の仕事ではないのかとのど元まで出かかったが、それを察したのか、番方の上司はもう一つ別の目的を言った。

 先ごろ京の北、若狭や大江山周辺で人買いをしているものがいるという噂がある。市中で最近、頻繁に報告される子供の失踪との間に関連がないのかどうかを一緒に調べよというものだ。子供の失踪は貧しい家庭からの訴えが多く、山への置き去りも視野に入れて調べるようにということだった。

 貧しい民の懐事情にあまり深くかかわらないようにしてきた奉行所も、人の良くない行いが、天変地異を引き起こすと信じている上層部からの圧力に動かざるを得ないという。

 それだけならまだしも、上司は声を潜めてもう一つの懸念を言った。

 日本に漂着した外国船の乗組員はいったん、幕府に報告の上、長崎から帰国させる手続きを取っているものの、先ごろ、漂着船の乗組員がすべて死亡と報告される件が何度か続いている。それが本当に事実なのかを調べるというものだ。もし、生き残りをかくまったり、人買いに売ったりしていた場合、京都所司代の立場自体が危うくなる。もっと言えば、幕府に内緒で外国船とよからぬ品の取引しているのではないかと思われるということだ。

「それが事実で、我々がそれを摘発できなければ、今の役職者全員が罷免されるということですか」

「声が大きい!」

 上司は襖に耳がついていると言わんばかりに周囲に気を使い、信理を黙らせた。

 信理は謹んでお役目承りますと言って下がってきた。

 他の者に行ってほしくない理由がある。恵司郎のことだ。

 恵司郎はおそらくこの国の人間ではない。そして男でもない。立場を利用して、少し調べたことがある。それによると前の小島屋の主人が突然どこからか連れてきた男の子を養子にしたのだと聞いた。周囲の話では、言葉を発せない病気なのかと思うほど、しゃべったことがなかったという。

 今では巧みに使いまわす言葉に、外国人の片鱗も臭わせないが、もし、本当にそうなら、恵司郎を危ない目に会わせる。

 できるだけ事実を確認しつつ、穏便に済ませたい。若狭なら京都ではなく小若狭藩のはずなのだが、八年前から三件あった外国の漂流船の生き残りは皆無と報告したのも藩の役人だ。藩自体が生き残りの事実を隠そうとしている可能性があると上司は疑っているようだ。

 八年前というと、恵司郎が養子として小島屋にもらわれた歳と重なる。

 一つ一つだ。

 まずは、大江山の被害状況の確認だ。幸い、番方だけでなく、新屋方の役人も一緒に山に入ることが決まった。準備も合わせ、数名で数日後に里の山に詳しいものと登る。

 信頼のおける同心を一人同行させ、その手下たちには里付近で行方不明者や人買いの情報を得ることになっている。

 それにしても、恵司郎が修行にいったという酒蔵とはどこなのだろう。

 呼び出しを食らった時、厄介ごとならしばらく酒は飲めないと思い、小島屋に足を運んだが、恵司郎はいなかった。

 杜氏修行に行っているという。

 やたら手慣れた感じの番頭が仕切っており、手紙を渡された。翌々の満月までには帰ってくる予定なので、どうか、また足を運んでほしいというものだった。

 手紙の最後に美しい字で零条信理殿と書かれており、なんともうれしい気分になったが、上司の呼び出しを受けて、のんきに待っていられないのではと思い始めた。自分が真剣に調べれば、若狭の近くの米を使っていたという小島屋の正次郎が、恵司郎をどこから連れてきたのかは想像がつく。

 万が一、人買いが捕まったとしたら、売った相手を白状させねばならない。

 信理は、山調べの準備の合間に手紙を書き、朱虎という名の番頭に手紙を託した。気になることがあるので、できれば、修行先を訪ねたい、修行場所の蔵をおしえてくれというものだ。

 番頭は確かにと言って受け取ったが、帰りにいやに強い視線を感じた。怪しい奴扱いされているような気もしたが、十手をみせるわけにもいかない。

 しかも、店を出てすぐに呼び止められた。

 相手は湖鷺屋の主人だと名乗った。

 確か、恵司郎の妹が嫁いでいると言っていた。湖鷺屋の若主人、平右衛門の名前は恵司郎の口から何度も聞いていたから、懇意にしているのはよく知っていたが、若主人も恵司郎の修行先を知らないという。

 おかしなものだと思った。修行するなら、妹の嫁ぎ先に申し出るのが手っ取り早いだろう。しかも、だれもが知っている御用酒を造っている、湖鷺屋なのだから。

 だが、平右衛門に全く心当たりが無いようだった。かなり、焦って、恵司郎を探しているようにも見えた。小島屋と湖鷺屋との間に何等かの行き違いがあったのかもしれない。だが、推測の域は超えない。

「わからんことばかりだ」

 一つ一つの謎が絡まりあっているだけで、もしかしたら、これは一つの図なのではないかと思いつつも、事実を調べて積み重ねるしかないと信理は思った。

 まずは、山に入るまでに間に、失踪を申し出ている家族への聞き込みだ。

 信理は足を速めた。


「昨日は大変やったな」

 伊八が朝、恵の顔を見るなり言った。

「お美和さんには、わしもよう世話になってたから、つらいわ……」

「伊八さん……私もです……」

 白童の前ではずっとこらえていた涙を、恵は伊八の前で決壊させてしまった。伊八は恵の背中に手を当ててくれている。伊八の鼻をすする音も恵の嗚咽も酒蔵の中に響く。

 美和は一昨夜、咳をし始めたと思ったら、高熱を出し、看病のかいもなく、翌日には脈が弱くなって明け方に亡くなった。

 流行り病だといけないからと、夜通し看病したのは白童だ。

 恵も、志乃も誰も人は施薬院に立ち入ることを許されなかった。

 玄翼と山から舞い戻った朱峰だけが、白童の手伝いをした。

 夜中に玄翼が酒蔵の氷室に氷を取りに来たことで、伊八は美和の危篤を知り、明け方氷の礼を言いに寄った玄翼から結局は助からなかったことを聞いたという。

 美和の亡骸を埋葬したのも、その三人だ。

 子供の中で一番年長の志乃は美和に会いたいと泣いたが、許されなかった。

 白童は、今まで見たことのないほど厳しい顔をして志乃に我慢をしてくれと言っていた。

 見ている方もつらかった。

 施薬院の消毒を終えたと玄翼から聞かされ、酒蔵に来る前に一度だけ、白童の側に行った。

 何も言えず、その手を握った。白童も力なくその手を握り返してくれた。

 白童の真っ赤になった瞳は暗く、表情は身を引き裂かれているかのように苦痛に歪んでいた。

 お互いに何も言えなかった。

 それでも、恵が酒蔵に旅立つとき、白童は恵にゆっくり頷いてくれた。

 その頷きは、自分は大丈夫だと言っているような、もしくは恵の杜氏修行を励ますような頷きにも見えた。

 最初に酒に強くなって、消毒液を克服したいのだと言いに来た白童を思い出す。きっと、何度も命の灯の消えるのを止められず、そのたびに、医者修行の中途半端さを呪ったに違いない。


「さ、お美和さんのためにも、いい酒を造ろう。出来たら、一番にお美和さんの墓前に供えたいしな」

「……はい」

「今日も力仕事やで、覚悟してや」

 伊八はそういうと、酒蔵の中に入って行った。

 この工程が一番力のいる工程だ。最初から伊八にそう言われていたものの、ここまでとは思わなかった。

 その日の昼には、恵は自分の考えが甘かったことに気が付いた。

 いつかは杜氏の修行をするのだ、蔵人になるのだと、毎日力をつけるのに余念がなかった恵でも、根をあげそうになる。

 大きな桶の傍に造られた高い台の上で、恵は櫂の柄を握りしめ、肩で息をしていた。眼下には酒の元となる醪が生き物のように泡を吹いている。この泡を吸い込みすぎると気を失う可能性があるとのことで、恵は手ぬぐいを顔に巻き、桶から離れ、桶に向かって、底に板が棒と直角についた櫂を差し込み、中の醪を引き上げてかき混ぜた。

 通いになってからの仕事は主に、酒母と言われる、最初の酒の元、(もと)を作る工程だった。

 この先、その酛に材料、つまり、蒸米、麹、水を追加して量を増やしてゆき、最終的な酒の酛の醪が完成する。この醪を温度管理しながら、櫂で混ぜていく工程を半月続ければ、あとは上槽、つまり、絞りだし、火を入れて酒の原酒の完成となる。

 この工程での伊八とまめだの指導はことのほか厳しかった。

 気を抜くと酒を腐らしてしまうのだという。

 緊張はするが、やっと全体像が分かり、今自分が混ぜているものが、酒になると思うと心が躍った。

 だが同時に、ここまでの工程を経験させてもらって恵が思ったのは、確かに一人でなにもかもやるのは無理だということだ。実際、今日からの櫂入れは恵とまめだ達だけでは、力不足のため応援がくるという。

 まめだや小豆洗いのような蔵人がいない中で、どんなに小規模でも、片手くらいの蔵人が必要だ。

「なんだ、伊八とっつあん。こんな、ひょろひょろの弟子なんかとったんか」

 見下ろすと自分の頭二つ分は大きい青年が三人見上げている。声を発したのは真ん中の男だ。長いうねった髪を頭のてっぺんでまとめている。

 今は恵のほうが見下ろす形だが、見下ろされるときっと気持ちが落ち着かないだろうと想像できた。目に力がこもっている。美丈夫な男前ではあるが、野性味が体中から染み出ている。風貌のせいかもしれないが、衣装のせいかもしれなかった。

 三人とも変わった意匠の着物を着ている。丈が短く、裄も短めだ。けれど、どの着物も金蘭豪華で、青く光っている。どのような動物なのか、見たことのない毛足の長い銀色の毛皮を袖のない羽織のように着ている。そして、三人ともに頭上に立派な角が見える。作りものではなさそうだ。

 そういえば朱峰にも小ぶりの白い角があった。自分の目の前に膝間づいた朱峰のふわふわとしたくせ毛の中から白い突起が出ていたのを思い出した。

 ということは彼らも鬼族か。

「これは茨木の蒼親さん。応援、すんません」

 桶の反対側から声がした。伊八だ。

 麹部屋から声を聞きつけてでてきたようだ。確かに、蔵全体に響き渡るような声だった。

「今日から櫂入れだと聞いたんでな」

 恵は櫂をいったんおいて、はしごを下りた。三人の前では伊八も恵も小人のようだ。まめだ達は彼らをよく知っているのか、急に猫に戻って、ぐるぐると彼らの足元で頭突きを繰り返している。鬼達はまめだを数匹一緒に抱き上げ、肩に乗せたり、顎をかいたりしてかわいがっている。蔵全体にゴロゴロといった猫独特の喉ならしが響き渡る。

「お初にお目にかかります。恵司郎と申します」

 恵は丁寧に頭を下げた。

「恵司郎さん、こちらは、この酒蔵の蔵元だ。茨木蒼親さん」

 杜氏は酒の責任者、蔵元は暖簾の責任者だ。

 つまり彼の酒蔵だということになる。最初に白童が言っていた暖簾を継ぐのは別の人間とは彼のことだろう。白童は自分の存在も養生所もみな、不要で、自分が邪魔者扱いなのだと言ったが、事実は逆だ。誰もかれもが白童のことを慕っている。人、妖を問わずだ。

 とはいえ、どう見ても目の前の彼、蒼親が今まであった鬼のなかでは一番強そうに見える。

 鬼達は、櫂を軽々と持つと、独特の節回しで唄を歌いながら醪をかき混ぜていく。

「恵司郎さん、今日はこの後、酒盛りになると思うから、何なら早めに帰ってくれてええよ」

「さ、酒盛りですか」

「うむ。多分、朝までな……」

 上で盛大に醪を混ぜている鬼達を見て、伊八が言った、おそらく、酒盛りに巻き込まれたら、帰れなくなると思って言ってくれているのだろう。今日、帰れなくなるのは困る。

 一つには白童が心配だったからだ。美和を弔ったばかりだ。

 年寄の病も直せず、その上、流行り病で大事な一人を失ったことに白童は憔悴しきっていた。

 きっと、酒精に耐性をつけて、一刻も早く、医者修行を再開したいと思っているに違いなかった。 

 その白童の酒修行が佳境に入っている。

 料理としての粕汁修行とともに、ずっと、水で薄めた酒を一杯ずつ試し始めている。水九割に対して、酒一割という飲み物を食事時に試してもらっているのだ。最初は匂いをかかずに、飲めたら、香りも一緒に飲めるかどうかを試し、徐々にその割合を増やしている。もちろん、量にすれば、毎晩小ぶりの盃一杯になるかどうかという少量だ。

 今のところ意識がなくなることも、気分がわるくなることもない。ほんのり頬が色づく程度。最初に会った時のような目の充血やめまいのようなものは一切ない。

 いっぱいぐらいなら飲めるのだという自信がつけば、まずは成功だ。それに、今までの体験から、食事をせずに飲んだことが原因で具合が悪くなったことがあることもわかっている。

 幼馴染が皆、酒に強いらしく、宴会となるといきなり酒が注がれるのだという。

 幼馴染というのが誰なのか、恵にはだんだんとわかり始めてきた。玄翼や朱峰がそう言った乱暴なことをするとは思えなかったからだ。

 昨日は水一割の酒九割という盃一杯を飲み干せた。今日は、できれば、ここで作った薄めない酒に挑戦してもらいたい。

 この修行については期待も心配もしてくれていた伊八にもその進捗を伝えた。だからだろう、施薬院に帰ったほうがいいと言ってくれたのは。

「けれど、私が帰っては、伊八さんは……」 

「わしはもともと酒で体を悪くして、死のうとして大江山に入ったところを、白童先生に助けてもらったから、もう味見以外で飲むつもりはないんじゃ。蒼親さんはそれもよく知っとる。わしには勧めんよ。ここの酒造りに支障がでるようなことはああ見えてやらんお人や」

「伊八さん……」

 悲田院にいる人たちはみな、何か事情を抱えているのだと聞いている。そしてこの里に残って妖達と仕事をしている人たちも、里には帰りたくなり理由を抱えていると。伊八はあまり多くは語らなかったが、酒で体を悪くしただけでなく、周囲にも迷惑をかけたのだと言っていた。

 恵は悲田院の子供達の事情にも驚いていた。間引かれたり、売られたりした子供で、あそこで保護されたのは志乃だけではなかった。彼等は奉公先まで探して、ここでの記憶を消して都に返しているという。

 自分としても、何としてでも恩返しをしたい。

 白童の最終目標は酒を飲めることではない、あくまで治療に必要な消毒液への耐性だ。そして今作っている酒などより、焼酎はもっと濃度も匂いも強い。先は長い。

 恵は、伊八に頭を下げると、そっとその場から離れようとした。

「何をこそこそ言ってるんだ。とっつあん」

 ひっと、恵は自分の声ではないような悲鳴のような声が出た。自分の後ろにはいつの間にか蒼親が立っている。

 目の前の伊八はしまったという顔をしている。

「茨木の館で酒の用意をさせてある。このひよっこも連れていくがいいよな。この先はあの二人を置いていくから」

 そういって、桶を見上げた。

 ついてきていた二人の鬼はまめだの指導のもと、桶を回ったり、櫂をかいだりを繰り返している。蒼親はどうやら、手伝いにきたというよりも暖簾の責任者として様子を見に来た程度だったらしい。

「蒼親さん。恵司郎さんはこの後、用があって」

「用? 飲む以外の用なんぞ、明日でもよかろう」

 そういうと、蒼親は軽々と恵の体を横抱えにし、飛ぶようにして蔵をでた。

 恵は驚いた。だが、ここで下手に抵抗して不況を買うのは得策ではない。この酒蔵に修行に来たからには、彼は自分の雇い主ともいえる。

 蔵から施薬院の往復はいつも玄翼か、彼の眷属の弁慶に抱えられて移動しているのでわからなかったが、蔵の奥には大きな御殿がある。

 蔵をでて、一瞬の跳躍で御殿の玄関に降り立つと、恵はぽいと投げ捨てられ、ついてこいと言われた。

「まったく、蔵人が酒を飲まずにどうするのだ」

 蒼親は酒だ、酒だと言いながら、御殿に入っていく。

 その玄関では、美しい着物を身にまとった女性が、二人、三つ指をついて出迎えている。

「お早いお帰りでえぇ」

 そういった左の姫は鮮やかな緋色の着物だ。髪飾りも同色の不透明の細かな玉のついた飾簪をつけている。広い玄関の板の間の両側に据えられた塗りの明かり取りからの光を受け、鈍く輝いている。面長の美しい顔は、目が特徴的で、細いが、鼻梁から両側に見事な微かに上に向いた曲線を描いている。肌の色は健康的な大豆のような色。語尾が長く引っ張られるのは口癖のようなものなのか。「え」の語尾がやたらと耳に残る。

「お仕度は整っております。お召し変えはされますかのぉ?」

 そういったのは右の姫。微かに青光りするような白い着物を着ている。髪飾りは氷を削ったように美しい透明の小さな石が無数についたもので、こちらもまぶしいくらいの光を放っている。こちらの姫も美しいが、色使いなのか、寒々とした雰囲気がある。美しい赤い唇だけが、際立っていた。

「いや、すぐに酒だ。客人も連れてきた。ええっと、ひよっこ、名をなんといった」

「恵司郎です」

「ああ、そうだ、伊八親父の弟子だ。もてなしてやってくれ」

「あれ、これはこれは、なんとも美男じゃ。色白なところは、わたくしにも勝るのぉ。くやしいのぉ」

 自らも透けるような白い肌の右の姫が言う。

「美しい方じゃのう。その瞳はまるで北の狐の様じゃ。親近感を覚えるえぇ」

 自らの瞳が琥珀のような色合いの左の姫が言いながら、目を細めた。

 音もなく近寄ってきた赤い姫と白い姫の両方から囲まれる。心なしか、赤い姫からは暖かい空気が、白い姫からは涼しい空気が感じられ、恵はなんとも奇妙な気持ちになった。

「食ってはいかんぞ。酒造りが遅れる」

「わかっておりまするえぇ。私、蒼親の嫁、狐火の耀(よう)()と申します」

「私、同じく、蒼親の嫁、雪女の津螺(つら)()と申します。さ、こちらへ、ごゆるりとなさってくださいませ。恵司郎様」

「お好きなものは何でしょう。えぇ?」

「は、なんでもいただきます。あ、ありがとうございます」

「ま、なんて細くて長い指じゃのぉ」

「肌もきめ細やか。うらやましいわえぇ」

 凍りそうな手の津螺良と、汗ばむほど暖かい手の燿花の手に片方ずつの手を取られ、そのまま、玄関から部屋をいくつかわたり歩き、廊下を経て大きな部屋に入った。ひな壇があり、もうすでにそこには蒼親が座っている。隣に座椅子があり、燿花が伴ってその座椅子に恵を座らせた。

 目の前には、人の顔ほどの大きさの立派な盃が置いてある。漆黒の塗りの仕上がりが見事だ。底には満開の桜の模様が浮き彫りで描かれている。夜桜を思わせる絵柄だ。

 ひな壇に蒼親と肩を並べて座り、二人の両側に、お銚子を持った燿花と津螺良が座った。お銚子を上げられれば、盃をもたぬわけにはいかず、恵は、大きなその盃を両手で持った。酒がはいったら片手で平衡に持てる自信がない。

「何をかしこまってる。これから良い酒をどんどんつくっていってもらわねば。伊八もだいぶ耄碌してきたからの。跡継ぎを探さねばと思っておったのよ」

「跡継ぎ……」

「どうせ、都にはいられぬのだろう。この山にきたということは」

 立て続けに盃に三倍酒を飲み干すと、そういって、恵の背中をたたいた。

 あまりの強さに前の膳に突っ伏しそうになりながらも耐える。

 白童からも、玄翼からも、蒼親には必ず一度会うだろうと言われていたから、対処は聞いている。決して逆らわぬこと。相手の話に合わせること。

「で、なんで山にきたのだ。おなごから逃げてきたのか。色男」

 両隣で、姫達がきゃあと声を上げた。ここで正直に言っても始まらない。はあ、えぇなど、曖昧な返事をした。

 注がれた酒は、玄翼が番頭に化けて持ってきた諸白とはまた別の諸白だった。水の調整が一切ないのか度数が高いように思える。香りも強いが酒精も強い。これを最初から飲まされ続けるのなら、いくら酒に強い恵でも慎重にならなくてはならない。そう思い、盃に頻繁に口をつけても、ほとんど飲み下さずに出された料理を楽しんだ。

「恵司郎様はこの酒はお口に合わないのでは? お酒の好きな人にはもう少し香りのいいのをお出ししたほうがええかねぇ。それとも強いのがおこのみかねえぇ」

 一向に継ぎ足せないことに業を煮やした燿花がそういって、パンパンと後ろに向かって手をたたいた。

 同じような顔をした目の細い美しい幼子たちが、ひとりひとり徳利やら角樽やらを抱えて、やってくる。よく見ると頭には小さくて先のとがった茶色い耳、着物の裾からはふさふさとした茶色いしっぽが覗いている。人の顔をした狐の子供か。もしくは、人に化けている子狐かもしれない。

「さ、どれでも、お好きなのを。塗りの角樽は諸白、徳利には焼酎が入っております。温めるなら私が温めますし、冷たいのがお好きなら津螺良が冷やしてくれますゆえぇ」

 蒼親の向こう側で忙しく酌をし続けている津螺良がこちらを見て微笑んだ。髪飾りの透明の球がきらきらと光っている。

「いえ、このままで少しずつ、味を拝見してもいいでしょうか」

「おう、蔵人らしいことをいうではないか。いっぱしだな。ひよっこ」

 また、手が背中に飛んできそうで、恵はわずかに背中をそらした。今度こそ座敷の向こうまで酒肴ともども飛んでいきかねない。

 四つ並んだ角樽にはそれぞれ、『源頼』『渡綱』『坂金』『卜部』が入っているという。米の削り度合いが高い順に並んでいるそうだ。どれも水の調整がされている飲みやすい酒だ。最初に飲んだのは『卜部』の原酒かもしれない。続けて焼酎の味を見させてもらった。これは二手しかない。米と芋。米のほうが強く匂いを感じる。

「施薬院で毒消しに使っているのもこの中にありますか」

「なんだ、ひよっこも白童びいきか」

 隣で、不機嫌な声が聞こえた。どいつもこいつもと、口の中で繰り返している。

 だが、その中に、不機嫌だけではない少し甘えた声が入っている。とはいえ、玄翼からも、白童からもとにかく刺激するなとくどいほど言われた恵は、いったん、否定した。

「あ、いえ、消毒に上等な焼酎をお使いだなと思ったもので」

「当然だ。白童の親父から頼まれて、濃度を高くしていたからな。そのほうが傷の毒消しにはいいらしい。なのにあの馬鹿ときたら」

 あの馬鹿とは白童のことを言っているようだ。

「幼馴染なのではないのですか。同じ鬼族の」

「いいや、違う。昔は違ったのだ。茨木童子と星熊童子は酒天の家来だった。鬼の中で酒呑童子は一番強くてはならぬ。そう、あやつはあんなところで人間相手の世話をしている場合ではないというのに。そのためなら、俺がいくらでも力を貸してやるというのに。いつのころからかちっとも寄り付かん。いっそあんな場所すべて取り上げてしまえばいいのだ。銀童どのも手ぬるい」

 蒼親が忌々しそうに言いながら、今度は角樽ごと抱え、手酌で飲み始めた。

 寄り付かないのもわかる気がしたが、昔はそうでもなかったように聞こえる。

 隣の燿花が蒼親に聞こえないように、毒消しに使っているのは、米の焼酎のほうだとそっと教えてくれる。恵はどちらも手のひらぐらいの塗の盃に注いでもらい、味を見た。

 米の方が確かに強い。だが、もしかしたら、これも匂いの問題なのではないだろうか。米の醸された匂いが凝縮されて強くなっている。芋も匂いはするが、匂いというものは人によって相性がある。芋の方の濃度を高くしてもらったら、毒消しの際には匂いで具合が悪くなることもないかもしれない。

 あれこれ、白童の酒攻略手段を考えているうちに、自分も少し酔いが回ってきたようだ。燿花に頼んで水をもらって、酔い覚ましをしに厠に立たせてもらった。


 恵を酒蔵に迎えに行った弁慶の報告を受けて、玄翼が施薬院にやってきた。

「ま、遅かれ早かれこうなるとわかっていたのだから、慌てることもないと思うが。お恵さんが茨木の館に連れていかれたらしい。酒宴に付き合わされているのだろう」

 白童は思わず立ち上がった。

「迎えに行く。心配だ」

「何が心配なのだ」

「様々に」

「酒の相手ならあれほどふさわしい相手はいないだろう。そんなに心配しなくとも大丈夫だ」

「だが、そうだ、そういえば、私はまだここを立て直してもらった礼も言えていない。それに、蒼親とも話したいと思っていた。今後のことを。ちょうどいい機会かもしれない」

 白童は身支度を整え始めた。

「まて、白童、今行っても飲まされるだけだ。お前、まだ、飲めないのだろう。たとえ飲まなくても、酔った相手に真面目な話はできんぞ」

 白童の動きが止まる。

「それでも、迎えに行きたい。お恵さんが心配だ」

「何をそんなに心配している」

「……蒼親は綺麗なものが好きだ。人、妖を問わずに……もし、おなごだとばれたら……いや、男でも気に入ったら自分のものにしようとするかもしれん。お恵さんは人柄も物腰も心地よいお方だし……酒が飲めるなら余計に蒼親が離さなくなるかもしれん」

 言いながらも白童は施薬院の戸締りをする。提灯を持って外に出ようとした。

 と、ぱんと自分のどこかで音がした。

 気付いたら、白童は玄翼の団扇で頬をはたかれていた。

「玄翼……」

「しっかりしろ。私のいうことをすべて無視するつもりか。そんなに想いを募らせているとは。その想い、お恵さんに伝えたのか?」

 自分の想い。

 言えるはずがない。

 恵は自分の義理の父の夢をつなごうと今、努めているところだというのに。そんなこと言えるはずがない。

 白童は土間に座り込んだ。

 美和を見送った日、恵は何も言わず手を握ってくれていた。あの温かさがどれほどありがたかったか。何も言われなくともねぎらわれた気がした。そして、毒消しの焼酎を克服して医術修行を再開させましょうと言ってくれている気がした。

 そういえば、女性に触れられるのはとても緊張するのに、恵に触れられても緊張しなくなっていた。それよりも、少しでも触れたいと思うようになった。こんな自分勝手な一方的な想いをどんな理由で今の恵に伝えられるというのだろう。反対の立場だったとしても迷惑な話だ。

 だが、蒼親の傍に恵がいると思うだけで、胸が苦しくなる。妬いているのだともわかっている。醜いこの気持ちを抑えることもできない。言葉にしようとしても、涙がこみ上げる。実際、自分の頬には温かいものが流れている。

「はく、大丈夫か……」

 玄翼が白童の肩に手を置いた。

「……迎えに行くだけだ。それならいいだろう」

 鼻づまりの声で言った白童の言葉を深いため息で受け止めた玄翼は、白童を立たせ、手ぬぐいを差出した。

「顔を拭け。そんな顔で迎えに行ったら、お恵さんがよけいに心配するぞ」

「わ、わかった」

 白童は渡された手ぬぐいで顔を拭いた。

「お前を送って行ってやる。だが、私が一緒だと蒼親はまた、お前の肩を持っていると喧嘩腰になる可能性があるから、私は屋敷には入らないからな。一人で迎えに行け」

「わかった」

 夕闇の奥に黒い翼が大きく広げられるのを見ながら、白童は玄翼に頭を下げた。


「道に迷ってしまったのだろうか」

 恵は一人つぶやいた。厠からの廊下がいつまでたっても、元の座敷にたどり着かない。座敷をでて、ほぼまっすぐに歩いた先を曲がっただけだったはずなのだが、それほどよっぱらっていただろうか。恵は、自分の意識をしっかりさせるために、両頬を自分の両手でたたいた。さっきの記憶とは別に、とにかく人の声が聞こえるほうに足を向けてみる。誰かに会えれば、蒼親のいる部屋を教えてもらえばいいのだから。会うのが人とは限らないが、この里に来て言葉が通じないという苦労はなかった。何とかなるだろう。

 とにかく廊下を歩いた。

 と、同じところを二周したように思ったが、その先で、聞き覚えのある声がやや興奮状態で聞こえてくる。

 自分にはいつも穏やかな声でしか語りかけてこない白童の今の声には焦りが混じっている。どうやらようやく、元いた座敷に帰ってきたようだ。

 襖の前に立つと、横からすっと腕をつかまれた。両側にはいつの間にか、燿花と津螺良がいる。燿花と津螺良がすっと自らの口元に長い人差し指を立てにした。静かにという意味だろうか。

 会話の続きが聞こえてくる。しゃべっているのは蒼親と白童だ。

「言っただろう。ひよっこは明日まで帰さない。どうせ明日も酒蔵修行なのだ。ここで寝泊まりしたほうがよほど時間の節約になる。毎日天狗たちに運ばせるなど贅沢すぎる。伊八もこの屋敷で暮らしているのだ」

「だが、恵司郎さんは施薬院でお願いしている仕事があって、できるだけ戻ってきてもらっている」

「誰にでもできる仕事だろう。それこそ、悲田院にいる年寄にでも、わらべにでもやらせればいいだろう。そうだ、この間もらいそこなった娘などよく働きそうじゃないか。いらないなら。もう一度もらいに行くが。あれは磨けば光るぞ」

「あそこにいる人たちをそんな風にいうな。皆、わけがあってあそこにいてもらっている。子供達の寺子屋を作る話も朱峰としているんだ。あそこは人が心と体を休める場所なのだ。人が、都にまた帰っていくための」

「へぇ。だが、また、ひとり死んだらしいじゃないか。それも、救ったやつの病気をもらったとか。気の毒に」

 恵は思わず襖に手をかけようとした。だが、その手は動かない。どうやら、自分は、この二人に動きを封じられているようだ。白童がどれほど美和を助けるために力を尽くしていたかを間近で見ていただけに、蒼親の心ない言葉を白童がどう受け止めたかを思うと胸が苦しくなった。

 懇願するように、恵は二人を交互に見たが、二人ともゆっくりと首を横に振った。

「白童、なぜ酒天の館に帰ってこない。親父殿を一人で死なせる気なのか」

「蒼親……」

「あの場所にこだわる理由はなんなんだ。お前がすべきことは本当にあそこにあるのか。俺にはそうは思えん。いっそ地震ですべてなくなってしまえばよかったのだ」

「蒼親。本気で言っているのか」

「言ってるさ。伊八や味噌蔵で雇っておる蔵人達のように、ここに残って働きたいっていうもの好きな人間は大歓迎だが、ここはもともと妖の里だ。本来、人はいらん」

「それが、蒼親の考えなのか。蒼親はずっとこの里に居続けるつもりなのか。自分の子孫たちの将来をどう考えているんだ」

「出ていきたいやつはとめん。だが、この先、我々の能力を人が超えるとは思えん。なら、人の世に出て行く必要はあるとも思えぬ」

「ことのほか、人の世の産物が好きな蒼親の言葉とは思えない……」

「そうだな。人が作るものはなんでも好きだ。特に、今の世は作った尻から壊す戦好きの馬鹿者が減ったからな」

「私だってお前に感謝している。蒼親と朱峰のおかげであそこは維持できているようなものだ。その上、人の世にはもう帰れなくとも、ここに残りたい人達の居場所を作ってくれている。だが、人の手を借りたいと思う時があれば、どうするのだ。蒼親は、妖達と一緒にずっとこの山でこもって過ごすというのか」

「ふん。人が欲しけりゃさらってくるさ」

「なんだと……そんなこと許されるはずがなかろう」

「お前は知らないことが多すぎる」

 その次の瞬間、ドーンと屋敷が揺れた。

 地震かと思ったが、地面がゆれたわけではない。

 空気が揺れた。

 何かの扉が勢いよく開いた時のように大きな風のようなものが吹き込んだ。

 とたん、自分の体も動くようになった。

「大変じゃ。結界が……」

「銀童様が、大変じゃええぇ……」

 恵はその隙を狙って、扉を開けた。

 にらみ合っていた二人が、こちらを見、そして、二人の不穏で真剣な顔が何かよくないことが起こったことを物語っていた。


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