プロローグ
重い、体も、服も、海水を含んで普段の何倍も体が重い。
そして冷たい。
男は荒れ狂う海の中で何度も海水を飲みながらも、流れてきた大きな木の板にしがみついて自分の命が消えていくのを感じていた。
英国を出発した貿易船の旅は順調だった。
あとは清国によれば、帰国の途に、西へ航路を向けることになっていた。
なのに、ロシアから清国への航路で嵐につかまってしまった。
清国の大陸からずいぶんと流されているというのはわかったが、ここがどこなのかはわからない。
遠くに灯りが見える。
近くに陸があるには違いない。
だが、この嵐だ。だれも助けてはくれないだろう。
ああ、あの時、娘を仕事の旅に連れ出すのではなかった。男は今更ながら激しく後悔した。嵐が勢いを増し、逃れるすべはないと知ったとき、本能的に娘を樽に押し込み、船の柱に括り付けた。
そのあと、大きな波に船ごと飲まれた。
転覆状態だった船から逃れられたものはいなかっただろう。
皆、海に投げ出された。
娘の自分を呼ぶ声が、暴風雨の中からとぎれとぎれに聞こえた。
この土地にも神はいるだろうか。なら、どうか娘だけは助けてほしい。
この国の神に祈るにはどうすればいいのかわからない。
だが、持っている手段は一つしかない。
男は、輝石の入った指輪をした手を高く掲げ、十字架を切った。
どうか娘を陸に、命を助けてほしいと。
かすむ男の視界に、大きな鳥の姿が映った。
この嵐の中、飛べる鳥がいるのだろうか。
だが、その鳥はどんどんと彼の方に降りてくる。
その姿を見て、男は息をのんだ。
自分が呼びこんでしまったのは、悪魔なのだろうか。
人の形をし、とてつもなく大きな黒い翼を背にした生き物が、自分を見つめている。長い黒髪と黒い瞳。しかもギリシャ彫刻のように美しい顔立ちだ。
黒い翼の男は自分の上で翼を広げたままほとんど静止し、手に持った扇子を振った。
すると、そこだけ、嵐が去ったように海が凪いだ。
一瞬の静寂が訪れた。
男は言った。
彼の言葉が黒い翼の男に通じる言葉だったのかどうかわからない。だが、男はかまわず言った。
娘を助けてくれ。船の柱に括り付けた樽の中に娘がいる。
どうか、助けてくれと。
黒い翼の男はふと遠くに視線を飛ばし、一瞬のうちに飛び立った。
男は確信した。自分の言葉は通じなくとも、きっと彼は娘を助けてくれると。神でも、悪魔でも、妖精でも、妖魔でもなんでもいい。娘を助けてくれるなら。
男は娘の名前を一言つぶやくと、力尽きた体を海の底に沈ませていった。