12、夜陰に乗じて
巨大な翼の羽音に、人々はギョッとして、月明りの空を見上げた。
星々を翼で覆い隠して、巨人クルムシータが戻って来たのは、宴もそろそろ下火となった、夜半過ぎの事だった。
ユナイが歓声を上げて駆け寄り、巨人の腕に取りすがると、大声で泣いた。
クルムシータの顔は、以前よりもつややかになって、かなりの年齢を逆行したかのように見えた。 少年としか思えぬその風貌は、肩に乗せた妻イニータの白い顔と、以前よりもよく釣り合っている。
そのイニータは、地面に駆け下りるや大声で叫んだ。
「歌ってる、みんなが歌ってるよ。
虫も木も歌ってる。 あの人の歌を、森がいっぱい。
ありがとう言う! あの人はどこ?」
「イニータ、フライオさんは、今ちょっと」
すっかり年少者の担当にされているユナイ少年が、控えめな表現で“お祈り”の手振りをして見せた。
「先にイリスモント殿下にご挨拶するといいよ。
殿下もとっても心配なさって、君たちに会いたがっておいでだったから」
しかし、彼らが見回した広場のどこにも、王太子の姿はなかった。
飲んだくれて潰れた兵士の体をまたぎ越え、酔っ払った部下たちの異様に甲高い歓声に苦笑しながら、王太子イリスモントはゆっくりと広場を横切り、柵の外に出て行った。 今では雪も止み、地熱で溶けてあちこちに小川を作りつつある。
宴の喧騒が遠ざかると、暗い夜気の中で夜涸鷹の泣き声が、森から風に運ばれて届いて来る。
(大丈夫だ、何も恐れることはない)
王太子は自分の心を励ました。
(夜陰に乗じて敵陣に迫ったことなど、これまでに何度もあるではないか。
その点、今夜の相手は、剣を抜いて逆襲して来るわけでなし、部下の命を脅かすわけでもないのだからな)
相手と言うのは、さきほど訪れたばかりの民家の倉庫にいるはずの歌人フライオであった。
王太子の心には、日頃の潔い人格には珍しく、大きな迷いのぬかるみが出来ていた。
国家規模の問題に比べたら小さなことかもしれないが、それだけに結論が全て自分一人にゆだねられる。 大勢の意見を聞いて協議すればよい行政についての不安など、王太子にとっては何でもない事に感じられた。
例えば、エウリア妃の今後の処遇についての結論が、いまだに出せなかった。
それとは知らず女性に嫁いでしまった彼女を、今後どう扱おうと、実は文句を言って来るモンテロス王家は既に存在しないのだが、だからと言ってこのままにしておくわけには行かない。
本人の希望を尋ねるべく、戦地から手紙を送ってはあったが、まだ返信が届いていないのだった。
歌人フライオの今後についても、逡巡が続いていた。
彼の役割は、建国伝説の象徴になる事と、それを伝え広める語り部となることだ。
前者については、失敗もあったが、今回で十分な成果と共に完了したと言える。 であればこの先は、そのことを各地に語り伝えるべく旅立って貰うのが一番いい方法であろう。
これからの国づくりに必要なのは、もっと政治的な才覚を有した中枢部の人材と、もっと現実的な技術や知識を持った職人や専門家たちである。 歌人が国元にいても、することはたいしてなかろうし、本人もそんなことは望まぬに違いない。
しかし、そんなこととは無関係に、未練が王太子の決心を鈍らせている。
これからあの歌人を必要なのは、自分自身なのだ。 否、自分ひとりだけなのだ。
突然女性の人生を歩むことになった自分を、奮い立たせてくれたのは、自分をいつでも女として見つめてくれていたあの男だけだ。 仮に今、彼を手放してしまえば、またいつ会いに来てくれるともわからぬ相手を、延々と待ち続けることになる。 イリスモント自身は、新政権の発起人として政治に絡まぬわけに行かないし、であれば結婚の話もいずれ持ち上がって来る。 別れは否が応にも、いつか必ずやって来るのだ。
ギリオン・エルヴァ再生の話も、結局ただのおためごかしで、本心を言えば権限のある今のうちに、歌人に手枷足枷つけてしまいたいだけなのではないか。
自分の心を分析して、王太子は嫌悪感に顔を曇らせた。
その時、突然目の前が赤くなったような気がした。
雪の溶けかけた道を踏みしだくために、下ばかり見ていたイリスモントは、顔を上げて行く手に目をやる。 その顔を、押し寄せる熱気が挑発的に舐めた。
赤い壁が一面に広がって、行く手を塞いでいた。
火を起こしたまま忘れ去られた、炭火のようなうす暗い赤だ。 その赤が、視界いっぱいに連なって、これから行く物置小屋を覆い隠してしまっている。
「……ご、ご母堂!?」
その赤が竜の皮膚の色だと、イリスモントにはわかった。 以前オーチャイスの祠の中で見た、あの鱗が取れた竜の皮膚。 こんな都心の外れに、それほど大きなものが出現すること自体、あり得ない事だった。
壁面に背中を張り付かせて、素朴な服装をした中年の女性が、緩やかに微笑んで立っていた。
「どうやってここへ? こ、この竜は山一つ分はあるはず……」
駆け寄って話しかける王太子の声が震えている。
「大きさは関係ないんです殿下、この竜はとにかく、行きたいところへ行けるんです。
といってもまあ、ホントにここに来たかったのは、竜じゃなくってわたしの方だったんですけどね」
フライオの母、マレーネ・フリオーニは、そう言って明るい声で笑った。
「フライオに会いに来られたのか、ご母堂」
「いいえ、殿下にお会いするために来たのです」
「私に?」
「はい」
マレーネは、壁面から動かせない不自由な手で、背後の壁面から小さな懐剣を抜き取った。
「竜の血に染まった短剣です。 竜神のご加護で浄化の力があります。
本当なら、あの子に渡すのがいいんでしょうけど、あれはまず剣を扱うことが出来ますまい。 よしんば出来たとしても、お恥ずかしいことにあの性格ですから、決心がつかずに逃げ出してしまう事でしょう。
殿下、あなたは国を救うお方、国をおつくりになるお方。
どうぞ息子の代わりに、このカラリアを救って下さいまし」
わけを尋ねる暇はなかった。
竜の赤い皮膚がぶるんと身震いし、じりじりと移動を始めたからだ。
王太子が急いで懐剣を受け取ると、それを待っていたかのように、荒々しい熱風が吹き荒れ、民家の壁にかけてあった農耕用の網籠や笊が、踊りながら落ちて来た。 思わず声を上げて、その場から飛び下がり、地面に伏せる。
王太子が再び顔を上げた時にはもう、赤い竜の姿は視界のどこからも消え失せていた。
その頃、歌人フライオは、夜更けの小屋の中で、王太子と同じ夜涸鷹の声を聞いていた。
ただ聞いていたのではない。 器用な歌人は、この時同時に3つの事をこなしていたのだ。
まず彼の唇は、頭に浮かぶ旋律を、小さな声で片端から体の外に出していた。
それは手慣れた作業だった。 頭の中の歌を実際に客の前で歌って見せる前に、歌人はいつもそうやって、まず自分の耳にだけ聞かせてやるのだ。
それはイメージと現実の音声を一致させるためでもあったが、もっと切実な目的もあった。 記憶するためだ。
彼ら職業歌人は、原則として譜面や文字を使用しないので、記憶の保存は大変重要な仕事である。 他人が作った流行歌や、自分の完成品を記憶することはもちろんだが、そうした「出来上がり品」の記憶は比較的たやすい。 問題は、思いつくなり消えて行ってしまうあぶくのような未完成の旋律を、いかに精密に多数覚えていられるかだ。 そういったあぶくが固まって、いつか一つの美しい旋律を作り出すことも多く、自分の作品の多様性を追求するなら、必ず覚えていられなくてはならない。
そうやってまず自分の耳に、記憶のために聞かせておかないと、二度と会いに来てもらえぬ恐れのあるメロディーたち。 それこそが彼らの飯のタネなのである。
旋律を記憶する一方で、歌人の手はせっせと荷物の中から、旅支度に必要なものを選び出し、寝台の横に並べて出立の準備をしていた。
そして、メロディーの合間に息を継ぎ、ベッド脇におかれたバスケットから、差し入れのパンや果物をひと口齧って大急ぎで咀嚼し、食道へと送り込む。
つまり、出発前の腹ごしらえも、同時進行している状態なわけだった。
と、ふと彼は歌を止め、せわしない手の動きも休めて、耳を澄ました。
鳥の声とは明らかに違う響きを聞き取ったからである。
ノックの音だ。
聞こえるか聞こえないかと言ったほどの微かな音が、入り口の粗末な扉を微かに揺らしている。
「開けてくれる? あたしよ」
囁くような小声は、夜気に甘い香りを混ぜながら小屋の中に入って来た。
底抜けルーラの声だった。
「ルーラ!? どうした、まだ寝てなきゃまずいんじゃねえのか」
「そうだけど、あなたに会いたくて来たのよ。
早く開けて、寒いわ」
フライオは慌てて心張に噛ました棒を外そうとしたが、そこでビクリと戦慄して手を止めた。
ひゅう。
ひゅう。
なにやら不安を掻きたてる音が、ルーラの気配と共に侵入してくる。
呼吸の音だ。
なにがおかしいのかは、はっきりわからない。 しかし、歌人の耳はその音が、普段のルーラの息遣いとは違うと確信した。
「ええと……ホントにルーラ?」
「何を言ってるの? フライオ、ふざけてないで早く開けて」
こっちは間違いなくルーラ本人の声である。
ひゅう。
ひゅう。
不安な呼吸音は、その声の合間に聞こえて来るのだった。