11、王太子の決心
人々は天を仰いでいた。
歌声が風に乗って、上空から降りて来るように感じたからだ。
温かい歌だった。 轢いていると、何も考える気にならなくなった。
寒さに凍えかけていること。 明日からの食料の心配。
雪に埋まったであろう我が家は無事か、家族はどうしているかと案ずる焦り。
それまで胸の奥にこびりついていた不安を、彼らはその時、忘れ果てていたのだった。
雪雲に閉ざされた空を見上げながら、人々は耳の中を駆け抜ける歌声に、ただ意識を嬲らせておくことを望んだ。
光に集まる虫がそうであるように、鐘の音を聞いて集まる鳥や魚がそうであるように、人々は誰もが、ただ純粋に顔を上げてフライオの歌声を聞き、その音のみに体を向けていた。
そのうちに、人々の視線は天から地上へと移った。 それぞれが自分のほこりまみれの足元を見下ろし、泥だらけの掌を光にすかして笑い出した。 そしてゆっくりと周囲を見回すと、仲間たちが同じように自分を見て、微笑んでいることに気付いたのだった。
白く積もった雪はきらきらと輝き、辺りは眩しい光に満ちていた。
いつの間に雪が止んだのだろう。
いつの間に日が射して来ていたのだろう。
誰も記憶してはいなかったが、いぶかる者もまたいなかった。
「きれいだねえ」
誰かがつぶやいた。 穏やかで気負いのない、子供のような声だった。
「うん、きれいだねえ」
「こんなにきれいなとこにいたんだなあ」
本当にきれいだ、と王太子イリスモントも思った。
カラリアは美しい国だった。 自分が統治していようが、他の誰かに掌握されていようが、それは変わりのないことだった。 建物が立ち並んで町がにぎわっていようが、雪と氷に閉ざされていようが、この類まれな輝きに亀裂を入れることは出来ないのだ。
不意に、誰かが泣き出した。 悲しい声ではなかった。
それは中年の兵士だった。 雪の上に膝まづいて、組んだ指に涙をはたはたと落としながら、彼は静かに泣いていた。 つられて何人かの兵士が手を合わせ、鼻をすすりながら祈り始めた。
笑い出す者もいた。 抱き合ってわけもなく肩を叩き合い、くすくすと意味のない笑いを楽しんでいる。
フライオの歌声は、それぞれの人の思いを大気に溶かし、降りやんだ雪の代わりに地面に舞い積もらせた。
「おい。 あれを見ろ」
柵の上に登って外の様子を見ていたロンギースが、振り返って王太子に声をかけた。
「向こうの方から何かが広がって来るぜ。 ここへ上ってみな、お嬢ちゃん」
側近たちが止める暇もなく、王太子は走り寄って柵の上に駆け上がり、ロンギースに寄り添って遠方を望んだ。
雪原と化したカラリアの市街地と、その向こうの田園地帯。 そのすべて白一色の中に、ポツンと一塊だけ黒っぽい場所がある。
いや、よく見るとそれは黒ではない。 真っ白の中にあるから黒く感じるだけで、よく見ると思いのほか明るい緑が混じっている。
「草が……」
その緑色は生き物のように動いていた。 地平線の向こうから、一点を中心にだんだん広がってこちらに来たと言う印象だった。 とてもゆっくりではあったが、辛うじて目に見えるくらいの速度で、草たちは成長して広がっているのだった。
草の上には虫たちが群がり、その上を小鳥が円を描いて飛んでいる。 明らかにその場所で、生命が急増していることが判った。
「殿下! 森です。 あそこはクルムシータの森なんです!」
高らかな叫び声を聞いて、王太子が顔を上げると、いつの間にかユナイが身軽に柵の最上段に上がって、興奮した顔を日光に輝かせている。
「あいつ、復活したんだ。 きっとそうです。 だから森が生き返ったんですよ!」
笛の音が高く響く。 ヴィスカンタが柵によじ登って、指笛を吹き鳴らしていた。 エルヴァ隊の兵士たちがすぐさま真似をする。 細く高く、交錯する指笛の音が大空に駆け上がった。
緑が生えそろった地域に、今度は木が育ち始めていた。 フライオの歌声と、合いの手を入れるように響き渡る指笛の音が、伸びる草木を賑やかに応援する。 拍手が湧き起り、数人で踊り出す兵士も現れた。
竜はもうどこにも居なかった。
後日、「いや、白竜は消えたが、赤い竜を見た。 あの時広場の上空に、赤く光る竜が舞っていて、その熱で雪が溶けたんだ」という者が現れ、面白がった一部の歌人が、建国の英雄を讃える歌に織り込んだりしたのだが、定かな情報があったわけではなかったので、おとぎ話の域を出なかった。
歌人フライオが柵の中に戻って来た。
人々は目を丸くした。 彼は、ひとりの大柄な兵士を伴って戻って来たのである。
巨体の兵士は、黒い愛馬にまたがり、右の肩に底抜けルーラを腰掛けさせ、左手でギリオン・エルヴァの遺体を乗せた橇を引きながら、歌人と二人で雪原をゆっくりと横切ってやって来た。
弾ける歓声が広場を満たした。
「ピカーノじゃないか! お前無事だったのか!」
「そんな大男を一体どこに隠してたんだ、フライオ!」
親衛隊の面々が大喜びで駆け寄ると、ルーラを地面に降ろしながら、ピカーノが大きな掌で頭を掻いた。
「いや実は、今のいままで凍っていたんだ」
忠臣ピカーノは、王太子を白竜から庇って、愛馬もろとも凍り付いてしまった。 そのままなす術もなく放置されたのだが、時間と共に更にその上から雪が積もり、小山のような塊に変貌していたのだ。
フライオは全くそれと気付かず、小山を風よけにしてその正面に雪濠を掘り、ルーラと二人で暖を取っていた。 雪解けとともに露出した巨体と大きな馬を見て、ふたりは雪の上にひっくり返って驚いたのだった。
その晩は宴となった。
急成長した草木から、たわわに実った果物が収穫されたので、誰もがそれまでの空腹を満たして余りある食料を提供された。 柵から出て近隣の民家に戻った住民たちが、自宅から樽酒を持って来て振る舞ってくれたので、兵士たちは久々に、心地よい酔いに顔を赤らめ、夜空に笑い声を響かせた。
兵士たちが美酒に酔いしれている間に、王太子は近隣の農家から倉庫を一つ借り、そこへフライオを伴った。
そこには少年魔導師のポータと、ヴィスカンタをはじめとするエルヴァ小隊の兵士たちが揃っていた。 彼らは棺代わりとなっている橇の上に横たわったギリオン・エルヴァを取り囲み、摘んで来たばかりの花を捧げて待っていたのだった。
ギリオン・エルヴァの体を覆っていた白い氷は既にすっかり解けており、その顔は眠れる天人のような神秘的な眠りの中にあった。
「イリスモント殿下。 あの本当に、埋葬じゃなくて、再生でよいのでしょうか」
室内に入って来た王太子を見るや、ヴィスカンタが質問した。 切りだしておいて、すぐにフライオに遠慮するように目を反らし、申し訳なさそうに頭を下げて見せる。
「いえもちろん我々は、准将がどんな形であれ、生きてお戻りになるとなれば嬉しいです。
しかし、国家的にみると准将は、戦犯と言う立場になるのでは……。
のちのちこのことが、殿下や新体制の方々を不利な状況に追い込むことにはなならないでしょうか」
「不利かどうかはともかく、彼を戦犯と呼ばせはしない。 これはそのための措置だ。
カラリア王家は、ギリオン・エルヴァを国家政策上の被害者として扱う。 もちろん、彼に害された民衆や兵士に対しても、同じ意識で向き合うつもりだ。
そのことに反感を持つ人間もいようから、取りあえず賛成派になりそうな者だけここに集めたのだ。
まあ例えここにおる誰かが反対したとしても、私は考えを変えるつもりはないがな」
静かだがきっぱりとした口調で、王太子は一同に宣言した。
「エルヴァが生まれて来るのちの世を、彼の敵にしない努力を、我々はしなければならない。
その保証がなければ、彼の遺体を再生に持ち込んでも八つ裂きにされるだけだろうからな。
カラリアの再建と同時進行で、そなたたちにはそういった活動をしてほしい」
兵士たちはだまってうなずいた。
彼らは揃って目に涙をため、寛大な措置を素直に喜んでいるようだった。 そのことがフライオには嬉しかった。 それで、この万事にいい加減な男には珍しく、歌人もまた黙って一同に低く頭を垂れたのだった。
ポータは王太子に促されて、再生の儀式を始めた。
それは、呪術と聞いてフライオが想像していたものよりずっと単純で、宗教的な装飾部分の少ない儀式だった。
まずポータは大きな古い黒布を広げ、ギリオンの体をすっかり覆い隠した。 その上を小さな手で何度も何度も撫でながら、小声で呪文を唱えている。 それが再生のために、この小さな魔導師がやったことのすべてだった。
酷くおもむろに、目立たないくらいゆっくりと、変化は表れた。
布の下の質量が少しずつ減って行くように感じられ、やがて橇の上の空洞が、目に見えてわかるようになった。
最後に残ったこぶし大の塊を、ポータは両手で包むようにして、布の上から優しく撫で、ひときわ大きな声で仕上げの呪文を唱えた。
一瞬ののち、塊は姿を消した。
息を飲む人々の前で、ゆっくりと黒布が持ち上げられると、下にあるのは冷たい橇の底板だけであった。
一緒に酒を飲もうと言った王太子やヴィスカンタの誘いを、フライオは丁重に断った。
彼はテントではうまく寝つけないことを理由に、そのまま倉庫で一晩宿泊させて欲しいと、自分で農夫に頼みに行った。 今日ばかりはどんちゃん騒ぎでお茶を濁す気にならなかったのだ。
さっきから歌人の頭の中を、鮮烈なメロディが駆け巡って止まなかった。
心のうちからドン、ドンと拳で壁を叩く音がする。
それははちきれそうな勢いで体中を満たし、口を開いたらあふれ出しそうな勢いだった。
宴の席に戻った王太子は、マルタに食事をさせてねぎらい、自分も置きっぱなしだったグラスをまた取り上げた。
「ところで殿下、掃討戦はどうなさるのですか」
野暮なことを言い出すイーノ・キャドランニの頭を、ピカーノが無言ではたいた。
「何で殴る? これは大事な事じゃないか。 魔導師が生き残っていたらどうするんだ!」
「そしたらここに呼んで、一緒に酒を飲むさ」
王太子が答えて、自分で大きく吹き出した。
「先方は、さぞかし嫌がる事だろうがな」
イリスモントは自分の盃を膝の上に置き、部下たちの顔を見渡した。
「私はもともと王族の資格はない者だ。 だから、出来るだけ謙虚に生きて、国民の為になる政治をしようと思っておった。 自分のためでなく、みんなのためになるようにと。
しかし、この戦でつくづく思い知った。 このカラリアに生きているのは、人間だけではないのだ。 魔導師がどうの、王族がどうのと、そんなことで争っておること自体、少しも謙虚とは言えぬな」
ふふん、とマルタが鼻先でかすかに笑った。 ピカーノも、少し離れた場所でそれとなく聞き耳を立てていた山賊たちも、多少の差はあれど似たり寄ったりの反応を見せた。
「枠がない」
口下手のマルタが、珍しく感想を口にした。
「王太子殿下の御心には、人を隔てる枠がない。
身分とか、階級がない。 敵とか、味方もない。
私はそれがとても好きではあるが」
そこで一旦言葉を切って、マルタは大好きな酒をぐびりとあおった。
「好きだが、なんだ」と、王太子。
「ここに至って、少々不安になりました。 せめてもう少しくらいあってもいい」
全員がげらげらと笑いだした。
王太子はポータの方に向き直り、少年と視線の高さを合わせるために地面に膝をついた。
「ポータ、もう少し詳しく教えてくれ。
ギリオン・エルヴァの体から、呪いは消えてなくなったのか」
「消えたよ。 もうジャデロはいないし、残っていた呪いはおいらが昇華したから」
「ありがとう。 それでいつ頃、誰の家に生まれて来るのかな?」
「そこまではわかんないよ。 これから腹の中に宿る赤ん坊の中で、一番初めの子になるだろ」
「生まれた子を見たら、これこそが彼だ、とわかるだろうか?」
「王子様にはきっとわかると思う。 他にもわかる人がいるかもね」
イリスモントは何度か慎重にうなずいて、しばらく考え込んだ。
そのあと、不意に立ち上がり、グラスに残っていた酒を一度に喉の奥へ流し込むと、側近であるイーノ・キャドランニを振り返ってこう切りだした。
「イーノ、兵士たちは、戦が終わったからには、早く家に戻りかたろうな?」
「は。 それはもちろんでしょうな」
「すまぬが、それをもう少し延期させてくれ。 豪雪の後片付けとか、復興の準備とか、なんとでも言い訳をしてよいから、あと2、3日。いやせめて5日」
「それはお心のままに致しますが、何か理由が?」
「私が産む」
「は?」
「ギリオン・エルヴァを、私が産もうと思うのだ。
そのためにはまず、なんとかして一番に妊娠をしなければならぬ。
明日にも兵士を帰してしまったら、彼等の奥方に先を越されぬとも限らぬからな」
キャドランニの顔が、首を絞められた山猫のようにひきつって固まり、そのあと、いきなり極限まで弛緩した。
それから静かに、彼は笑い始めた。
「ははは、ははははははは、はははははははははは、ははははっはははっははあ」




