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千里を歌う者  作者: 友野久遠
竜使いの牙
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10、太陽と大地の歌

 激しい吹雪と風に叩かれ、底抜けルーラはよろめきながら雪濠の前に辿り着いた。

 駆け寄ったフライオの腕の中に倒れ込んだ時も、まだ小声で歌を歌い続けていた。 途切れ途切れの歌声が、吹雪そのもののように歌人の胸に突き刺さる。

 

 「ルーラ! なんでこっちへ来るんだ? モニーのとこに行けばよかったのに。

  俺んとこ来ても、火の気も食い物も竜の皮の囲いも、何一つねえんだぞ!」

 「だって、母さんが言ってたもの」

 ルーラの返事は口が開けづらいらしく聞き取りにいもので、声も小さかったが、意識ははっきりしていることが判った。

 「死ぬときは笑って死になさいって、いつも言ってたの。

  人間はね、最後の一言だけを、天国に持ち込めるのだって。

  だから、最後に歌を聞いて、笑って死のうと思ってここに来たのよ」

 「よせやい、縁起でもねえ。 待ってろ、今あっためてやるから」

 フライオは言ってしまってから、ルーラの体を雪の上に降ろすことをためらって途方に暮れた。 吹き付ける風から身を守るには、穴の中に入るのが一番なのだが、狭い雪濠はひとりで満員である。 広げるためにはルーラの体を一旦、雪の上に横たえなければならない。 吹きさらしの雪の上に冷え切った彼女を横たえるのは危険ではないのか。

 フライオは自分が入っていた穴の中に取りあえずルーラを入れようとした。


 「いやよ、離さないで!」

 思いがけなく強い力で、ルーラがしがみついて来た。

 「ここでいい。 このままでいいからしっかり抱いていて」

 「で、でもここじゃ凍っちまう」

 「歌を歌って。 歌で暖まりましょう」

 そうこうするうちにも、顔面に叩きつける雪が二人の睫毛を凍らせ、吸い込んだ冷気で肺の中がきしむ。

 やむなく歌人は、ルーラを抱いたまま、木立のような突起物と雪濠の隙間に身をかがめて這い込んだ。


 見上げると白い蛇は、吹雪の中を踊りながら、またこちらに寄って来るところである。 決して見ないように顔を反らして、フライオはルーラの口を服の端で覆い、冷気を吸い込まないようにしてやった。

 背後から肩に吹きつける風が、にわかに強まった。


 (居やがる)

 白い蛇が、すぐ背後の中空から自分たちを睨むのを感じた。 振り向かなくても、冷気でわかる。 ひとを揶揄するような表情で、白い牙を鳴らしてこちらを見ているのがわかる。

 『その女は冷たかろう』

 蛇はそう言おうとしていた。

 『歌ってやるがいい。 お前の歌を聞くためにわざわざやって来た女だからな。

  よい葬送曲を作るがよいさ』

 

 ルーラの外套から、煮凝ったように濃厚な冷気が歌人の体に染みて来ると、本格的な震えが彼の全身を襲った。 歯先がガチガチと音を立て、腹の力が抜けなくなる。

 (やべえ。 息が吸えねえ)

 放浪暮らしの身、寒さに凍えたことは一度や二度ではない。 どこまで行けば危険かは、わかっているつもりだった。

 雪の降る屋外で、一番怖いのはもちろん凍死の危険なのだが、その他にも恐ろしいことがたくさんあった。

 例えば凍傷で指を失えば、楽器を弾くことが出来なくなるし、冷気で喉や肺を傷つけたら、歌そのものが商売に使えなくなる。 だから、どんなに客に挑発されても、その1曲でパンが買えると判っていても、吸い込むだけで咳を生じるほどの冷気の中では演奏してはいけない。 同じ歌人同士で酒を飲むと、よくそんなことを諭されるのだった。

 今、大きく息を吸い込んだりしたら、胸ごと凍り付いてしまいそうだ。


 『どうした? 歌わぬのか』

 蛇が笑った。

 フライオは首をめぐらせて、肩ごしに白蛇を睨みつけた。 燃えるような赤い両眼が視界に飛び込んだ途端、胸の中に生まれたのは刺すような痛みだった。


 

 兵士が朝日を浴びながら叫んでいた。

 「起きろ、クソ餓鬼め。 お前のせいでえらいことになったじゃないか」

 潜り込んで眠っていたテントから、無理やり引きずり出された。

 雪の中に点々と続く足跡。 それを辿って山に入ると、足元の雪が急に赤く変わった。

 血の色をした雪の上に、2人の兵士が倒れていた。

 「こいつら、夜中に脱走して国に帰ろうとして、狼に食われたんだ。

  自分のやったことをよーく見ろ!」

 「お、俺は頼まれて歌を歌っただけだよう」

 フライオの小さな体を、兵士は赤い雪の上に突き転がした。

 「だったらもっと景気のいいのを()りやがれ! 初陣の連中に変な里心つけやがって。

  こういう臆病な連中を奮い立たせるのに、俺たちがどれだけ気を遣ってると思ってんだ?」

 真っ赤な雪は、フライオの頬を紫色に染めた。

 「だって、寒かったんだ。 テントに入れてやるって言われたから。

  寒かったんだよう」

 

 

 はっと目を見開いて、フライオは首を振った。

 (いけねえ。 蛇の術中に嵌ってら)

 思い出したくない事ばかり思い出すのは、ジャデロがギリオンにかけた呪いのせいだ。 フライオは激しく首を振り、悪い記憶を追い払おうとした。

 腕の中のルーラを抱き直すと、あの時と同じ、女の子らしい甘い香りが鼻孔をくすぐる。 歌人は記憶の中から、触れ合った肌のぬくもりを取り出して感じようとした。

 

 しかし、それは耳の中に沸き起こった声にかき乱されてしまった。

 「我々の関係はなんだ?

  ただ顔を見知っておるだけの、他人なのか?」

 それは王太子イリスモントの声だった。

 彼女は泣いていた。 ドキリとするほど透明な涙が、滑らかな頬を元気に伝い落ち、衣服の高級な布地に吸い込まれて行く。


 『そうだ、思い出せ。

  その女を抱くと、それだけで悲しむ女がいるのだろう』

 白蛇があざけりの笑いを浮かべた。

 腕を動かそうとすると、乾いた音と共に袖口が裂けるのが判った。 自分は凍りつきかけている、と判って、フライオの心に新たな恐怖が生まれ、それがまた更なる冷気を運んで来る。


 (ダメだ、もうダメだ)

 歯を食いしばって震えを堪えるだけで、他の何をする事も出来なくなって行く。

 「ごめん、母さん」

 口の中で弾けた言葉は、無意識の物だった。




 「しょうのない子だね、ラヤ。

  めそめそ泣く前に、周りをよく御覧よ」

 不意に母の声がした。


 びっくりして顔を上げると、目の前にエプロンをつけた若い母が立っていた。 小さなフライオの眼には、腹の辺りしか見えない。 そうだ、いつもこの地味な混ざり糸の織物を羽織っていた。

 「ほうら、なあんにも悲しいことなんて起こってないだろう?

  さあおいで、かあさんが抱っこしてお話をしてあげようね」

 母はフライオの体を軽々と抱き上げ。自分の柔らかな頬を押し付けて、息子の涙を拭き取ってくれた。

 腕の中はとろけるように温かかった。 

 そうだ、いつも母の胸の中は、こんな風に広くて暖かかったのだ。


 『だが、今はどうだ?』

 白蛇がせせら笑う。

 『お前のせいで母親は足を失い、自由に動く事も出来なくなった。

  よく見ろ、母の足を』

 

 しかし、恐る恐る見下ろした母の足は、ちゃんと2本とも揃っていた。

 母はフライオを抱いたまま、くるくるとダンスを踊って見せた。

 「馬鹿な蛇だね。 そんなことが悲しい母親なんていやしないよ。

  親は子供の為に死ぬなら本望だ。 だって死ぬ思いをして、この世に産み落としたのだものね!」

 母の笑い声がフライオの胸をかっと火照らせた。


 「さあラヤ、母さんを殺してお前が幸せになるなら、いつでも遠慮なく殺すがいいよ。

  でもひとつ約束しておくれ。

  自分が幸せになったら、必ず隣の誰かを幸せにしようと頑張ってみるって」

 「隣の人を?」

 「そうさ。 みんな別々の人間なんだから、いっぺんに誰もかれもが幸せにはなれないだろ。 幸せって一回なったらずうっと続くもんじゃないしね。 明日はまた不幸が来るかもしれないさ。

  どんなえらい王様だって、国中の人全部を一度に幸せには出来ないもんだ。 だから、たまたま自分がいい感じの時は、その勢いで誰かをついでに幸せにしてやるんだよ。

  みんながそうやって、いつも分け合っていればさ、いつかまた自分の順番が回って来るってことじゃないか」

 「かあさんはいつもそうしているの」

 「そうだよ。 ギルもそうじゃないか」

 「ギルも」

 「あの子にも、小さい頃から同じことを教えているからね」



 心臓の音が高くなった。

 フライオの眼にジワリとこみ上げて来た涙は、飛び上がるほど熱かった。

 「ギルは、いつも俺を庇おうとしてくれた」

 「そうだよ」

 「俺が村を出る時も、勇気づけようとしてくれた」

 「そうさ。 ギルは落ち込んでいたけど、武人さんに引き取られることになって自分だけ幸せになると思ったから、お前に分けてくれたんだよ」

 「エウリア妃を庇って左遷されたのも」

 「新しい人生で、出世もして、幸せだったからだろ」

 「わざと苦しい道を選んで、自分を罰していたんじゃねえのか!」

 「馬鹿だね、この子は。 逆だよ逆。 ギルの性格を考えて御覧。

  本当にもう、もちっと大人におなりよね」

 母はフライオの顔をエプロンの裾で拭いて笑った。


 「幸せだった! ギルは幸せだったんだ。

  だから譲った。 だから庇った。 だから人を助けようとした!」

 フライオは立ち上がった。

 「俺はギルを不幸になんかしてねえ。 誰も不幸になんかしてねえ。

  人を不幸にしてるのは、蛇よ、お前じゃねえか!!」

 フライオは叫んで、白蛇の顔を睨みつけた。


 白蛇の顔が歪み、その口が怯んだように縮んで行くのが判った。

 フライオは息を吸い込んだ。 温まった空気が、楽々と肺の中に流れ込む。 力いっぱい取り込んだそれを、目の前の白蛇に向けて吐き出した。

 「俺は幸せだ。 今わかったぜ。

  さあ、てめえにもおすそわけだ!」

 熱い呼気を口に乗せ、歌人は歌い始めた。

 輝く太陽の歌を。



 

 竜皮の囲いの中では、王太子の膝にすがって、小さな男の子が泣きじゃくっていた。

 「どうした、ポータ。 泣いてばかりはそなたらしくないぞ。

  そろそろ訳を話してみぬか」

 王太子に頭を撫でられて、ポータはやっと顔を上げた。 涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔だ。

 「おいら、できるんだ。 この雪を止められる。

  だって、ジャデロはもう死んだもの」

 「ほんとか」

 「出来ると思う。 でも言えなかったんだ。 もしもジャデロが生きてたら、おいら八つ裂きにされちまうもの」

 「ジャデロは生きてはおるまいよ。 生きておったら、ようやく手に入れた国土と国民を、雪の下に埋めるようなまねはしておらぬだろうさ」

 「ううん、生きてるかもしれないけどいいんだ。 急がないとルーラが死んじまうよ」

 「どうすればよいのだ?」

 「ギリオン・エルヴァの所へ連れてっておくれよ」

 「この雪の中をか」

 「雪を止めに行くんだぜ?」

 「わかった。 おーい、誰かこの子と私に、上着をもう一枚持って来てくれぬか」

 

 王太子が外へ出ると言うので、周囲の者が慌てて止めに入り、代わりに誰が行くかで論争になった。

 その時だった。 歌声が聞こえて来たのは。


 その歌の中には、全てのものがあった。

 太陽の光。 大地の呼吸。

 母の抱擁。 恋人のぬくもり。 友人の笑顔。

 故郷の川のせせらぎ。 葉擦れのささやき。 森の花の香り。

 人々は息を止め、突然沸いた歌声に耳を預けることに集中した。 


 フライオの声は一瞬で、カラリアの大地をぶるんと脈動させたのだった。

 

 いやー、日中温かくなりましたね。 暑いくらいです。

 それなのに吹雪の話を書いてるのはどこの誰なんだ。

 失礼いたしました。 来週には温かくなりますから。

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