1、鬼も蛇も出る地下牢
王城カラル・クレイヴァの敷地内に、牢と名の付く場所は2箇所ある。
ひとつは城の北西に位置する高い塔の中で、前王の王妃と王太子妃が幽閉されていたことからもわかるとおり、高官や要人を隔離または幽閉する場合に多く使用される。 その期間も、何年もの長期間であることが多い。
いまひとつは、いわゆる地下牢である。
王城の石畳の下にあるのは、秘密の地下通路のみではない。 国家に仇為す者を捕えて、王や神官の裁きを受けさせるために一時的に幽閉したり、公開処刑のため死刑囚を召還したりした場合に、この地下牢へ入れておくことになる。
刑の決まった平民を収容するための牢は、王都の外に複数あるので、この地下牢は短期専用ということだ。 国王のお膝元であるにもかかわらず牢内の環境が劣悪である理由は、絶え間なく入れ替わる囚人が文句を言う暇も体を壊す暇もない、ということに尽きるだろう。
「だからって、こいつはあんまりってもんだろうぜ。
せめて床の1箇所くらい乾いてたって、バチは当たんねえだろうによ」
歌人フライオは、天井からしたたり落ちる地下水で満遍なくびしょ濡れになった石組みの床を見下ろしてため息をついた。
意識のない状態で放り込まれ、気がついた時には一張羅のマントが茶色い泥水を吸い込んでいたのだ。
仕方なくその後もマントを尻に敷いて座っていたのだが、そろそろ直接水の冷たさが沁み始めてきたので、やむなく立ち上がったのである。
普段細かいことを気にせず済んでいるのは、ヴァリネラがあり歌に集中していてこそである。 ここに所在無く座っていろといわれたら、この環境は耐え難い。
だからといって、無理に歌を歌おうとしてもなかなかその気になれるものではない。 ここには歌心をそそる物が何もないのだ。
(あのクソ親父、俺をどうするつもりだろう。
ああ、俺はなんであんな馬鹿な間違いをやっちまったんだろうなあ)
ギリオンに引きずられて、結果的に王太子と敵対する戦をしてしまった失敗が、今更のように歌人の胸の中を黒く塗りつぶしている。
これは是が非でも、ギリオンに説明をしてもらわねばおさまらない。
と、その時。
格子越しに見える狭い通路の石壁に、ほろほろと明かりが点った。
牢番の中年男が蝋燭に火を入れて回っているのである。
続いて廊下を複数の人間が歩いてくる足音。 気配からしてかなりの大人数だ。
じゃらじゃらと鎖を引きずり、兵士に小突かれながらやってきた男は、通路いっぱいに広がって今にも詰まってしまいそうな体躯の持ち主だった。
(ロンギース!)
自分の房を通過する一行を、悪夢のように感じながらフライオは見送った。
牢番の後ろから、王宮内の役人が1人。 その後を屈強の兵士たちに挟まれて、大男のロンギースが歩いている。
軽く足を引きずっているのは、怪我のためではなく、全身に巻きついた蛇のような長い植物のためらしい。 恐らく巨漢の自由を奪うために、魔導師が施した魔法だろう。
押し黙って歩く首領の後ろから、涼しげな眼をした若者がひとり付いて来ていた。
均整の取れた長身を覆っている赤い甲冑と、かぶとを取り去った頭を飾る豪奢な金の髪が、蝋燭の薄明かりに浮かび上がる。
ギリオン・エルヴァである。
「イモール。 この山賊を、あの歌人の隣に入れるなよ」
ギリオンはちらりと房内のフライオに目をやったが、話しかけたのは牢番の男に対してであった。
「け、喧嘩でもしますか」と牢番の声。
「一方的にひねり殺されるのを喧嘩と言うのなら、その通りだ。
それとさっき向こうの端に妙齢のご婦人がおいでだったが、あの女性とカナルーを隣同士にするのもやめておけ」
「はあ。 それはどういうわけで」
「壁越しにでも妊娠させかねんからな」
ギリオンは冗談を言ったらしいが、その場の空気では誰一人笑う気になれなかったらしく、沈黙を残して一行は通路の奥へと遠ざかって行った。
足音は一番奥の房の前で止まった。 じゃらじゃらと鍵束の音がする。
フライオは鉄格子に走り寄り、自慢の耳をそばだてた。
「てめえは、誰が王冠かぶっても尻尾を振ろうって腹なのかよ」
ロンギースの低いダミ声が、静かに毒を吐いた。
「一応、職務を全うしておきたいんでね。
寄り道をしてしまったが、ここにお前を送るのが当初からの使命だった。
ようやく果たせて嬉しい限りだ」
「てめえ‥‥。 何をたくらんでやがる?」
「別に何も」
「信用できるかよ」
「なら聞くな」
不毛にも思える問答の後、独房の扉が閉まる音。
役目を終えて戻って行く兵士とギリオンの足音が、再び近づいて来る。
フライオの耳はその中に、微かな歌声を聞き取っていた。
曳かれ者でも 心は覇王
悪魔に夢を売りはせぬ
木っ端役人 何するものぞ
俺の屍は またがせぬ
俺の自慢の 大だんびらは
刃渡り10と9・3・0
てめえなんぞは 刀のサビだ
暁の星まで 吹っ飛ばす
上機嫌で鼻歌を口ずさむギリオン・エルヴァが珍しいのか、兵士たちは笑い出しそうな表情で互いに突付き合いながら歩き去って行った。
(なるほどね)
フライオはフンとひとつ鼻を鳴らし、濡れたマントの上に座り込んだ。
(どうやら俺の従兄弟どのは、柄にもなく腹芸を仕込んだらしい)
ひと気のなくなった通路のあかりを摘まんで消している牢番を見ながら、フライオは考え込んだ。
その牢番が、ふっと辺りを見回してから通路に穿った用具入れの窪みに姿を消したのを、フライオは見逃さなかった。
「やあ、うまそうだな。 俺にも一口くんねえか」
「な、何の話だ?」
牢番はギョッとしながらも誤魔化して見せたが、辺りに微かに漂う安物の醸造酒の匂いは隠しようがない。
「いや冗談冗談。
そのかわりちょっとばかし頼まれちゃくれねえか兄弟」
「あんまり気安くせんでくれ」
「今、何時か教えて欲しいだけなんだが」
「10の刻を回ったくらいのはずだがね」
「そうなのか。 この地下にいたら、時間の進みがさっぱりわかんねえや。
ときに兄弟、あんたは夜まで仕事かい?」
「ああ、19で交代さ」
「じゃあその前にちょいと起こして貰えねえかな。
俺は毎晩決まった時間にお祈りをしなきゃなんねえのに、夕べはぶっ倒れて来たもんだからサボっちまった。 ここにいたら、今夜も忘れちまいそうだからさ」
「へ。 そういう話はいちいち耳を貸すなって言われてんだ。
旅館と勘違いしてくれちゃ困るってね」
「そう言わねえで、これでなんとか」
フライオは首に下がった「私有財産」の中から手ごろな宝石をひとつ外し、牢番の手に握らせた。
「ふん、まあいい」
牢番は内心の喜悦を隠してわざと渋面を作りながら、手の中の物を素早く懐に収めた。
「だがねえ、あんた。
その前にお召しやご処分がかかっても、あたしゃ責任取れないよ。
その辺は恨みっこなしだよ」
「いやそれで充分だ。 よろしく頼まあ」
交渉が成立したので、フライオは壁にもたれて目を閉じた。
そして口の中で誰にともなく呟いた。
「3は行く。 ゼロは布石せよ。
10と9の刻に行くから準備せよ。
‥‥問題は暁の星、捨てられ星なんだよな。
助けに来れねえなら、なんで時間を入れてあるんだ?」
牢番に揺り起こされるまで、フライオは眠りの川底にいたらしい。
19の刻は、夜が闇の中でこんがりといぶされた深夜である。
風の音も月の影も何もない石造りの地下牢の中に、歌人の歌声がしんしんと流れていた。
時間が時間であるから、囚人たちは寝静まっている。
しかし、交代したばかりの牢番まで眠りこけているのはさすがに不審な光景であった。
フライオが歌っているのは、故郷オーチャイスに古くから伝わる子守唄だった。
捨てられ星は 暁の星
夜がさよならと押し出す星
三日月が白い骨になるころ
鬼子の夢を見て泣くか
蛇子の夢を見て泣くか
通路の石畳を踏みしめて、軍靴の音が近づいて来た。
子守唄のリズムに合わせて、軍人には不似合いなそぞろ歩きの歩調である。
フライオは歌いながら緊張した。
(さあ。 鬼子の夢が出るか? 蛇子の夢が出るか?)