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#15

残暑厳しい山の中、学院の南東に設営されている二十五メートルプールは、強い塩素の匂いは漂っているものの、日光の照り返しできらきらと輝く水と、白く磨かれたスタート台、淡い緑色のプールサイドの彩りと相俟(あいま)って、なかなか美しい情景だった。今、そのプールサイドには数人の体操服姿の学院の生徒たちとジャージ姿の教師たちが(たたず)み、プールを取り囲んで、じっと水面を眺めていた。誰も()も、ただ見つめているだけで微動だにしていない。その一団に、一年一組の担任であり、国語の教師である合田(ごうだ)佳基(よしき)も加わっていた。

「あれは、諏訪湖を渡っているつもりなんでしょうかねえ」

合田の傍らに立つ、合田より一回り年長の、同じ国語教師がやや気の抜けた声で問い掛けた。視線は、プールに張られた水の上に立つ、一体の赤い着物の人形に固定されている。比重が軽く、浮くことが出来ているのか、付喪神の持つ何かしらの能力か術かで水上歩行を可能にしているのか、専門家ではない合田は判別が付かなかったが、とにかく、八重垣姫を模した日本人形の付喪神は、プールの上、水の表面を、すう、すう、と(わず)かずつ、滑るように進んでいた。

「あの話、湖は凍っていたと思うのですが」

合田が、同じ程度、気の抜けた声で応じた。何せ相手が水の上である。プールから上がって来ない限り、生徒たちも教師たちも手出しが出来ないのだ。いささか緊張感を欠いた会話が交わされ、生徒たちも、手持ち無沙汰というか、若干飽き気味に逃げ出した日本人形の付喪神を眺めていた。その間にも日本人形の付喪神は少しずつ歩みを進め、プールのほぼ中央まで来ていた。そこで、水を吸った着物が重くなってしまったのか、気を抜いたのか定かではないが、とぷん、という可愛らしい水音が上がった。日本人形の付喪神は水中に沈んだ。

『あ』

周囲の生徒たちと教師たちの上げた声が見事に(そろ)った。続いて気まずい沈黙が一帯を支配した。教師たちは顔を見合わせて、対処を講じる表情になった。

結局、トライアスロンの水泳で一着だった二年二組の生徒がプールに入って、日本人形の付喪神を救い上げた。生徒に抱えられてプールサイドに上げられた日本人形の付喪神は、情けなさそうな、申し訳なさそうな表情をしているように見えた。


長距離走の途中、戸辺山田の異変に気付いた他の走者と共に、八重樫は運動場にまで引き返して来ていた。何があったのか、運動場には生徒も教師の姿も殆どなく、唯一、倒れた放送テントの傍で作業をしている放送委員だけがいた。その他には倒れた救護テントからそれほど離れていない校舎前の通路で、横たわった制服姿の生徒を介抱している保健委員二人と医師がいる。八重樫は、一体何が(おこ)ったのか、タイトスカートにストッキング裸足の美月に事情を尋ねようとして、上がった叫喚(きょうかん)に、一緒に戻って来た長距離走の選手たちと共に声が聞こえた方を見やった。校舎の東側、美術室の前辺りで騒ぎが起こり、ひらひらと赤い布が舞い上がって武道場の方に向かって飛んで行った。続いて赤い小さな何かが飛び出して来て、これは一瞬、立ち止まるように動きを止めた後、運動場を横切って、プールに向かって移動して行った。

「追いかけろ!戸辺山田も、他の人形や、何もかも!」

美術室の前でたむろしていた一人の教師が大声で指示を飛ばした。周りの生徒たちが即座に反応して、あるものはプールに向けて駆け出し、あるものは上を向いて赤い布の飛ぶ軌跡を確認しながら、動き出した。八重樫は、追いかける対象に戸辺山田が入っていることに眉をひそめつつ、他の長距離走の出場者と顔を見合わせたが、とにかく指示に従うべく動き出した。赤い布と赤い小さな何か、どちらを追うべきか、考えたところで、校舎と倉庫の間から、人影が出て来て、叫んだ。

「誰か!誰か来てくれ!あの猿公(えてこう)、畑の方に行きやがった!」

『なにいいい!』

八重樫もだが、他にも何人かの生徒が声を上げた。全員、調理部の部員だった。同時に駆け出す。八重樫も猛然と走り出し、校舎の裏に回り込み、校舎の裏の土手を上がる獣道に近い小道を、他の部員に続いて駆け上がった。一旦土手の上に上がり少し奥に入ると、道は二手に分かれている。一本は上り、一本は下りで、それぞれ別の畑に通じていた。他の部員が迷わずに上っている後ろ姿を捉え、八重樫も追いつく勢いで走った。上の畑は下の畑に比べて小規模なのだが、畑の他に、栗や柿、蜜柑(みかん)といった果樹が数本、植えられているという違いがある。

「まだ収穫には早いんだっ!」

「荒らすなああ!」

上から部員の上げた大声が聞こえた。最後尾にいた八重樫が畑にたどり着いたとき、ちょうど、畑の真ん中辺りの(うね)、サツマイモの葉っぱの影から、近づいた調理部の面々に威嚇されて、赤いまるっこい物体が飛び出すところだった。それがひとの赤ん坊ほどの大きさのあるさるぼぼ(、、、、)だと、八重樫は気付いた。飛び出したさるぼぼの付喪神は、畑の奥に向かって、素早く駆け出し、奥に植えられていた柿の木に登って、殺気立った調理部部員たちから逃れた。

「待て!まだ渋い!」

「取るな!熟してからだ!」

柿の木の上、さるぼぼの付喪神は両手で、まだ緑一色の実を一つ、もぎ取った。その姿に向けて、調理部部員たちは下から怒鳴った。誰かが畑の端に置いてあった竹の棒を持って来た。それでさるぼぼの付喪神を突いて落そうとしたわけだが、繁った枝葉と実に邪魔され、上手くいかなかった。さるぼぼの付喪神は竹の棒では届かない位置にまで木を登ると、そのまんまるの顔を、眼下の調理部部員に向け、手の中の柿に向け、また部員に向けた。

ていっ、と効果音がつきそうな身振りだった。さるぼぼの付喪神は手にしていた柿の実を調理部部員たちに向けて投げつけた。避けた者もいたが、小太りで動きの鈍い、しかし調理部一の料理の腕を誇る二年生部員が額に直撃を受けて倒れた。

「ああっ、先輩!」

「こらてめえうちの至宝になにしやがる!」

調理部部員たちは、ある者は倒れた部員に駆け寄り、ある者は口々にさるぼぼの付喪神を(ののし)った。さるぼぼの付喪神はきょときょとと辺りを見回して、次の得物を探している様子だったが、あいにく()げる位置には実がなっていなかった。

「おうい!」

校舎の裏手に続く道の方から、声が掛けられた。部員の一人が網射出機(ネットランチャー)(たずさ)えて、駆けて来た。学院のある山には鹿や本物の猿も棲息している。学院のある側には滅多に来ないのだが、一応、捕獲用にと倉庫に置いてある代物だった。ただ、生徒の使用は禁止されている。今は注意出来るだけの余裕がある教師がなかったらしい。

『おおお!』

調理部部員たちがこれ以上無いほどの盛り上がりを見せた。

「行け!」

調理部部長の一声に、網射出機(ネットランチャー)が放たれた。耳を押さえた部員もいたが、クラッカーほどの音もしなかった。射出された捕獲用ネットは柿の木を包み込んだが、さるぼぼの付喪神は間一髪、隣の木に飛び移っていた。ただ、それは枝の(やわ)い柿の木ではなく、元々山に生えていた照葉樹だった。様子を(うかが)っていた八重樫は、さるぼぼの付喪神が柿の木から離れるのを目の端に(とら)えると同時、その進行方向にある木に向かって駆け出し、本物の(ましら)を思わせる俊敏さでするすると木を登ると、飛び移って来たさるぼぼの付喪神に向けて腕を伸ばした。さるぼぼの付喪神は慌てて身を(ひね)って、伸ばされた腕から逃れたが、体勢が崩れてしまい、しばし枝の上で腕をばたばたさせて(あらが)ったものの、ぽてん、と音を立ててて地面に落ちてしまった。

『うおおお!』

落下地点に向けて、調理部部員たちが一挙に突っ込んで来た。落下後、起き上がって後頭部を()いていたさるぼぼの付喪神は、その迫力に押されて、びくりと全身を振るわせて、硬直した。

「確保おおお」

ビーチ・フラッグスでもやっているかのような滑り込みで、さるぼぼの付喪神を掴んだ部員が、高々と腕を上げて、勝利の雄叫びを発した。

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