#14
『須賀!』
叫びつつ、一組の待機場所から坊坂と藤沢は飛び出した。里崎と代田も同じく駆け出しかけたが、すぐに足を止めた。倒れたテントの下から這い出てくる、白衣にスカートという特異な姿が見えたからだ。両者は視線を忙しく這わせ、別の存在を探した。美月が這い出て来たのは運動場側だったが、それと逆の校舎側に、突如、大柄な体が直立不動で現れた、と思うと、これまでの進路から九十度ほど曲がり、校舎と運動場の間にある、アスファルトの通路を東に向かって駆け出した。上履きのまま通路に立って学院祭を見学していた三年生が二人、その前に立ち塞がったが、戸辺山田は全く躊躇することなく地面を蹴り、見事な飛び蹴りを食らわせ二人を蹴倒すと、何事も無かったかのように起き上がり、また駆け出した。
「戸辺山田さん…おかしい…」
里崎の漏らしたつぶやきに、代田がうなずいた。そこで代田は視界の端に、妙な動きを捉えた。倒れたテントに向かうでも無く、呆然と推移を見守っているのでもなく、そうっと、後退りする動きが違和感を覚えさせた。代田がそちらに顔を向けると、辺りの様子を伺いつつ後退していた大崎とまともに目があった。大崎は文字通り跳び上がって驚くと、それまでの隠密的な行動を捨て去って、一目散に走り出した。
「おい!待て!何か知っているのか!」
代田が大声と共に、大崎を追って走り出した。里崎が、同じく走り出しつつ、不意に気付いて声を上げた。
「靴だ!赤い靴!あれか!」
その声が届いたのか、大崎の背中がびくりと脈動した。大崎は一層必死になって走り続けた。
倒れたテントから這って出た美月は、続いて出て来た末永医師と協力し、テントの布を持ち上げると地面との間に大きく隙間を開けた。そこからもう一人、救護テントにいて巻き込まれた保健委員が出て来る。幸運というべきか、三人とも大きな怪我は無かった。倒れたテントの支柱や長机が当たったための打ち身程度である。
「大丈夫か?」
運動場の中央辺りにいたので、すぐに駆けつけて来られた森南に問われ、美月はうなずいた。
「今の、戸辺山田先輩だよね。どこに…」
言い掛けた美月の後方で、突如、テントの支柱が、がちゃん、と大きく音を立てた。支柱を倒したせいで救護テントの倒壊に巻き込まれた戸辺山田だったが、赤いランニングシューズはお構い無しに前に進んでいた。そして今、突っ込んだのとは逆の方向から出て来ると、ぴょん、と跳ねて真っ直ぐに立った。と、方々に創った擦り傷など気に掛けず、凄まじい速度で、校舎沿いの通路を走り出した。
「ちょ、戸辺山田、何で…」
校舎の前で競技の見学をしていた三年生が二人、笑いながら戸辺山田の前方を塞ぐ形で声を掛けた。二人とも長距離走に出ている筈の戸辺山田がこちらに走って来たことが不思議で声を掛けただけだったのだが、戸辺山田は無言のまま、地面を蹴って飛び蹴りを放った。全く警戒していない状態で攻撃を受けた二人の三年生は、蹴り飛ばされ、全身をアスファルトの通路に打ちつけた。美月と森南に、駆けつけた坊坂や藤沢を含めたその場にいる全員が、ただ唖然としてその光景を眺めていた。
「違う、あれ…戸辺山田先輩、意識が無い。何かに勝手に動かされて…」
坊坂はつぶやきつつ、飛び蹴りの勢いで背中から地に落ちたものの、その体勢から再び、ぴょん、と跳ねて起き上がり、駆け出す戸辺山田を見ていたが、その進行方向に、横から走り寄ってくる別の人影に気が付いた。大崎が、運動場から戸辺山田が向かっているのと同じ方向に向けて必死の形相で走っている。その後を代田と里崎が追っていた。代田、里崎共に大崎と走る速さが余り違わないらしく、一定の距離が保たれていた。次の瞬間、坊坂は戸辺山田の後姿に向けて全速力で駆け出した。弾かれたように藤沢がその後に続き、一歩遅れたが、すぐに藤沢を追い越して森南が続いた。残された美月は、もう一人の保健委員と共にまず、放送委員を手伝ってマイクを探し出し、鳴り続いていたハウリングを止めた。続いて末永医師を手伝い、救護テントの下敷きになっている救急箱やその他の備品を取り出しに掛かった。
大崎は後ろから何と言われようと走って走って走り続け、美術室に駆け込んだ。美術室と音楽室はそれぞれ教室から直接、屋外に出られる引き戸がある。絵画や楽器など、大きな物品の搬入を容易にするための出入り口で、今日は鍵が掛かっていなかった。大崎は美術室に飛び込むと、隅に置かれていた葛篭の上に腹這いになって覆い被さり、続いて入って来た代田と里崎に触れられないようにした。
「大崎!朧露堂から届いたものの中に、靴があっただろ!それ…」
「アマネ!」
うずくまり、口を引き結び、血走った目で、こちらを見上げる大崎に向けて、里崎は声を荒げた。だがその言葉半ばで、代田によって腕と腰を掴まれ乱暴に引き倒された。たった今自分たちが入って来た出入り口から飛び込んで来た戸辺山田が、間髪入れず里崎たちの後方から飛び蹴りを放って来ていた。里崎が直撃する位置にいたのだが、引き倒されたのでかすりもしなかった。そのため、里崎の向こう側にいた大崎が、緩い曲線を描いた、踏みつけに近い蹴りを腰から脇腹に掛けて、受けた。大崎は、ぐぼっ、というくぐもった声と息を漏らしつつ葛篭の上から蹴り飛ばされた格好になり、葛篭も横に倒れ、封のしていない蓋が外れた。蹴りの後、床に落ちて寝転がっていた戸辺山田は、倒れた葛篭を両足で挟んで乱暴に振り回した。もう少し回転していれば、ブレイクダンスのベイビーウィンドミルである。
『うわっ』
手近にいた代田と里崎が慌てて床に這いつくばって、葛篭と足を避けた。戸辺山田の後方から迫っていた坊坂や森南、藤沢と行った面々も、慌てて距離をとる。振り回された葛篭の中から、ばらばらと色々なものが、遠心力に引っ張られて散らばって落ちた。戸辺山田は葛篭を離すと、肩で体を回転させつつ、落ちた品々を踏み付けた。踏み付けると同時、全ての品物に貼られていた朱色の墨で書かれた札が、突然腐食したか黴に侵食されたかのように黒くなった。品の一つ、赤く長い布がふわりと浮かび上がった。黒く変色した札が剥がれ落ちた。
『!?』
浮かび上がった布が、結構な速度で空を切り、一直線に運動場側、坊坂たちに向かって来た。このとき坊坂は鋭敏過ぎた。鋭敏過ぎて、赤く長い布が、六尺褌だと気付いてしまった。もちろん洗濯はされているのだろうが、顔目がけて飛んで来たそれを、捕らえるのではなく、つい避けてしまった。六尺褌の付喪神は、美術室内の他の生徒たちも躱すと、すうっと引き戸から屋外に出て行った。
「あ、あれ!」
「うわ、下!」
誰ともなしに声が上がった。美術室の廊下側の引き戸の枠をするするとよじ登って、開け放たれていた戸の上の欄間窓から全身が赤い布製の品がひとつ、出て行った。六尺褌に気を取られていた面々の足元を、赤い着物の日本人形が駆け抜けて行った。戸辺山田が何度目か、ぴょん、と跳び、立ち上がった。立ち上がると同時、全速力で駆け出し、その巨体で、閉められていた廊下側の引き戸を突き破って出て行った。鍵は掛かっていない筈だったが、戸を開けるという考えはなかったようだ。
「追いかけろ!戸辺山田も、他の人形や、何もかも!」
美術室の外にいた教師の一人が叫んだ。教室の外で事態を半ば放心状態で見ていた生徒たちが、その言葉に我を取り戻し、一斉にそれぞれに向かって駆け出した。戸辺山田が引き戸を破った有様を呆然と見ていた美術室内の生徒たちも動き出した。藤沢と森南は戸辺山田を追うべく、美術室を横切り、破られた戸から出て行った。
坊坂は、無言で横っ腹を押さえてうめいて転がっている大崎の髪を掴んで、無理矢理引き起こした。大崎は悲鳴を上げたが、すぐに収めると、何やらきらきらした目で、起き上がった里崎と代田の後ろ辺りを見つめた。頬が弛緩し切ってしまっていて、涎でも垂らしそうな様子だった。坊坂と、座り直した里崎、代田が、不審げにそちらに目をやる。大崎の視線の先、先程まで椅子と机しか無かった場所に、齢十歳ほどの少女が立っていた。白い、抜けるようなきめ細かい肌に、桜色が差した頬。ぷっくりとした唇。つぶらで大きな少し色素の薄い瞳を、長い睫毛が縁取っている。長い、毛先がゆるく波打っている艶やかな黒髪は耳の上の一部をすくって後ろで赤いリボンで結わえ、残りは趣くままに垂らしている。純白のブラウスに真紅のジャンバースカート、白い靴下、赤い靴を身に着けた華奢な身体を持つ、文句無しの美少女だった。
「志緒りさん…?」
坊坂が驚いて声を上げるのとほぼ同時、どこからともなく音楽が響いた。金属製の櫛歯を跳ね上げることで音階を作った音で、マザーグースの一篇の遊び唄だった。朧露堂の令嬢である、志緒り嬢の姿をしたそれは、計八つの目を引きつけると、にっこりと微笑み、スカートの端を掴んでお辞儀をし、くるくると音楽に合わせて踊り始めた。そして、何の対応も出来ず、ただその舞姿を見ていた生徒たちを残して、廊下側の引き戸から出て行ってしまった。
「志緒りさああん」
志緒り嬢の姿をとったオルゴールの付喪神が出て行くと同時、我に返った大崎が声を張り上げて後を追おうとし、坊坂に再度髪を掴んで引き戻された。
「何をする!」
「状況、分かっているか?」
冷たく言い放った坊坂に睨まれ、大崎は黙り込んだ。
「この、『赤い靴(サイズ二十六センチ、紳士用)』ってのを戸辺山田さんに履かせたんだな」
机の上の説明書きを取り上げて、里崎が同様に冷たい声で言った。大崎は目を丸くして驚いていた。どうやらその書類が葛篭の中に入っているものと思い、隠蔽するべく、先程の挙動をとったらしかった。




