#13
ドッジボールは三組が二勝、一組が一勝してそれぞれ十点と五点を手に入れた。次の競技は長距離走で、運動場の整備のため、少しだけ間が開いて始まった。長距離走は運動場を一周した後、正門から出て、山道を上り、途中で折り返して戻ってくる。折り返し地点には体育教師がいて、選手の通過を確認する。そして長距離走者が山道を走っている間に、運動場では短距離走が行われる手筈になっていた。そのため、長距離走に出る各組三人の選手の他に、短距離走に出る各組三人の選手の、計六人が一組ごとに席を立つことになり、四分の一の生徒がいなくなった生徒たちの待機場所は閑散とした。三組で一人、気を吐いていた戸辺山田も、長距離走で出走しているので、静かなものである。心無しか三組の生徒たちは寛いでいるようだった。
運動場を一周するうち、戸辺山田は早くも集団から遅れ始めた。大柄で筋肉がたっぷり付いた体は、長距離走に向いているとは言えない。何故この競技への出場を決めたのかは分からないが、高得点が狙えそうにはなく、現在は晒し者状態の戸辺山田に対し、今回の騒動の元凶であるとはいえ、美月は何とも言えない気持ちになった。最後尾の戸辺山田が門を出たとを確認されたところで、運動場では短距離走が開始された。短距離走は、予選として各組一人、三人の走者で走って記録を取り、その記録順で、もう一度三人ずつ走って、一位から九位までを決定する。まずは予選の号砲が鳴った。
門を出て十数メートル、舗装された道路の脇の草むらから、戸辺山田は大崎がトライアスロン中に隠していた赤いランニングシューズを取り出した。実はこの赤いランニングシューズは、サイズが戸辺山田の足よりかなり小さい。そのため靴として履くのではなく、踵は踏みつぶして爪先だけ入れたサンダル履きの状態にして、足首に靴紐を巻き付けて縛り、抜け落ちないように固定することになっていた。そのような履き方では、普通は良い成績など望めないのだろうが、この場合は走るのは赤いランニングシューズであり、脱げなければそれで良かったのだ。他の全選手は前を行き、進行方向のみを見据えている。膝をついた戸辺山田は、大して時間を取ることもなく紐を結び終えると、それまで履いていた、白い運動靴を草むらに投げ入れた。急に停止したことで乱れた息を整え、さあ、と一歩踏み出した、その途端、赤いランニングシューズはもの凄い勢いで走り出した。
「ひぶうっ!」
予想を超える勢いに、上半身が付いて行かず、戸辺山田は盛大に転んで尻餅をついた。強く打った臀部の骨から、脳天にまで痛みが響いた。だが、赤いランニングシューズは装着者が立っていようが座り込んでいようが意に介さず前に進もうとして、戸辺山田の足は強制的に動かされている。尻餅を付いた体勢のまま、無理に動く足によって前方にずるずる引きずられ、体操着の半ズボンが擦れた。
「ひ、ひあ、ちょっ、ちょっと、待ち…」
戸辺山田は再度大きな声を上げた。遅れ気味ではあったが、まだ最序盤で他の選手との距離がそれほど開いていたわけではない。前を行く集団のうち何人かが振り返り、座り込み、足を水泳の練習のようにばたつかせ、少しずつ迫ってくる戸辺山田の姿を目に留めた。その異常さに、何か非常事態が起こったのかと、心配した選手も複数いたが、目があった戸辺山田は、どうして良いか分からないときについ出てしまう、にやにやした微笑みで対応してしまった。その笑みに、気を掛けてくれた選手たちも、やや怪訝そうではあるものの、前に向き直って競技に注力した。その間も引きずられていた戸辺山田は、何とか、立ち上がって赤いランニングシューズの速度に付いて行くべく、無理矢理上半身を、うつ伏せになるように捻って両手をつき、四つん這いの姿勢をとった。正確にはとりかけた。その体勢から起き上がるつもりだったのだが、傾斜があったこともあり、ちょうどクラウチングスタートで、用意、と声を掛けられ腰を上げたときの、あの体勢になってしまった。赤いランニングシューズはこれまで進んでいたのとは百八十度逆の方向に向けて、見事なクラウチングスタートを切った。
「うっひゃあああ!」
下り坂故に、当初のように上半身が置いて行かれることもなく、大声を上げながら、戸辺山田は、たった今出て来た学院の正門に向けて駆け出してしまった。今度は流石に異変だと気付いた長距離走の走者たちが、それぞれに顔を見合わせた。
長距離走の走者が門から出払ったところで、三組の待機場所から里崎と代田が一組の待機場所にやってきた。
「須賀は、問題なさそうだな」
代田が声を掛けて来た。運動場の向こう側、救護テントで横を向き、長机に片肘を突いている美月の姿が見える。なにせ格好が格好で、まとめた長髪だけでも相当目立つため、判別が容易だった。
「大崎は、ドッジボールが始まった頃に戻って来た。どこに行っていたのかは分からない」
「そうか」
代田の報告に、坊坂は気のなさそうな返事を返した。
「八重樫、長距離走にも出ているよね。戸辺山田さんも出ている。何もないと良いのだけど…」
里崎が言い聞かせるようにつぶやいた。久井本への嫌がらせの件で、目撃者役の高橋に疑惑の目が向いた理由の一つが八重樫の発言であり、そもそもジュニアアイドルの写真集をばらしたのも八重樫なので、大崎としては面白くない相手であることは間違いないのだ。おまけに山道では、体育教師が待つ折り返し地点まで、数名の走者の目しか無い。何か仕掛けて、知らぬ存ぜぬを貫き通すには良い条件だった。もっともこれまでの流れを見る限り、実際に動いているのはあくまで大崎で、戸辺山田が直接何かすることは考え難いのだが、不安なものはどうしようもなかった。
「…ところで、この靴は何なんだ?」
長距離走に対する懸念はとにかくとして、坊坂の椅子の下にある黒のパンプスが気になっていたらしい代田が尋ねて来た。
「ああ…須賀のものだが…ちょっと、何と言うか…痛いというかきついというか、脱いでいて…」
坊坂は上手い言い訳が思い付かず、理由になっていない言葉を口にした。幸い代田も里崎も勝手に納得してくれた。
「ああ、救護テントに置いておくと、邪魔なんだな」
「今まで良く過ごしていたよね、これ履いて。俺は草履で良かった」
そこで歓声がひときわ大きくなり、短距離走の決勝戦に出る生徒が位置に着いたので、三人は会話を打ち切ると、運動場に集中した。決勝戦には一年一組の森南と、二年三組の生徒、一年三組の生徒の三人が勝ち上がっていた。運動場全体に一瞬だけ緊張と静寂が走った。次の瞬間、白煙が上ると共に、走者三人が一斉に飛び出した。
短距離走は森南が一着で終わった。巻き起こる歓声に、森南が誇らしげに手を上げて応えつつ、待機場所に戻ろうとした時だった。
「うおおおお!」
歓声に混じって、野太い雄叫びが運動場に響いた。運動場にいた生徒たち、教師たちのほぼ全員が一度に口をつぐみ、声の聞こえた方に向き直った。学院の正門から、大柄な体が走り込んで来ていた。それが長距離走で少し前に出て行った戸辺山田だと皆が気付くより先に、坂道をブレーキをかけずに自転車で駆け下ったような問答無用の疾走で、その体は校舎の方向に突進して行った。正門は運動場の南西にあり、西側に向かって開いているのだが、門を出たところの道は南北に延びている。戸辺山田は南から走って来て門をくぐったので、直線的に進むと運動場の北側にある校舎に突撃する形になるわけである。ただ今回、戸辺山田の予想される進路上には、校舎より前に救護テントが設営されていた。
「ひえええっ!」
『危ないっ!』
戸辺山田の絶叫に、複数人の警告と、それより多勢で、音の大きい言葉にならない悲鳴が混じって響き渡った。戸辺山田は真っ直ぐ救護テントの支柱に向けて突っ込んでいた。力士がぶつかり稽古をするような具合である。救護テントが音を立てて倒れ、隣の放送委員のテントも巻き込んだ。マイクが吹っ飛んでスピーカーに向かってしまい、ハウリング現象が起こって、耳を塞ぎたくなるような嫌な音が運動場一杯に鳴り響いた。




