#12
学院祭で行われるトライアスロンは、一般的なトライアスロンとは趣を異にしている。普通は水泳、自転車、長距離走、の三種目を行うが、距離は当然正規のものに比べて短かったし、何より自転車ではなく、三輪車で運動場に作られた蛇行の多いコースを一周りするというものになっていた。三輪車は、もちろん子供用、三歳から五歳に適当とされているものである。つまりその年代の子供の体格にちょうど良いように造られているわけで、高校生の生徒たちが乗ると、それはそれはこぎ難く、少しの傾きでも倒れ掛かってしまい、端で見ていると大変面白いものになっていた。八重樫は、水泳の時点では二年二組の生徒と一年二組の生徒に続いて三位だったが、三輪車で巻き返し、その差を長距離走で保ち抜き、見事一着になった。ちなみに三組は一名が途中棄権で、完走した二名が最下位とその一つ前という散々な結果に終わり、戸辺山田が拳を握り歯ぎしりしている様子が、救護テントからでも見て取れた。
八重樫はその方が動き易いということで、学院祭開始からこの方、ずっと裸足で通していて、トライアスロンの三輪車も長距離走も全て裸足でこなしていたのだが、ゴールテープを切った直後、踝の下を切ったといって救護テントを訪れた。一瞬、三組の妨害工作かと思った美月だったが、単に尖った石が跳ねて当たっただけらしかった。血が滲んでいる程度なのだが、この後、普通の長距離走にも出るので念のために来たと言われたものの、その割りに、わざわざ坊坂が付き添っていた。末永医師に任せるまでもないので、美月は型通りの消毒をし、絆創膏を自分で貼れと渡して終わりだった。八重樫がマットの上に座り込んで絆創膏を貼るべく体を曲げていると、その傍で突っ立ていた坊坂が、地面に置いてあった美月のパンプスの片方を取り上げた。美月は、パンプスを脱ぎ、パイプ椅子を移動させ、ストッキング裸足の足をマットに乗せていたのだった。普段履き慣れていないために足が痛くなってしまったからで、三年生に何か言われて気になったからではない。
「これ、どうなっているんだ?爪先、入るのかこれ?」
しげしげと、手にしたポインテッドトゥ、いわゆる先が鋭角に尖った形のパンプスを眺めて、そう言い出した。
「先までいれない。履いてみると分かる。坊坂は無理だけど、八重樫はサイズいくつ?それ、二十四・五だよ。履けない?」
「須賀って二十四・五だったっけ」
絆創膏を貼り終え、出たゴミを美月に渡しながら八重樫が尋ねた。
「靴によって二十四でいいのと、二十四・五じゃないときついのとあるんだよ」
緩い分には何とでもなるので、用心して二十四・五を購入していた。八重樫は、地面に置きっ放しにされている方のパンプスを取り、幸いそれが怪我をしていない方の足のものだったので、履いてみようと挑んだが、指の付け根で詰まってしまった。足の幅が広く、甲が厚く、骨太の八重樫の足では、それ以上は無理だった。
「入らねえし。こんな幅が狭いの良く入るな。しかもこの爪先、凶器じゃん」
八重樫も興味深げに見入っていた所、テントに人影が差した。美月が顔を上げると、先程退却した三年の保健委員の姿が目に入った。件の三年生は、八重樫や坊坂は目に入っていない様子で真っ直ぐ美月に寄ってくると、すっと手を差し出した。
「取り敢えず十分。遅くなってごめん」
差し出された手に握られた千円札に、美月は固まってしまった。
「…何のお話ですかあ?」
マットに座り込んでいる八重樫が下から声を掛けて来た。三年生は、無表情のまま、視線を移動して片手で持ったパンプスを、メガホンのように逆の手の手の平に打ち付けている八重樫を見て、言い切った。
「一分百円でそれ履いて踏んでくれるそうだから」
『…』
八重樫の手が止まった。坊坂が片方の眉を跳ね上げると、ゆっくりと美月の方に顔を向けた。視線が汚物でも見るようなものになっている。
「ち、ちがっ、いや断った…遠回しに…そんな暴力ふるうとかそんな…。てか、生徒間での金銭のやり取りは校則違反…」
しどろもどろになりつつ、何とか言葉を紡いだ。濃い化粧の下、顔全体が紅潮して汗が滲むのが分かった。焦燥そのものといった表情の美月を、坊坂は相変わらずの視線で見ていたが、殊更冷たい声を、千円札を差し出したままの三年生に向かって掛けた。
「だ、そうです」
三年生は、坊坂に一旦顔を向けた後、眉が下がり、お預けをくらった犬のような顔になり、哀しそうに美月を見て来た。美月は両手を挙げ、音を立てる勢いで首を横に振って、身振りで断った。三年生は、肩を落し、千円札を制服のポケットに突っ込んで去って行った。三年生が救護テントから出るまで、じっとその後姿に目を向けていた坊坂が、再度美月に厳しい顔を向けた。八重樫はマットの上で腹を押さえて笑い転げていた。
「須賀」
「な、なに」
坊坂は地面の上から、八重樫が置いた片方のパンプスを取り上げた。
「没収」
「…は?え…なんで…」
一足に揃ったパンプスを抱え、回れ右をした坊坂に、美月は焦って声を掛けた。
「おかしな商売をされると困る。うちの組の品位に関わる」
「商売…してない!いきなり踏んでくれって言われて、驚いて、つい口に出ただけで…」
「そこに座っているだけなら必要ないだろ」
坊坂は憮然としつつそれだけ言うと、さっさとテントから出て行ってしまった。呆然とする美月に、笑いを収めた八重樫が、座り直して声を掛けて来た。
「じゃ、ね。俺も長距離出なきゃだし。ま、棒倒しが終わったら、ちゃんと持ってくるから」
快活に言うと、跳ねるように立ち上がり、続いて出て行ってしまった。美月は困惑し、辺りを見回した。事の成り行きを、隣の椅子で目を丸くして見ていた末永医師と目が合った。末永医師は慌てて目を逸らした。
「いや、あの…そんな、上級生に暴力行為をするつもりはないので…」
言い訳する美月に、目は手に持った書類に固定させたまま、末永医師は何度もうなずいた。競技終了の合図である号砲が鳴り、ドッジボールの一回戦が終了したことが分かった。
一年一組の待機場所に戻ると、藤沢が不思議そうな顔で、片手に揃えた黒のパンプスを持つ坊坂に声を掛けて来た。
「それ、どうしたんだ?」
「須賀のだ。ちょっと」
坊坂は曖昧な返答をすると、少し考えて、パンプスを自分の席のパイプ椅子の下に置いた。藤沢は続けて戻って来た八重樫に説明を求める視線を送った。
「なんかね、その靴で踏んでくれって言って来た先輩がいてね」
八重樫はそれは楽しそうに教えてくれたが、藤沢は怪訝な顔付きになった。
「踏む、って痛いだろ」
「痛いだろうね」
「何でまたそんなことを頼むんだ」
「痛いのがお好きな方なんでしょ」
くすくすと忍び笑いを漏らした八重樫を見て、藤沢はようやく理解に至ったようで納得した顔になった。
「あれか、『S系』とかって広まっていた影響か」
八重樫は、軽くうなずいて同意を示すと、からかう態度を隠そうともせず、坊坂に声を掛けた。
「坊坂さあ、靴取り上げても意味ないんじゃないか。素足で踏んで欲しいという奴が出るかもしれないし」
実は八重樫の位置からは、椅子の上で足を組んでいることでたくし上がったスカートの裾から、美月の太腿とその位置にあるストッキングのレース地の口ゴムがしっかり見えていた。あれを見掛けたら、別の希望をする輩が出て来ると断言出来た。坊坂はじろりと音がしそうな動きで、八重樫を睨んだ。
「次は、はっきり断るだろ。値段を言うようなことがなければ、問題ない」
「何があったのかよく分からんが、大崎がいなくなったって言われたから、警戒しに行ったんだろ。戻って来て大丈夫か」
藤沢が心配げに尋ねて来た。トライアスロンの最中、いつの間にか大崎がいなくなっていたと里崎が知らせに来て、念のために八重樫の怪我を理由にして、救護テントに行ってみたのだった。当の美月は暇そうにしているだけだったが。
「隣に『るほう』医師がいた。救護テントに詰めている限り大丈夫だ。靴も無いから、ふらふら出歩いたりしないだろうし。生徒ならとにかく、医師がいるところでおかしな真似はしないだろ」
「おかしな頼み事をした先輩はいたけど、ね」
八重樫は楽しそうに笑い、再度坊坂に睨まれた。




