#11
九月も下旬だが、まだ日差しは強い。しかし救護テントの下、日光が遮られている箇所にいる分には問題なく、逆に強い風が吹いた際には、剥き出しの腕や脚には肌寒さを覚えるほどだった。美月は日陰に置かれたパイプ椅子に足を組んで座り、肘を『救護』と書かれた紙が張られている長机の上について、運動場全体に目をやっていた。救護テントは食堂の前辺り、運動場の西側に設置されている。競技に出ない生徒たちが待機しているのは南から東側に掛けての位置なので、美月たちからは余り良く見えない。逆に向うからもこちらがよく見えていないわけで、折角女装していても、一部の生徒の目にしか留らないようで、作戦として失敗したかな、とぼんやり考えていた。
今、救護テントには他に、二年三組の保健委員と、医務室勤務の末永医師がいた。そして隣の、放送と実況を行っているテントには三年の放送委員がいた。三者ともちらちらと横目で美月を伺っていて、特に末永医師は、医務室で合流した時には誰よりも唖然とし、テントを組み、備品を並べ、救護場所として機能を整えている間から今まで、継続して気まずそうにしている。生徒二人は単純に、外見が女性の存在が近くにいることが気になって仕方がないだけだろうが、末永医師はどうも美月と同じく坊坂の関係者とつながりがあり、美月の性別を知っている風なので、発覚しないかと肝を冷やしているように見えた。
手持ち無沙汰な美月は、机の上の救急箱の上を這っていた蜘蛛を、手元の紙で払って地面に落とした。救急箱があることはもちろんだが、それ以外にも救護テントには色々なものが置かれている。保冷剤や経口保水液が出番を待っている小型の冷蔵庫に、ブルーシートの上にマットを引いた簡易ベッド。今は電源が通されていない扇風機。棒倒しで使う竹の、枝葉を落すときに使われた、鋸や手斧や鎌などの工具や農具。今、生徒たちが使用しているパイプ椅子を、片付ける際に洗浄するための雑巾とバケツ。予備の体操着に鉢巻きといったものである。
生徒たちの体操着は学年関係なく同じものなので、一組は黒、二組は白、三組は赤の鉢巻きを巻いて組を区別し、鉢巻きの上下の半ばに引かれていてる黄色の線の有無で、一年と二年が分けられていた。線があるのが二年生である。三年生用はないので、二年生と同じものを使用していたが、今回、三年生で参加しているのが三年三組の戸辺山田だけということは知れ渡っていたので、誰がそうなのかということは簡単に教えてもらえた。美月はこのとき初めて戸辺山田の外見を確認したが、背も高く、筋肉もしっかり付いていて、顔立ちも、口を閉じていれば、きりっとしたなかなかの男前だったのだが、いかんせん、実際にはずっと口を半開きにしているので、どうにも抜けて見えた。開会式前の、各自で使うパイプ椅子を運動場に持ってくる作業中にも大声で指示を飛ばしていて、疲れた様子で応対する二年三組の生徒と、恐ろしいほどの無表情の代田と里崎を初めとした冷ややかな態度の一年三組の面子の対比が際立っていた。
一番目の競技は生徒全員参加型の綱引きである。参加人数の上限は一組二十四人で、下限はない。一組は美月がいないために二十三人で、三組は戸辺山田の分を保健委員が抜けて二十四人で参加していた。総当たりで行われるが、当たる順番はくじで決められた。初めに一組対三組で、殺気立った一組の生徒たちに、綱を持つ前から、三組の特に二年生は気圧されていた。二年の三組は学年中で一番柔術部の部員の割合が多く、重量級が揃っている。それに大柄な戸辺山田が加わっており、一番背と体重があるのが藤沢だと言う一組に比べれば有利に見えたが、あっさり負けた。一組側の最後方で、綱を体に巻き付けて、地に根を生え下ろしたかのような藤沢を、微動だにさせることも出来ず、ずるずると引きずられて負けていた。体育祭では生徒たちが持つ特殊能力の使用は解禁されている、というより、藤沢のように、どこぞの『地の神』の守護があり、常時膂力を補助してもらっていて切り離しが出来ない生徒がいるわけで、使うなという方が不可能だったのだ。一組は続けて、重量級は『女装アイドル総選挙』に出場の森下のみという二組に、ほぼ開始と同時に勝ち、二勝で十点を、三組も二組には勝って一勝とし、五点を手にしていた。
次の競技はバスケットボールで、体育館で行われる。末永医師は何かあった際にすぐに対応出来るようにというわけか、単に球技の観戦が好きなのか、体育館に行ってしまった。この時間帯を担当する保健委員も末永医師と共に体育館で、今まで救護テントにいた二年三組の保健委員は、学院祭実行委員を手伝い、綱引きで使った綱の片付けと、バスケットボールの後に運動場で行われる、倍々リレーのための線引きの手伝いをしている。炎天下というわけではないが、日光にまともに当たって準備をしている生徒たちが熱中症を起こす可能性もあるわけで、美月はテントから離れられず、石灰がそよいだ風に舞う様子を眺めていた。
「あっちい」
後方で上がった声に美月は振り返り、ちょうどテントに入って来た顔見知りの三年の保健委員と目が合った。今日は、先程まで隣のテントにいた放送委員の例外を除けば、三年生には基本的に委員の仕事が無い。授業は自習である。ただ体育祭の見学は自由なので、校舎の二階の窓から見ている者は多かったし、この生徒のように、運動場まで下りてくる者もいた。特に、冷房設備の無い普通教室に比べると、風が通って涼しい救護テントは絶好の観覧場所と言えるので、訪れる保健委員がいるのは至極当然だった。美月と目の合った三年の保健委員は、目を見張ると、大袈裟と思える身振りで体全体を反らしてから、尋ねて来た。
「…あ…『るほう』…じゃない、末永医師の代理の医師ですか?」
末永医師は生徒の間では『るほう』で通っていた。医務室は末永医師ともう一人の医師の一週間交代の勤務体系なのだが、もう一人は『ないほう』と呼ばれている。由来はそれぞれ、禿げてい『るほう』と、禿げてい『ないほう』、という無慈悲なものであった。
「先輩、須賀ですよ。一年一組の」
美月が声を掛けた。三年の保健委員は、再度目を見張り、それから、ああ、というつぶやきともうめきともとれる声を漏らした。
「そう…そうか、総選挙、『S系女医』だったっけ…」
勝手に広まっている主題に、美月は文句を言いたくなった。ちなみに二組は『春のうららのピクニック』、三組は『八重垣姫』とそのままだったので、なおさら一言言いたくなった。三年の保健委員は視線を美月から外すと、口の中でなおも何事かつぶやき、一旦口を閉じると、横目で美月の姿を上から下まで眺め下ろして、また視線を何も無い地面に向け、ぶつぶつ言い出した。
「あの、須賀」
「はい?」
いささか挙動不審な先輩委員は放っておいて、美月は再び運動場に目を移していたのだが、名前を呼ばれて、また振り替えった。三年生の保健委員は、辺りを見回し他人がいないことを確認すると、美月をじっと見つめ、そのまま意を決したように一歩近づくと、かろうじて美月が聞き取れる小さな声で囁いた。
「踏んで、くれないか?」
「はい?」
突拍子もない内容に、脳が意味を理解せず、美月は間の抜けた声と表情で三年生の顔を見た。三年の保健委員は真摯な面持ちで、真っ直ぐ美月を見たまま、繰り返した。
「踏んで、ほしい」
二回目で、やっと言葉が脳に浸透してきた。美月は目を瞬かせ、無言で三年生の顔を凝視してしまった。三年生は、視線を美月の顔から逸らすと、代わりに美月の組んだ脚のパンプスを真顔でじっと見つめた。
「…あの、足踏みマッサージをご希望ということでしょうか」
落ちた沈黙に耐えられなくなった美月は、取り敢えず尋ねた。三年生はもどかしそうに首を横に振った。
「この靴、このヒールで、踏んで欲しい」
少々、美月は混乱した。外履きのパンプスの踵でひとを踏むというのは、美月にとってみれば相手への侮辱行為か暴力事件である。もちろん承諾するつもりは無いのだが、余りに真剣な様子に無下に断って良いものか分からなくなった。
「え…えと、あ…一分、百円で」
結果、そのような言葉がを口をついて出た。美月が学院に入学する前、治癒能力を使って『仕事』をしていた診療所で、一般的な按摩を一分百円換算で提供していたので、ついその相場を応えてしまった。口にした後で、これでは断っていることにならないと気付いたが、三年生は視線をパンプスから、居心地が悪そうに椅子の上で体を縮込ませている美月に移し、ややあって、無言のまま踵を返してテントから出て行ってしまった。拒絶の意が伝わったと思い、美月は安堵の溜め息を漏らした。




