第四十六話 アイリス13歳誕生日
その頃――
そんなウェストリア王国の懸念など知る由もないアルセリア皇国では、
「アイリス!」
「お誕生日おめでとうございます」
「ありがとうございますわ!」
皇宮では、アイリスの十三歳の誕生日を祝う宴が開かれていた。
皇帝と皇后。
エルナ。
皇宮に仕える者たち。
親衛隊や騎士たち。
多くの者から祝福を受け、アイリスは上機嫌だった。
「十三歳ですわ!」
「そうね。おめでとう、アイリス」
エルナが微笑む。
「ありがとうございます、エルナお姉様!」
「もう十三歳なのねぇ」
皇后も楽しそうに娘を見つめる。
「少し前まで、もっと小さかったような気がするのだけれど」
「わたくしも立派に成長しておりますわ!」
アイリスが胸を張る。
その様子を見ながら、皇帝も穏やかに頷いた。
「この半年、公務にもよく励んでおる」
「もちろんですわ!」
「……少々、勝手に道路を作ったりもしておるがな」
「必要でしたもの!」
「料理のレシピも勝手に広めたな」
「皆さん喜んでおりますわ!」
「まあ……結果としては、うまくいっておるが」
皇帝が小さくため息をつく。
「アイリス殿下」
「はい?」
ヴィンセントがやって来る。
「お誕生日、おめでとうございます」
「ありがとうございますわ、ヴィンセント!」
「それと、こちらを」
「まあ!」
ヴィンセントが用意したのは、大きな誕生日用のケーキだった。
「素敵ですわ!」
「お気に召しましたか?」
「もちろんです!」
アイリスが嬉しそうにケーキを見る。
「あとで皆さんでいただきましょう!」
「かしこまりました」
誕生日の宴は賑やかに進み――
そして。
午後。
皇宮近くに設けられた野球場には、大勢の騎士や関係者が集まっていた。
本日のもう一つの催し。
アイリス十三歳の誕生日を記念した――
天覧野球大会である。
「おお……」
観覧席へ案内された皇帝が、球場を見渡す。
「ずいぶん大掛かりになったな」
「人気が出てきましたもの!」
アイリスが嬉しそうに答える。
「騎士団だけでなく、兵士の皆さんもやるようになりましたわ!」
「訓練なのだよな?」
「もちろんです!」
「……楽しそうだが」
「楽しく訓練できるなら良いではありませんの!」
「まあ、それはそうだが」
皇帝も否定はできない。
グラウンドでは二つのチームが準備を進めている。
その周囲では、応援を担当する親衛隊の女性たちも準備を整えていた。
「アイリス」
「はい?」
エルナがグラウンドの一角を見る。
「あそこにヴィンセントがいるけれど」
「今日は打者として出場しますわ!」
「……打者だけ?」
「打者だけですわ!」
アイリスは強く言った。
投げさせてはいけない。
守らせてもいけない。
それはこれまでの経験から学んだことである。
「打つだけなら問題ありませんわ!」
「そう……」
エルナはそれ以上何も言わなかった。
やがて試合が始まった。
序盤。
ヴィンセントの最初の打席が回ってくる。
「来ましたわ!」
アイリスが身を乗り出す。
ヴィンセントが打席へ入る。
相手投手が緊張した様子でボールを握った。
「…………」
「…………」
捕手が投手を見る。
投手も捕手を見る。
そしてベンチを見る。
相手チームの指揮を執る騎士が、腕を組んだまま頷いた。
「勝負だ」
「よろしいのですか?」
「アイリス殿下の御生誕を祝う天覧試合だ」
騎士は覚悟を決める。
「最初の打席から逃げるわけにはいかん」
「分かりました」
投手が大きく息を吸う。
構える。
そして――投げた。
白球がヴィンセントへ向かう。
ヴィンセントがバットを振った。
カキィィィィィン!!
「…………」
「…………」
「…………」
全員が空を見上げた。
白球が飛んでいく。
高く。
遠く。
さらに遠く。
「…………」
まだ飛んでいる。
「……お父様」
「なんだ」
「あれ、どこまで飛びますの?」
「わしに聞くな」
やがて。
白球は小さな点となり――
見えなくなった。
「…………」
静まり返る球場。
ヴィンセントは打球の行方を眺めていた。
そして。
「ふふん」
少し得意そうだった。
「さすがですわ!」
アイリスが嬉しそうに拍手する。
観覧席からも遅れて歓声が上がった。
「ホームランですわ!」
「……ホームランなのは分かる」
皇帝はまだ空を見ていた。
「ところで、あの球はどこへ落ちるんだ?」
「さあ?」
「…………」
試合は続く。
そして数回後。
再びヴィンセントの打席。
「さて!」
ヴィンセントが嬉しそうにバットを持つ。
先ほどの感触が良かったらしい。
打席へ向かおうとした、その時だった。
「申告敬遠!」
「…………」
ヴィンセントが止まった。
「一塁へどうぞ!」
「…………」
相手チームは迷いすらしなかった。
ヴィンセントが観覧席を見る。
アイリスと目が合う。
「…………」
「…………」
「アイリス殿下」
「なんですの?」
「打たせてもらえません」
「ルールですわ!」
「…………」
ヴィンセントは、しょんぼりと一塁へ歩いていった。
そして三度目の打席。
「申告敬遠!」
「…………」
四度目。
「申告敬遠!」
「…………」
ついには、バットを持って立ち上がることすらなくなった。
「ヴィンセント?」
「はい」
「元気を出してくださいまし」
「……はい」
「一度はホームランを打てたではありませんの!」
「……はい」
アイリスは励ました。
だが、ヴィンセントは少し寂しそうだった。
どれほど強くても。
どれほど速くても。
どれほど遠くへ球を飛ばせても。
相手が投げてくれなければ――
打つことはできない。
ヴィンセントは今日。
十三歳になったアイリスの誕生日に。
初めて、力ではどうにもならないものと出会った。
野球のルールである。
◇ ◇ ◇ ◇
アルセリア皇国――皇宮。
アイリス十三歳の誕生日を祝う宴は、まだ続いていた。
昼間に行われた天覧野球大会の話題も尽きない。
大きなホームランを放った騎士。
見事な守備を披露した騎士。
応援に参加した親衛隊。
そして――
「…………」
「ヴィンセント?」
「はい」
アイリスが、少し不思議そうにヴィンセントを見る。
「まだ気にしていますの?」
「……少しだけ」
「もう」
アイリスは呆れたように笑った。
「一度は打てたではありませんの」
「はい」
「それに、とても大きなホームランでしたわ!」
「はい……」
「皆さんも驚いていましたわよ?」
「……でも、もっと打ちたかったです」
「…………」
どうやら、申告敬遠が相当不満だったらしい。
どれだけ強くても、相手が勝負してくれなければどうにもならない。
「仕方ありませんわね」
アイリスが自分の前に置かれていたケーキを見る。
そして、その一切れをヴィンセントへ差し出した。
「ほら」
「?」
「これを食べて、元気を出してくださいまし」
「いいのですか?」
「今日はわたくしのお誕生日ですもの。このくらい構いませんわ」
「ありがとうございます!」
ヴィンセントの表情が明るくなる。
「…………」
その様子を見ていたエルナが、小さく笑った。
「ずいぶん簡単に元気になりましたね」
「美味しいです!」
「よかったですわね、ヴィンセント」
「はい!」
皇宮には、穏やかな時間が流れていた。
「ヴィンセント?」
「はい!」
「元気になりました?」
「なりました!」
「そうですか」
アイリスが満足そうに頷く。
「では、もう一つ召し上がります?」
「よろしいのですか!?」
「今日だけですわよ?」
「ありがとうございます!」
「まあまあ」
皇后が微笑む。
「すっかり元気になりましたわね」
ヴィンセントは嬉しそうにケーキを受け取った。
アイリスも笑っている。
エルナも。
皇帝も。
誰もまだ知らない。
その同じ頃。
西の国では――
アルセリア皇国と戦うという選択肢が、初めて現実のものとして語られ始めていた。




