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第二章 交差する運命:若き技術者の選択

 1915年、長崎の街は第一次世界大戦の影響で活気に満ちていた。造船所では昼夜を問わず作業が続いていた。


 緑豊かな山々が街を取り囲み、その裾野には美しい湾が広がっていた。高台からは、遠く九十九島の島々が点在する青い海が一望でき、その景色は訪れる者の心を癒した。港では、大小様々な船が行き交い、国際貿易港としての長崎の繁栄を物語っていた。


 坂の多い街並みを歩けば、西洋と東洋の文化が融合した独特の雰囲気が感じられる。洋風の建築物と日本の伝統的な家屋が共存し、異国情緒あふれる街の姿を作り出していた。


 その中で、25歳の田中一郎は技術者として頭角を現し始めていた。彼はしばしば高台に登り、造船所を見下ろしながら、自分の夢と未来に思いを馳せていた。


 ある初夏の夕暮れ時、ある老舗料亭で地元の名士たちによる懇親会が開かれた。造船所からは田中を含む数名の若手が招かれていた。緊張した面持ちで座敷に座る田中の目に、一人の若い女性の姿が飛び込んできた。


「佐々木先生、お久しぶりです」


 隣に座っていた年配の紳士が、その女性に声をかけた。


「ああ、村井先生。お世話になっております」


 女性は柔らかな笑顔で応えた。その仕草に、田中は思わず見とれてしまった。窓の外には、夕陽に染まる長崎港の景色が広がっており、女性の横顔を美しく照らしていた。


 後で知ったことだが、彼女の名は佐々木美智子。地元の小学校で教鞭を執る若手教師だった。その知性と教育への情熱は周囲の評判を呼んでいた。


 宴もたけなわになると、美智子は田中の隣に座ることになった。


「田中さんは造船所にお勤めと伺いました。どのようなお仕事をされているのですか?」


 美智子の問いかけに、田中は少し躊躇した後、答えた。


「はい、私は技術部門で働いております。様々な船の建造技術を開発しています」


「素晴らしいですね。きっと多くの人々の暮らしを支える大切なお仕事なのでしょう」


 美智子の言葉に、田中は複雑な表情を浮かべた。確かに民間船の建造が主な仕事だが、最近では軍艦の業務にも携わるようになっていた。日露戦争以降の軍備拡張政策により、海軍は急速に艦隊を増強していた。海軍工廠だけでは需要を満たせず、高度な技術を持つ民間造船所にも、軍艦建造の発注が増えていた。


 長崎の造船所も例外ではなかった。田中たちが開発する最先端の造船技術は、民間船と軍艦の双方に適用できるものだった。しかし、機密保持のため、自分が軍艦建造にも関わっていることは、簡単に他人に話せるものではなかった。



 その夜を境に、二人は急速に親しくなっていった。休日には長崎の街を散策し、お互いの夢や希望を語り合った。美智子は子供たちの未来について熱く語り、田中はその姿に心を奪われていった。


 しかし、二人の関係に暗い影が差し始めたのは、親しくなって数か月が経った頃だった。


 長崎の街路樹が紅葉し始め、港に吹く風にも冷たさが感じられるようになった頃。ある日、美智子が田中に悩みを打ち明けた。二人は山の中腹にある展望台に立ち、黄金色に染まりゆく長崎の街を見下ろしていた。


「一郎さん、最近悩んでいるの。クラスの男の子たちの多くが『軍人になりたい』って言うのよ。でも、私はなんだか複雑な気持ちになってしまって……」


 田中は一瞬言葉に詰まった。彼自身も同じような葛藤を抱えていたからだ。遠くに見える造船所から、鋼板を叩く音が風に乗って聞こえてくる。その音は、まるで彼の心の動揺を表しているかのようだった。


「そうか……確かに難しい問題だね」


 美智子は続けた。「私は子供たちに平和な未来を作ってほしいと思っているの。でも、この状況で子供たちにどう話せばいいのか……」


 その言葉を聞いて、田中は決意した。もう隠し立てはできない。美智子に真実を伝えるべきだと。


「実は、美智子……僕も悩んでいるんだ」田中は静かに、しかし確かな口調で言った。「最近、僕は……軍艦にも携わることになったんだ」


 美智子の表情が曇った。「軍艦……ですか」


 田中は一瞬の間の後、説明を始めた。「そうなんだ。でも、大砲や魚雷を作っているわけじゃない。僕の専門は船体構造だ。これは軍艦だけでなく、民間の船にも使われる技術なんだ」


 美智子は黙って聞いていたが、その目には複雑な感情が浮かんでいた。


 田中は続けた。「それに、考えてみてほしい。もし僕たちが堅固な軍艦を作らなければ、それに乗る兵士たちの命が危険にさらされる。僕の仕事は、彼らの命を守ることにもつながっているんだ」


 美智子はしばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。「一郎さん、あなたのお仕事が必要とされているのはよくわかります。でも……」彼女は言葉を選びながら続けた。「私の教え子たちが、将来あなたの作った軍艦に乗って戦地に向かうかもしれないと思うと、胸が締め付けられます」


 田中は言葉に詰まった。美智子は続けた。


「私は子供たちに、もっと平和な未来を夢見てほしいのです。でも、今の世の中では、それが難しいのかもしれません」


「美智子……」田中は彼女の気持ちを理解しようと努めた。「僕もできれば平和な世の中であってほしい。でも、今の日本には強さが必要なんだ」


 美智子は悲しそうな目で田中を見つめた。「でも、私には……私には今のあなたのお仕事を全面的に受け入れることはできません」


 田中は深く息を吐いた。「わかった……僕も美智子のことは大切に思っている。だからこそ、正直に話したかったんだ」


 二人は互いの目を見つめ、そこに映る悲しみと決意を確認し合った。別れ際、潮風が二人の間を吹き抜けた。潮の香りと美智子の存在が、永遠に心に刻まれるような気がした。


 落ち葉を踏みしめながら帰路につく田中の背中に、街灯の光が長い影を落としていた。薄く霧がかかり始めた街並みは、彼の不確かな未来を暗示しているかのようだった。彼は自身の技術が人々の暮らしを豊かにする一方で、破壊にも使われることに葛藤していた。しかし、時代の流れの中で、彼にできることは自身の技術を高めることだけだった。どんな形であれ、最高の技術を追求し、それを通じて世の中に貢献する。その想いが、若き技術者の心に、秋の夜長と共に静かに、しかし確かに燃え始めていた。


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