第一章 潮風の序曲
1960年5月のある日、陽光が降り注ぐ長崎の造船所には、潮の香りが風に乗って漂っていた。田中一郎は静かに目を細めた。進水式の準備が進む巨大なタンカーの艶やかな船体には、70年の人生が映り込んでいるようだった。
造船所の空気は、鉄と海の匂いが混ざり合い、独特の香りを醸し出していた。遠くでは、溶接の火花が散る音と金属を叩く響きが絶え間なく聞こえ、活気に満ちた雰囲気が漂っていた。海鳥の鳴き声が時折耳に届き、潮風が頬をなでる。
「田中さん」
若い技術者の声に、田中は我に返った。かつて自分が若かった頃のように、期待に目を輝かせた後輩たちが周りに集まっている。その眼差しは未来への希望に満ちていた。彼らの作業着には、長時間の労働で染み付いた汗と油の跡が見える。
「ああ、君か」田中は微笑んで答えた。塩気を含んだ風が彼の白髪を優しく揺らす。「これぞ日本の造船技術の結晶だ。誇っていいぞ」
巨大なタンカーの船体を見上げながら、田中は思わず息を呑んだ。全長250メートルを超える優美な曲線は、技術の結晶そのものだった。船体からは新しく塗られた塗料の香りが漂い、太陽の光を反射して眩しいほどだ。彼の目を捉えたのは、巨大な鋼板同士を繋ぐ溶接の痕跡。それは、まるで熟練の匠が繊細な糸で布を縫い合わせたかのように、ほとんど見えないほどの滑らかな線となって船体を包み込んでいた。この溶接線の完璧さに、田中は胸が熱くなるのを感じた。かつて夢見た技術の到達点が、今、目の前で静かに輝いている。
「自動溶接システムの精度には驚かされるよ」田中は若手技術者たちに向かって言った。彼の声には、長年の経験と知識が滲み出ていた。「我々の時代とは比べものにならないな」
「田中さんたちの時代のお話を聞かせてください」一人の若手が食いつくように言った。その目には、先人の知恵を吸収しようという強い意志が光っていた。
田中は、その言葉に少し寂しさを覚えながらも、懐かしさで胸が熱くなるのを感じた。自分たちの時代。そう、もう歴史なのだ。潮風が再び頬をなで、過ぎ去った日々の記憶を呼び起こすようだった。
「そうだな……」田中は遠くを見るような目つきで話し始めた。海の彼方に、かつての自分の姿を見るかのようだ。「私が君たちくらいの歳だった頃、溶接というのはまだ一つの挑戦だったんだ。特に、大型船舶での使用はね…」
田中の記憶は、遠い過去へと遡っていった。潮の香り、金属の響き、そして若者たちの熱意。全てが一体となり、彼の人生の物語を紡ぎ出そうとしていた。




