一目惚れは三年前 2
砂糖をまぶしたかのようなカイゼンの甘ったるい視線にリーチェはごきゅり、と口に含んでいた紅茶を変な音を立てて飲み込んでしまう。
テオルクと共に王都に戻って来たカイゼンが祝勝会までの間、邸に滞在していた彼と沢山の時間を過ごし打ち解けたリーチェだったが、祝勝会での一件を境にリーチェに対するカイゼンの視線も、態度も、変わった。
あの祝勝会での一件以降、王都は未だざわついており、カイゼンの師団やテオルクは忙しく過ごしているが何かと時間を作りカイゼンはこうしてリーチェの下に通っていた。
事件に巻き込まれてしまったリーチェにも事の顛末を知る権利はある。
テオルクからも話はされているだろうが、父親よりもカイゼンに聞きやすい事柄もあるだろう。
特に、不貞を犯した貴族達の処遇についてなどはテオルクよりもカイゼンに聞いた方が聞きやすい。
「──さて。俺はそろそろ……。また頃合を見て来るよリーチェ嬢」
「っ! は、はい! お忙しいのに、ありがとうございますカイゼン様……!」
「いいや、大丈夫だ。リーチェ嬢こそ……あまり眠れていないのだろう? 顔色が悪い……しっかり睡眠を取って、風邪などひかないように気を付けてくれ」
「──ありがとうございます」
バレてしまいましたか、と眉をへにょりと下げながら情けない笑みを浮かべるリーチェに、カイゼンも眉を下げて微笑み返す。
(……母親と、妹君が出て行ったんだ。気丈に振る舞っていても……色々思う所はあるだろう……)
どうか無理だけはしないでくれ、と最後に一言付け加えた後、カイゼンはハンドレ伯爵邸を後にした。
暫くの間、リーチェに会いに来るのは難しいだろう。
思っていたよりもフランツ医師が所属していた組織の規模が大きい。
(早く調べて……全員捕らえるなりなんなりしないと……不味いな)
リーチェと幸せな一時を過ごしたカイゼンは、浮ついた思考を切り替えてしっかりとした足取りで自分の師団の下に戻って行った。
◇◆◇
――二年半程前。
カイゼンは王都で開催された王家主催の花の茶会に騎士として駆り出されていた。
前回とは違い、今度は騎士として職務を遂行する。
だから前回のような煌びやかな衣服では無く、いつもの落ち着いた騎士服を纏い、宮殿内の警備を担当していた。
花の茶会とは言え、王家主催の大規模な茶会は夕方から開催されるため酒も出る。
滅多な事は無いが、酒に酔い気が大きくなって暴れたり不埒な真似を働く人間も少なからず居る。
だからその日もカイゼンはいつも通り自分の職務を淡々とこなしていた。
幸いにも茶会が開始してまだ間もないため、騒ぐ人間も居らずカイゼンが一度メインホールに戻ろうか、と体の向きを変えた所で薄暗い宮殿の廊下の先にキラキラと煌めく美しい金髪が見えた気がした。
「──何だ、?」
ぴたり、と足を止めて廊下の先を凝視する。
この先は休憩室しかない筈だ。
茶会が始まってまだ間もない時間。こんな早くから休憩室に人が入って行くなんて、とカイゼンが違和感を覚えて確認に行こうかと足を一歩踏み出した所で背後に人の気配を感じて振り返った。
メインホールに続く広い廊下。
その廊下を、何だか歩きにくそうにしながら進む一人の令嬢を見つける。
「──あれ、は……」
この間の令嬢だ、とカイゼンが気付いた瞬間、自然とカイゼンはその令嬢に向かって歩き出した。
「ご令嬢、どうした……?」
カイゼンはドキドキと高鳴る心臓に、声が震えてしまわないよう気を付けながら目の前の令嬢に声を掛ける。
突然カイゼンに声を掛けられた事に驚いた令嬢は俯いていた体勢からぱっと顔を上げる。
その瞬間、ぱちりとお互いの視線が合い、海のような真っ青な令嬢の瞳がカイゼンを真っ直ぐ見詰めた。
宝石のようにキラキラと輝く令嬢の瞳に一瞬見蕩れたカイゼンだったが、その令嬢が自分の足を庇っている事にいち早く気付き、慌てて口を開いた。
「──足、を怪我しているのか……? 大丈夫か?」
「あっ、いえっ、違うのです……っ」
心配そうに声を掛けるカイゼンに、令嬢は慌てて首を横に振る。
よくよく見てみれば、令嬢の履いている靴のヒールが折れてしまっていて。
ヒールが折れてしまっていて上手く歩けないのか、とカイゼンは目の前の令嬢が怪我をしていない事にほっと安堵した。
「これでは歩くのが辛いだろう……。誰か人を呼ぼうか……? ご両親は?」
「──あ、ありがとうございます。母がメインホールに居るのですが……」
「なるほど、分かった……。君のご家族を呼ぶ。家名を伺っても?」
「ハンドレ、ハンドレ伯爵家のリーチェ・ハンドレと申します。母はフリーシア・ハンドレです、騎士様」
「ハンドレ伯爵家か。分かった。それではリーチェ嬢。君の母親を呼びに行かせよう。──ああ、そこの!」
リーチェ・ハンドレ。
カイゼンは目の前の令嬢の名前を知れた事に浮かれ、自分の名前を名乗る事を失念してしまう。
そして近くを通り掛かった自分の師団の部下を呼び付け、リーチェの母親を呼びに行くように伝える。
部下はカイゼンの命を受け、直ぐにメインホールに戻って行った。
その間、カイゼンはリーチェと世間話でもしていようかと思ったのだが、少し強ばった表情で自分に近付いて来る部下の騎士を見て、すくっと立ち上がった。
「──団長。少しよろしいですか……?」
「何だ……?」
「こちらへ」
リーチェから離れた所に場所を移し、部下と顔を合わせたカイゼンは「何事だ?」と声を潜めて問うた。
すると部下は周囲に聞かれてしまわないようにこそり、とカイゼンにしか聞こえないような小声で告げた。
「団長。情報が入ったのですが……。この茶会に招待されている人物が違法薬物の売買を行っているらしく……」
「──何?」
「王族主催の花の茶会は参加者が多い事から、悪事を働く者が参加しやすいそうです」
「……王都で、王族主催のこの茶会で良くもそんな大胆な事を……。──!」
そしてカイゼンはそこで先程廊下の角を曲がり、人気の少ない休憩室の方向に消えた人物を思い出す。
花の茶会が開始されてまだ間もない時間に休憩室に向かう人間など珍しい。
「──分かった。少し気になる事があるから俺が調べてこよう。……彼女を頼む。ヒールが折れてしまっていて、自力で歩くのが困難なんだ」
「かしこまりました。ご令嬢のご家族が来るまで私が共に居ます」
「ああ。頼んだぞ」
こくり、と頷く自分の部下の姿を見た後カイゼンは廊下の先に向かって歩き始める。
(リーチェ・ハンドレ嬢か……。あのハンドレ伯爵家のご令嬢……)
カイゼンはリーチェの名前を知れた事に高鳴る鼓動を必死に抑えながら、違和感を感じた廊下の先へと姿を消した。
廊下の角を曲がるなり、カイゼンは駆け出した。
休憩室の扉には使用者が居る場合、ドアノブにレースがあしらわれる。
そのレースがある場所をカイゼンは駆けながら横目に確認して行くがどの休憩室もレースが掛けられてはいない。
(……普通に考えれば、まだ開始間もないこんな時間に休憩室を利用する貴族は居ない……。ならば、先程この廊下の角を曲がり姿を消した人間は一体どこに行ったと言うんだ?)
先程、部下から聞いた言葉がカイゼンの頭の中を巡る。
違法薬物を売買するような人物がもし本当にこの宮殿に潜り込んでいるとしたら──。
「……っ、陛下に報告しなければ……」
たんっ、と足音を立てて立ち止まる。
足音を立ててしまった事にカイゼンは内心で舌打ちをしつつ、元来た廊下を戻る。
足早に駆けながら廊下の角を曲がる。
つい先程までそこにいたリーチェの姿も、自分の部下の姿も無くなっている事にカイゼンは二人がメインホールに戻ったのだろうか、とそちらの方向に顔を向ける。
以前、湖でリーチェを見掛けた際にリーチェは母親らしき人物に頬を打たれていた。
その時の事を思い出し、リーチェは大丈夫だろうかと心配になるカイゼンだがメインホールは人の目も多い。
そんな場所で自分の娘の頬を打つ事など流石にしないだろう、と思いつつカイゼンはそのままメインホールに足を踏み入れた。
突然カイゼンがメインホールに姿を現した事で、周囲の貴族達はざわめく。
令嬢の中には嬉しそうに表情を輝かせる者も居るがカイゼンは無心で国王が居るであろう場所に向かい歩く。
今回の花の茶会は宮殿で開かれているため、開始された後僅かな時間だけ国王夫妻が参加している。
(──居た……!)
カイゼンは国王が居る壇上に視線を定め、ただ真っ直ぐ歩く。
カツカツと足音を鳴らし、尋常ではない雰囲気のカイゼンに気付いたのだろう。
挨拶にやって来ていた貴族と談笑していた国王の表情がふっ、と引き締まる。
そして隣に居た王妃に言葉少なに耳打ちをした後、カイゼンに視線を向ける。
「──陛下」
そのタイミングで丁度壇上に居る国王の側までやって来たカイゼンはさっと自分の胸に手を当てて片膝を突き、頭を下げる。
「カイゼン、こちらで話を聞こう」
「──はっ」
国王がくい、と顎をしゃくりメインホールの外を示す。
カイゼンは短く返事をした後、国王の後を追って二人してメインホールから姿を消した。
突然のカイゼンの登場。
そして、カイゼンを伴い姿を消した国王に周囲の貴族は戸惑い、ざわざわとざわつくが王妃が微笑みを浮かべ花の茶会の続行を口にした。
落ち着いた様子の王妃に、ざわめいていたメインホールの気配も次第に落ち着き、普段通りの雰囲気に戻って行く。
そのメインホールの片隅で。
「申し訳ない、ハンドレ伯爵令嬢。伯爵夫人を探したのだが姿が無く……」
「本当ですか……? お母様、どこに行かれてしまったのか……。ありがとうございます、騎士様。後はどうにか致します」
「力になれずすまないな。何かあれば気軽に声を掛けてくれ」
母親の姿が見つからず、申し訳無さそうにリーチェに頭を下げる騎士と、不思議そうにしつつ騎士にお礼を告げるリーチェの姿があった。
◇
「──して、血相を変えてどうしたカイゼン?」
「妙な噂を聞きました」
メインホールから離れた国王とカイゼンは、王族専用の控えの間に場所を移動していた。
そしてその部屋に入るなり、国王がくるりと振り返り何処か責めるようにカイゼンに向かって口を開いた。
「あの形相はいかん……。あれでは近衛が何かあったのかと慌てふためくではないか」
もう少し感情を抑制しろ、と国王に苦言を呈され、カイゼンは申し訳なさそうに謝罪する。
「大変失礼致しました……。なにぶん、嫌な予感がしまして」
カイゼンの「嫌な予感」と言う言葉に国王はぴくりと片眉を上げ、「話せ」と言葉の続きを促した。
カイゼン・ヴィハーラの予感──直感と言う物は馬鹿に出来ない。
それを身を以て経験している国王はすうっと真剣な表情を浮かべ、カイゼンの言葉を待つ。
「はい。部下からここ最近、違法薬物の売買がここ王都で行われていると言う噂を聞きました」
「──なに? そんな噂は私の耳に届いていないが……」
「はい。私の元にも報告が上がっていないので、本当に……平民や下級貴族の間での噂話かもしれません。信憑性も低い噂かもしれないのですが……。本日、この花の茶会にてその売買をしている者が参加している、と……」
「──はっ。まさか、貴族が率先して禁止薬物を……? そんな馬鹿な……」
「私もそう思ったのですが……。茶会が開始して間もないと言うのに、休憩室のある方向に消えて行く人影を確認しました。ですが、休憩室には使用されている気配も無く、中には人の気配もございません」
カイゼンの言葉を聞いた国王は自分の顎に手を当て、考え込むような素振りを見せる。
「……あの先は立ち入り禁止区域だ。まさか城の人間が関わっているとでも言うのか……?」
「私の考え過ぎで済めば良いのですが」
城の人間が手引きをしているのであれば。
薬物の売買以前の問題だ。
二人は黙り込み、重い沈黙が室内に満ちた。