50 綾乃の結論
「……あれ、綾乃ちゃん……?」
いつもと違う方向に足を向けた私を、
加奈は不思議そうに見つめていた。
「反対の電車に乗るの?」
「……ごめん、加奈。
これからちょっと寄りたいところがあるから、加奈は先に帰ってて」
「え……うん」
わざわざこんな時にこんなことをする必要はないのかもしれない。
でも、なんとなく、今を逃しちゃいけない気がした。
今じゃないと行けないと思った。
今じゃないと言えないと思った。
私は、過去に一度通った道を再びなぞる。
もう秋も終わり。それを惜しむかのように、虫たちは必死で鳴いていた。
もちろんそんなわけではないことを、私は知っている。
彼らは何も考えず、ただ翌年に子孫を残すためだけに鳴いていることを、私は知っている。
でも、そう思ったほうが、気分がいいじゃない。
「……早いね」
日も落ちきった中、門の明かりに背中を照らされて、私はインターホンに顔を向けていた。
この分だと帰りは誠よりも遅くなるかもしれない。
まあ、親には連絡入れてあるし、大丈夫だとは思う。
「……もう、なの……?」
その声は、どことなく暗かった。失望しているように、私には聞こえた。
「まだだよ」
「なら……どうして。来ないでって言ったよね」
「だから、顔は合わせなくてもいいよ。ただ、言いたいことがあっただけだから」
「……それって、こじつけじゃない?」
「気にしない気にしない。電話で話してるのと同じだと思って」
そう、電話にすれば、わざわざ足を運ぶ必要もなかったし、加奈と帰ることもできた。
でも、そうはしなかった。
もしかしたら顔を見せてくれるかもと心の底で期待したのかもしれない。
「……で、何の用?」
「……私ね、やっと見通しが立ってきたよ。最近ちょっと色々あってね。聞かせようか?」
「要らない」
「だよね」
私は苦笑する。
「とにかく、いつか絶対顔向けできるようになるから。だからその時は、たくさん話そうよ。
言いたいこともたくさんある。語り合いたいこともたくさんある。
一緒に笑いたいことも、泣きたいこともたくさんある。だから……」
「……」
「……ごめん、そんなの、傲慢だよね」
「……許すかどうかは、その時になってから、私が決める」
「うん。せいぜい頑張るよ」
「話はそれで終わり?」
「……うん」
「じゃあ切るよ。もう暗いから、人通りのない道は避けるように」
そんなこと言われても、ここら一帯自体あまり人通りが多いようには見えないのだけれど。
まあ忠告どおり、できるだけ早く大きな通りに出るとしよう。
……でも、その前に。
「あ、あのさ」
「……何?」
もしかしたら私は人の上に立つのには向いていないのかもしれない。
愚問と分かっているのに、こんなことを尋ねていた。
「今……幸せ?」
「……」
長い沈黙。そしてゆっくりと、淡々とした口調で、声は答えた。
「……あの頃よりは、ずっとね」
「……ごめん」
再び沈黙する。辺りの虫の音がやけに大きく感じられる。向こうにも、聞こえているのだろうか。
彼女は、外に出られるようになったのだろうか。
寒さに耐えられるようになったのだろうか。
その中でも何かを楽しめるようになったのだろうか。
そうじゃなかったとしても、私に連れ出す権利は無いのだけれど。
彼女は、私が閉じ込めたのだから。
早く春が来ますように。
少しでも、寒さが和らぎますように。
私ができるのは、すべきなのは、
詰まるところ、そういうことなのだ。
これで終わりにするべきだった。
じゃあね、と言って、帰るべきだった。
でも。
「祥子」
「何?」
言わないほうがいい。
そんなの失礼だ。
思ったとしても、口に出しちゃいけない。
だって、だってそれは……
そうやって頭がストップをかけるのに、別のモノが抗おうとする。
言わなくちゃいけないと思った。
伝えなくちゃいけないと思った。
私の、本心を。
だから。
私は、静かに、ゆっくりと、目の前の黒い箱に向かって、呟いた。
「生きていてくれて……ありがとう」