第5話:最後の退職届
「これ以上、俺に人を殺させるな……!」
影一はホームセンターで買ってきた頑丈な金属製のチェーンと南京錠を手に、自室の太い大黒柱の前に立っていた。
もう警察に自首する気力すらない。
今夜、自分を完全に物理隔離しなければ、間違いなく会社の社長を殺しに行ってしまう。
影一は自分の身体に何重にもチェーンを巻き付け、柱と固く繋ぎ合わせた。
最後に南京錠をカチリと施錠し、その鍵を部屋の反対側、手が絶対に届かない窓の隙間から外の暗闇へ放り投げた。
これでいい。
鍵は二度と手に入らない。
どんなに狂暴な無意識が目覚めようと、この鉄の鎖を人間の力で引きちぎることなど不可能なはずだ。
「はは……これで、終わりだ……」
影一は柱に縛り付けられたまま、疲弊しきった身体を預けた。拘束の安心感と引き換えに、抗いようのない強烈な眠気が脳を支配していく。
――夢の中。
巨大な社長室のフカフカのソファに、会社のトップである社長が踏んぞり返っていた。
「佐藤ぉ? 木村も大河原さんも死んで、うちの営業はどうすんだ? お前が倍働けよ。嫌なら死ね!」
影一の脳内で、何かが決定的に弾け飛んだ。
夢の中の影一は、手に持った大きな斧を振り上げ、社長に向かって襲いかかった。
必死に逃げ惑う社長の背中に刃を叩き込み、肉を裂き、骨を砕く。
血みどろの叫び声が響き渡る中、影一は歓喜の声を上げて斧を振り下ろし続けた。
「死ね! 死ね! 会社ごと、消えてなくなれぇぇぇ!!!」
かつてない最高の爽快感と開放感が、影一の全身を駆け巡った。
――ガシャアアン!!!
激しい衝撃と金属音で、影一は跳ね起きた。
「ハッ……! ガハッ……!」
激しい呼吸とともに目覚めた影一は、自分の状態を見て絶句した。
激痛が走る両手首を見ると、皮膚と肉が削れ、骨が見えるほど赤黒くちぎれかけていた。
そして、柱に巻き付けていたはずの頑丈な鉄のチェーンは、人間が出せるはずのない異常な力によって引っ張られ、接合部が歪んで無残に引きちぎられていたのだ。
「そんな……嘘だろ……?」
ガタガタと震える手で自分の服を見る。
全身が大量の生臭い返り血で真っ赤に染まっていた。
右手には、夢の中で振り回していたはずの重い肉切り包丁が、しっかりと握りしめられている。
『ドンドンドンドンドン!!!』
突然、アパートの薄い玄関ドアを破らんばかりの激しいノック音が響き渡った。
「警察だ! 佐藤影一、開けなさい! 付近の防犯カメラに君の姿が映っている!」
ドアの向こうから、複数の警察官の怒号が飛び交う。
『本日午前4時頃、不動産会社社長の自宅にて、社長本人が全身を酷く切り刻まれて死亡しているのが発見され――』
つけっぱなしのテレビから、惨劇の結末を告げるニュースが虚しく流れていた。
影一は血まみれの包丁を握りしめたまま、力なく床へ崩れ落ちた。
自分を縛っていたチェーンの破片が、足元で冷たく光っている。
警察がドアを蹴破り、踏み込んできた。銃口を向けられ、怒号が飛び交う喧騒の中、影一の口角がふっと緩んだ。
もう、飛び込み営業に行かなくていい。
もう、ノルマに怯えなくていい。
もう、あの上司たちの顔を見なくていい。
「……これで、やっと……ぐっすり眠れる……」
影一は警察官たちに取り押さえられながら、生まれて初めて穏やかな笑みを浮かべ、深い、深い闇の中へと瞳を閉じた。




