第1話:泥のような浅い眠り
「おい、佐藤。お前の顔、営業マンのツラじゃないんだよ」
鬼塚課長のポマードの甘ったるい臭いと、怒声とともに飛んできた唾が鼻先をかすめた。
新卒で入社して半年。
佐藤影一が配属されたのは、飛び込み営業を主体とする住宅リフォーム会社の営業部だった。
毎日100件以上の住宅を回り、インターホン越しに塩を撒かれ、ドアを乱暴に閉められる。
「今月のノルマ、まだ達成率20パーセントだぞ? 他の奴らの血汗で食う飯はうまいか?」
朝礼で全員の前に吊るし上げられ、深夜11時に帰社しても「契約取るまで帰ってくるな」と書類の山を叩きつけられる。毎月、残業時間は60時間を超えていた。
終電でボロアパートに帰り着き、スーツのまま畳の上に倒れ込む。身体は鉛のように重いのに、神経だけが鋭く冴えて頭痛が響く。
泥のような浅い睡眠に落ちるまで、そう時間はかからなかった。
気がつくと
俺は深夜の誰もいないオフィスに居た。
蛍光灯が不気味にチラつき、重苦しい静寂が満ちている。
デスクの奥から、ポマードの臭いが漂ってきた。鬼塚が缶コーヒーを片手に、影一を見下ろしている。
「おい、影一。何ボサッとしてんだ」
その瞬間、影一の中で何かがブツリと切れた。
視界が真っ赤に染まる。影一は無言でデスクの上にあった重厚なガラス製の灰皿を掴み上げた。
「おい、なにを――」
声を聞くより早く、全身の体重をかけて灰皿を鬼塚の側頭部に叩きつけた。
鈍い骨の砕ける音が響き、顔面に温かい血が飛び散る。鬼塚が悲鳴を上げて床に転がると、影一は馬乗りになり、何度も、何度も灰皿を振り下ろした。
肉が潰れる感触、鼻を突く強烈な血の匂い。
「死ね、死ね、死ね……!」
脳髄に直接届くような恐ろしいほどの爽快感があった。
「はっ……!」
影一は跳ね起き、激しい呼吸を繰り返した。
部屋の中は暗く、自分の荒い息遣いだけが響いている。全身が嫌な汗でビショビショだった。
(夢、か……)
心臓が早鐘のように打っている。
ただの悪夢だ。
日頃のストレスが限界に達して、夢の中で上司を殺してしまったのだと自分に言い聞かせた。
しかし、立ち上がろうとした影一は右手の違和感に気づいた。
右の拳が、麻痺したように重く痛む。
掌を開くと、爪が皮膚に食い込むほど強く握りしめていたような、生々しい赤紫色の痕が残っていた。
まるで、昨夜何か重いものを本気で握りつづけていたかのように。
影一は手についた痕を不気味に思いながらも、重い足取りでシャワーを浴び、また地獄のような会社へと向かうのだった。




