電話番号
深夜二時。
時間など気にしていられなかった。
震える指で母の連絡先を押す。
コール音が鳴る。
一回。
二回。
三回――。
ようやく電話がつながった。
『……ひろ?』
眠そうな声。
『何時だと思ってるの?』
「母さん。」
息が詰まる。
「僕が小学五年生の時……転校生が死体で見つかった事件、分かる?」
電話の向こうが静かになった。
息を飲む音だけが、はっきりと聞こえた。
長い沈黙。
そして、母はゆっくりと言った。
『……あんた。』
『記憶が戻ったのかい?』
ひろの心臓が大きく脈打つ。
「分からない。」
「うまく説明できないんだ。」
「夢を見たんだ。」
「でも、ただの夢じゃない気がする。」
「教えてよ。」
「当時、何があったの?」
再び沈黙が流れる。
時計の秒針だけが部屋に響く。
やがて母は、小さく息を吐いた。
『……忘れな。』
『思い出しても、いいことなんて一つもないよ。』
その声は、怒っているわけでも、呆れているわけでもなかった。
ただ。
怯えていた。
ひろは拳を握り締める。
「じゃあ。」
少しだけ声が震える。
「ダイちゃんの連絡先、知ってる?」
また沈黙。
今度はさらに長かった。
『……知ってるよ。』
母は静かに答えた。
『でも、十五年以上連絡なんて取ってない。』
『番号が変わってるかもしれないし、今どこに住んでるのかも分からない。』
ひろはすぐに言う。
「それでもいい。」
「教えて。」
母は何かを迷っているようだった。
『……ひろ。』
「うん。」
『あんた、本当に何も覚えてないの?』
「覚えてない。」
「だから知りたいんだ。」
『……そう。』
母は観念したように息をついた。
『古い年賀状なら、押し入れの箱に残ってるかもしれない。』
『朝になったら探してみるよ。』
『もし見つかったら、住所か電話番号を送る。』
ひろは安堵しながらも、胸のざわめきは消えなかった。
「ありがとう。」
電話を切ろうとした、その時。
母が小さな声で付け加える。
『……ひろ。』
「なに?」
『もし、本当に思い出したいなら。』
『ダイちゃんに聞くんだよ。』
『あの日のことを、一番知っているのは、あの子だから。』
通話が切れる。
部屋には再び静寂が戻った。
ひろはスマートフォンを握ったまま、夢の中で見たダイちゃんの真剣な表情を思い出す。
「ひろ! 忘れたのか!」
あの叫びだけが、何度も頭の中で繰り返されていた。
朝までなんて、待てなかった。
ひろは椅子を引き、机に向かう。
パソコンの電源を入れる。
震える指でキーボードを叩く。
福岡県 小学生 山中 遺体
小学校 転校生 死亡
検索結果が並ぶ。
古い新聞記事のアーカイブ。
地域紙の記録。
何件目かの記事を開いた瞬間、息が止まる。
「福岡県○○市 小学校近くの山中で10歳男児の遺体を発見」
記事は短かった。
事件性は低いと判断。
死因の詳細は非公表。
最終的に――
自殺。
その二文字だけが、画面の中で異様な存在感を放っていた。
「……そんなわけ。」
思わず声が漏れる。
十歳。
小学五年生。
自殺。
どれだけ考えても結び付かなかった。
画面をスクロールする。
関連記事はほとんど残っていない。
続報もない。
まるで、その出来事だけが静かに忘れ去られたようだった。
ひろは椅子にもたれ、目を閉じる。
今すぐ。
今すぐダイちゃんと話したい。
夢の中での会話を思い返す。
「お前、今何歳だ?」
あの問い。
そして、自分が二十五歳だと答えた時のダイちゃんの反応。
あれは、子どもが大人の話を理解できずに見せる顔ではなかった。
十五年前の友達と話しているのではない。
まるで。
十五年後のお互いが、昔の自分の姿を借りて話していた。
そんな錯覚が、どうしても頭から離れない。
朝になれば、母が年賀状を探してくれる。
ダイちゃんの連絡先も分かるかもしれない。
それが一番現実的だ。
そう理解している。
それでも。
待てなかった。
理屈じゃない。
証拠もない。
ただ一つだけ、胸の奥で確信していることがあった。
寝れば、またあの場所へ戻れる。
ひろはゆっくりとパソコンを閉じる。
時計を見る。
午前三時十一分。
ベッドへ向かい、横になる。
「……頼む。」
誰に言うでもなく、小さく呟く。
「もう一度だけ、会わせてくれ。」
目を閉じる。
鼓動だけが耳の奥で響く。
眠れる保証などない。
夢の続きを見られる保証もない。
それでもひろは、まるで約束の場所へ向かうように、静かに意識を手放していった。
体育館脇。
「……おい! ……ひろ!」
「どうした!」
肩を激しく揺さぶられる。
霞んでいた視界がゆっくりと鮮明になる。
目の前には、息を切らしたダイちゃんがいた。
ひろは辺りを見回す。
体育館脇。
中からは表彰式の拍手と先生の声が聞こえてくる。
夢は終わっていなかった。
いや――戻ってきたんだ。
ひろは荒い息のまま、ダイちゃんの両肩を掴む。
「ダイちゃん!」
「今、何歳?」
ダイちゃんは目を丸くしたあと、小さくため息をついた。
「……ああ。」
「やっと理解したか。」
その口調は、もう小学五年生のものではなかった。
「二十五歳だ。」
その一言で、ひろの胸につかえていたものが一気にほどける。
「やっぱり……。」
「お前もか。」
ダイちゃんは苦笑する。
「最初は、お前だけが思い出してるのかと思った。」
「でも『十五年経った』なんて言い出したから、おかしいとは思ってた。」
ひろも思わず笑う。
「一回目が覚めたんだ。」
「自分の部屋で。」
「夢のことが気になって、事件の記事まで調べた。」
「それでも、お前と話したくて。」
「もう一回寝たら、本当に戻ってこれた。」
ダイちゃんは静かにうなずく。
「俺も同じだ。」
「目が覚めたら午前二時半だった。」
「訳も分からず寝直した。」
「そしたら、またここだった。」
二人は顔を見合わせる。
小学五年生の姿。
白い体操服に胸の名札。
赤白帽は腰に挟んだまま。
膝には校庭の砂が付き、運動靴には乾いた土が残っている。
ついさっきまで球技大会で走り回っていた、小さな身体。
それなのに。
中身だけが二十五歳だった。
体育館からは、表彰式の拍手が聞こえてくる。
十五年前と寸分違わぬ景色。
違うのは、自分たちだけだった。
ひろは静かに口を開く。
「ダイちゃん。」
「あの転校生が……数日後に死体で見つかったって言ってたよね。」
ダイちゃんの表情から笑みが消える。
「ああ。」
「現実でも覚えてる。」
「俺は……忘れられなかった。」
少し間を置いて続ける。
「でも、お前は違った。」
「事件のことも。」
「あいつのことも。」
「綺麗さっぱり忘れてた。」
「まるで、その記憶だけ最初から存在しなかったみたいにな。」
ひろは息をのむ。
確かにそうだった。
夢を見るまで、転校生がいたことさえ思い出せなかった。
ダイちゃんはひろを真っ直ぐ見つめる。
「だから、お前が『転校生』って口にした時、本当に驚いた。」
「思い出したのかって。」
ひろはゆっくりとうなずく。
「現実で記事も見た。」
「福岡県。」
「小学校の近くの山で十歳の男の子の遺体が発見。」
「結論は……自殺だった。」
その言葉を聞いた瞬間、ダイちゃんは即座に首を横へ振る。
「違う。」
その一言には、一切の迷いがなかった。
「少なくとも。」
「俺は、あれを自殺だとは思ってない。」
体育館の中では表彰式が続いている。
子どもたちの歓声。
先生たちの拍手。
夏の日差し。
十五年前と何一つ変わらない世界。
その中で二人だけが、十五年後の記憶を抱えたまま立ち尽くしていた。
ダイちゃんは突然ひろの両肩を掴んだ。
「時間がない。」
真剣な表情だった。
「ひろ。」
「俺の携帯番号を覚えろ。」
「目が覚めても、絶対忘れるなよ。」
そう言うと、ダイちゃんはゆっくりと携帯番号を読み上げ始めた。
一桁ずつ。
聞き間違えないように。
「――――。」
ひろは何度も復唱する。
「――――。」
「違う、一つ飛ばした。」
「あ、ごめん。」
もう一度。
「――――。」
「そう、それだ。」
何度も。
何度も。
まるで呪文を刻み込むように、二人は番号を繰り返した。
ダイちゃんはひろの目を真っ直ぐ見つめる。
「起きたら、すぐ連絡くれ。」
「絶対だからな。」
ひろは力強くうなずく。
「うん。」
「……待って。」
「ダイちゃんにも、僕の番号教えた方が――」
言いかけた瞬間。
ダイちゃんは苦笑して首を振った。
「無理だ。」
「俺は覚えられん!」
「え?」
「お前と違って、数字を一回聞いただけで覚えるような頭してないんだよ!」
ひろは思わず吹き出す。
「そこは十五年経っても変わらないんだね。」
「うるせぇ!」
ダイちゃんも笑う。
「だから、お前から電話してくれ。」
「番号さえ分かれば、その先はいくらでも話せる。」
ひろは大きくうなずいた。
「ああ。」
「起きたら、一番最初に電話する。」
二人は固く握手を交わす。
その瞬間。
体育館から鳴り響いていた拍手が、急に遠ざかっていく。
風景が揺らぎ始める。
ダイちゃんは焦ったように叫んだ。
「ひろ!」
「忘れるなよ!」
「絶対に電話しろ!」
ひろも叫び返す。
「分かってる!」
「絶対かける!」
景色が白く染まる。
ダイちゃんの姿が光の中へ溶けていく。
最後に聞こえたのは、小学生の頃と何一つ変わらない親友の声だった。
「待ってるぞ、ひろ!」
次の日の朝。
重たい頭のまま、ひろはゆっくりと目を開けた。
夢だったはずの出来事が、驚くほど鮮明に残っている。
体育館脇。
球技大会。
転校生。
そして――ダイちゃん。
「……っ。」
飛び起きる。
昨夜、何度も復唱した数字を頭の中で確認する。
覚えている。
一桁も欠けていない。
すぐにスマートフォンを手に取る。
電話をかけようとして、画面に通知が表示されていることに気付いた。
母
メッセージが一件。
押し入れを探したら見つかったよ。
ダイちゃんの番号、多分これ。
そこには電話番号が書かれていた。
ひろはゆっくりと目を閉じる。
昨夜、夢の中で何度も唱えた数字。
母から送られてきた番号。
完全に一致していた。
思わず息を飲む。
「……やっぱり。」
あれは夢じゃない。
少なくとも、ただの夢ではなかった。
震える指で発信ボタンを押す。
プルル……
一回。
二回。
三回。
『……もしもし。』
男の声。
低く、落ち着いた声だった。
もう、小学五年生のダイちゃんではない。
十五年という時間を生きた、二十五歳の男の声。
そして次の瞬間。
『よお、ひろ。』
その一言だけで分かった。
ひろの目に涙が滲む。
「……ダイちゃん?」
電話の向こうで、小さく笑う声がした。
『ああ。』
『ちゃんと電話してきたな。』
『約束、守ったじゃねぇか。』




