初夢:ダイちゃんと転校生
「待ってよ、ダイちゃん!」
そう言って前を走る少年の背中を追う。
「ダイちゃん」と呼ばれたその少年は、駄菓子を口にくわえたまま振り返りもせず、笑いながら走り続ける。
「ひろ! もうすぐ表彰式だ! 遅れたらバレるぞ!」
その声に、ふと足が止まる。
――表彰式?
胸の奥が少しだけざわつく。
ああ。
また、この感覚だ。
夢だ。
懐かしい景色。
懐かしい声。
懐かしい匂い。
全部、もう戻れないはずの日々。
夢だと分かっている。
分かっているのに、不思議と悲しくはなかった。
ただ、もう少しだけ。
もう少しだけ、この時間を歩いていたい。
いや――。
歩くんじゃない。
あの頃みたいに、息を切らして追いかけたい。
「待ってよ、ダイちゃん!」
もう一度叫ぶと、少年はようやく振り返った。
「ほら! 早く来い!」
太陽みたいな笑顔だった。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が熱くなる。
体育館裏の崖下。
学校を囲むコンクリートの壁。
その隅に、草で半分隠れた小さな穴が開いている。
「ああ……こんな穴、あったな」
思わず声が漏れる。
「ダイちゃん、よく覚えてるね!」
前を歩いていたダイちゃんが足を止めた。
口にくわえていた駄菓子が、ぽとりと地面に落ちる。
ゆっくりと振り返る。
「……おい、ひろ」
その声には、さっきまでの無邪気さがなかった。
「今、なんて言った?」
「いや、もう十五年も経つのに、小学校の頃の抜け道を覚えてるなんてすごいじゃん」
言い終えた瞬間、ひろは自分の失言に気付く。
(……ああ、そうだ。)
(こんなこと、小学生のダイちゃんに話しても意味ないか。)
苦笑しながら誤魔化そうとする。
しかし、ダイちゃんは笑わなかった。
真っ直ぐこちらを見つめている。
その瞳は、小学五年生のものとは思えないほど静かで鋭かった。
風だけが二人の間を吹き抜ける。
やがてダイちゃんは、一歩だけ近づく。
「ひろ。」
低く、確かめるような声。
「……お前、今何歳だ?」
その一言で、世界が止まったような気がした。
夢のはずなのに。
まるで、夢の中のダイちゃんだけが、自分が”夢を見ている大人のひろ”だと気付いてしまったかのように。
(せっかくの夢だけど……まあ、いいか。)
ひろは肩をすくめて笑う。
「二十五歳だよ。」
ダイちゃんは黙って聞いている。
「ここは夢の中。懐かしいなぁって思ってさ。」
少し空を見上げる。
「ダイちゃんも、僕が作り出した幻影みたいなもんだよ。」
苦笑しながら続けた。
「それで? 今日は何の日なの?」
ダイちゃんは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「球技大会だよ。忘れたのか?」
「あの時さ。」
「俺とお前で優勝しよう!って約束したのに、準決勝で負けたじゃん。」
その言葉を聞いた瞬間、記憶が一気によみがえる。
「ああ!」
思わず声が弾む。
「懐かしいね!」
「それで不貞腐れて学校抜け出したんだ!」
「お!」
ダイちゃんの顔がぱっと明るくなる。
「思い出したか!」
「それで駄菓子屋行ってさ!」
「百円しか持ってないのに、どっちが多く買えるか勝負したんだよ!」
「あったあった!」
ひろは腹を抱えて笑う。
「ダイちゃん、十円ガムばっか買ってた!」
「お前はうまい棒ばっかだったろ!」
「そうそう!」
二人は顔を見合わせる。
声を上げて笑う。
学校をさぼった罪悪感なんて、あの頃はほんの少ししかなかった。
それよりも。
秘密基地へ向かうような高揚感。
友達と二人だけの冒険。
それが世界で一番楽しかった。
笑いながら歩くひろは、不意にダイちゃんの横顔を見る。
「この後、どうなるんだっけ?」
ダイちゃんが首をかしげる。
ひろは記憶をたどりながら笑う。
「確か……こっそり体育館に戻って、何食わぬ顔で表彰式に参加するんじゃなかった?」
「そうだった!」
二人は顔を見合わせ、小さく笑う。
足音を忍ばせながら校舎へ入り、人気のない廊下を進む。
階段下まで来ると、ひょい、と一人の少年が姿を現した。
「やあ。」
穏やかな笑顔。
「突然消えて、どこへ行ってたんだい?」
その顔を見た瞬間、ひろは目を丸くする。
「あ……。」
「確か、イケメンの転校生。」
懐かしさが込み上げる。
「いたいた!」
「こんな子、いたね!」
小学五年生で転校してきた少年。
整った顔立ちで、女子たちが毎日のように騒いでいた。
そして球技大会。
準決勝で、その少年のクラスに負けた。
「ああ……懐かしいな。」
夢だということも忘れ、ひろは自然に歩み寄ろうとする。
「懐かしいね、ダイちゃん──」
その瞬間だった。
ぐいっ。
右手を強く引かれる。
「……え?」
ダイちゃんだった。
表情から笑顔が消えている。
そのまま無言で走り出し、少年から少し離れた場所まで来ると、ようやく立ち止まった。
肩で息をしながら、ひろを睨む。
「ひろ!」
声が震えている。
「忘れたのか!」
「え……?」
「……あいつは。」
ダイちゃんは唇を噛む。
「この数日後。」
「近くの山の中で。」
「死体で発見されたんだ。」
――その言葉を聞いた瞬間。
世界から音が消えた。
体育館。
階段。
子どもたちの笑い声。
夏の匂い。
全部がゆっくりと遠ざかっていく。
転校生は、少し離れた場所で変わらない笑顔を浮かべたまま立っていた。
まるで何も知らないまま。
何も起こらない未来を信じているように。
ひろは言葉を失う。
夢なのに。
夢のはずなのに。
胸が締めつけられて、息ができない。
次の瞬間――
「っ!」
ガバッ。
ひろは勢いよく体を起こした。
全身が滝のような汗で濡れている。
荒い呼吸だけが静かな部屋に響いた。
見慣れた天井。
見慣れた机。
ここは、自分の部屋だった。
カチ、カチ、カチ……
時計の秒針だけが、何事もなかったかのように時を刻んでいる。
ひろは汗ばんだ額を押さえたまま、小さく息を吐く。
「……夢。」
そう呟いても、胸の奥に残った重苦しさだけは消えなかった。




