夢:飲まれる
鬱蒼とした森。
木々の隙間から月明かりが静かに差し込んでいる。
最近、夢の始まりはいつもこの景色だった。
(また、この森か。)
そう思った瞬間、意識はさらに深く夢の中へと沈んでいく。
⸻
三人は保健室に立っていた。
昨日、保健室で交わした会話など、この世界の先生はもちろん覚えていない。
ひろたちは軽く会釈だけすると、足早に部屋を出る。
「あれ? もういいのかい?」
先生の声が背中に飛ぶ。
三人は振り返ることなく廊下を歩き続けた。
しばらく沈黙が続いたあと、ダイちゃんが難しい顔で口を開く。
「あと三ヶ月。」
「何から探せばいいんだ?」
鈴木さんは少し考え込んでから答えた。
「別行動を取るのはどう?」
ひろは間髪入れずに首を横へ振る。
「だめ。」
「今こうして三人で会話してるから意識を保ててる。」
「一人になったら、すぐ夢に飲まれる。」
鈴木さんは納得したようにうなずく。
しかし、すぐに顔を上げた。
「でも、それだけの価値はあると思わない?」
「三人が別々の記憶を辿れば、一日で三倍の情報が集まるかもしれない。」
ひろは立ち止まり、廊下の天井を見上げる。
深く考え込む。
やがて静かに口を開いた。
「……いや。」
「デメリットの方が大きい。」
「誰か一人でも夢に飲まれたら、その日は全部無駄になる。」
「僕たちには、あと三ヶ月しかない。」
「堅実に行こう。」
ダイちゃんは腕を組んだまま、大きくうなずく。
「俺もそう思う。」
ひろは歩きながら続けた。
「よくあるでしょ。」
「二度寝した時、夢の中では何時間も過ごした気がするのに、現実では数分しか経ってないこと。」
二人は黙って聞いている。
「夢の中の時間は、現実とは流れ方が違う。」
「だから、意識さえ保てれば。」
「僕たちは実質、いくらでも捜査できる。」
ひろは前を向いた。
「焦らない。」
「一日一日を、大事に使おう。」
二人は静かにうなずき、誰もいない廊下をゆっくりと歩き始めた。
三人は自然と運動場へ戻っていた。
ひろは、これが殺人事件の捜査であることは分かっていた。
それでも。
懐かしさに浸ることだけは、どうしてもやめられなかった。
校舎。
砂埃。
遠くから聞こえる子どもたちの歓声。
自然と笑みがこぼれる。
鈴木さんが振り返り、優しく微笑んだ。
「懐かしいね。」
ダイちゃんも照れくさそうに頭をかく。
「だな。」
ひろは二人を見つめる。
体操服姿の鈴木さん。
珍しいな。
……いや。
待て。
ひろの表情が一変する。
「夢に飲まれた!」
二人が同時に振り返る。
「えっ!?」
「油断してた。」
ひろは辺りを見回しながら早口で言う。
「さっきまでは二十五歳同士として会話してた。」
「だから意識を保ててた。」
「でも今は違う。」
「三人とも昔を懐かしんだ。」
「その瞬間、夢が僕たちの記憶を優先し始めたんだ。」
ダイちゃんは周囲を見回す。
「なんでだ? まだ球技大会だろ?」
その言葉に、鈴木さんもはっと顔を上げた。
「……違う。」
「私。」
自分の体操服を見下ろす。
「球技大会の日は、体操服なんて着てない。」
喘息だった鈴木さんは、あの日、一日中教室にいた。
着替える必要すらなかった。
二人は同時に顔を見合わせる。
夢は、球技大会の日ではない。
もっと昔の。
三人が揃って運動場にいた、別の日の記憶へと切り替わってしまったのだ。
「鈴木さんが体操服を着た日……。」
ひろは思わず考え始める。
「いつだ?」
「いつ着てた?」
「二人とも!」
鈴木さんの鋭い声が響いた。
「考えないで!」
「思い出さないで!」
ダイちゃんとひろは、はっと顔を上げる。
危なかった。
また夢に飲まれるところだった。
鈴木さんは小さく息を吐くと、ゆっくりと運動場を指差した。
二人もその先を見る。
そこには、クラスごとに並ぶ子どもたち。
全員がリュックを背負い、出発前の高揚感に包まれていた。
ひろは周囲を見回し、小さく笑う。
「ああ……。」
「そうか。」
「遠足だ。」
ダイちゃんもすぐに思い出したようにうなずく。
「なるほどな。」
三人は自然と列の後ろへ歩き始める。
しばらく歩いていると、ダイちゃんがふと思いついたように口を開いた。
「なあ。」
「一つ気になることがある。」
ひろが振り向く。
「夢に飲まれたあとさ。」
「こうやって別の場面に切り替わる時と。」
「そのまま目が覚める時。」
ダイちゃんは腕を組み、空を見上げた。
「その違いって、何なんだろうな。」
ひろは答えなかった。
その問いは、今まで一度も考えたことのないものだった。
夢には、まだ自分たちの知らない法則があるのかもしれない。
ひろは足を止め、静かに考え込んだ。
ダイちゃんも鈴木さんも何も言わず、その答えを待つ。
しばらくして。
鈴木さんが不安そうにひろの顔を覗き込んだ。
「山田君……?」
「大丈夫?」
ひろはその表情を見て、ふっと笑う。
「大丈夫。」
「夢に飲まれたりしないよ。」
鈴木さんはほっと胸をなで下ろす。
ひろは前を向いたまま続ける。
「今考えてるのは、昔の記憶じゃない。」
「この夢のルールを整理してるだけだから。」
「記憶を思い出すんじゃなくて、今まで分かったことを論理的に考えてる。」
「だから、飲まれない。」
ダイちゃんは感心したように口笛を吹く。
「なるほどな。」
「思い出すのは危険だけど、分析するのはセーフってわけか。」
ひろは小さくうなずいた。
「多分ね。」
「この違いを見失ったら、僕たちはすぐ夢に飲まれる。」
二人が周囲を警戒する中、ひろは頭の中を整理し始める。
(駄菓子屋の前……。)
タバコを咥えたダイちゃん。
それを見つけたケースケ君。
注意されて、僕とダイちゃんは別の場面へ飛んだ。
そして。
ケースケ君が教室の扉に手をかけた瞬間――目が覚めた。
(次は……。)
僕が教室の扉を蹴り飛ばした時。
あの時は場面が切り替わった。
しかも、球技大会準決勝まで巻き戻った。
そのあと鈴木さんと教室へ行き、三人で話をした。
そして、保健室へ行き、
先生の手を掴んだ。
あの瞬間も、目が覚めた。
(そして今日。)
運動場へ向かう途中。
三人とも昔を懐かしみ、遠足の日へ大きく巻き戻った。
ひろは腕を組む。
(……いや。)
(何かが違う。)
目を閉じて、さっきの感覚を思い返す。
(今回は。)
(景色が歪まなかった。)
今まで場面が切り替わる時は、世界が揺らぎ、視界が歪む感覚があった。
だが今回は違う。
まるで最初から遠足の日だったかのように、ごく自然に景色が繋がっていた。
「ひろ。」
ダイちゃんが声をかける。
「なんか分かったか?」
ひろは頭をくしゃくしゃと掻き、何度か首を振った。
「だめだ。」
「全然分からない。」
苦笑いを浮かべる。
「こういうのは鈴木さんに任せよう。」
「それに、夢の中だと、なんだか集中できない。」
二人は納得したようにうなずく。
ダイちゃんは運動場を見渡しながら言った。
「でもさ。」
「夢の中って異常に目がいいよな。」
「音もやたら聞こえる。」
「異変を探すには、もってこいだ。」
「そうね。」
鈴木さんも静かに続ける。
「夢で、お互いの記憶の中から違和感や異変を探す。」
「そして現実で集まって、情報を整理する。」
「……ん?」
ひろが首をかしげる。
「集まる必要ある?」
「メッセージでよくない?」
一瞬、時間が止まった。
鈴木さんの頬がみるみる赤く染まっていく。
「そ、それは……。」
言葉が続かない。
ダイちゃんは何も言わず、額に手を当てた。
「……。」
深いため息だけが漏れる。
ひろは二人を見比べ、不思議そうに首をかしげる。
「え?」
「なんでそんな反応なの?」
ダイちゃんは空を仰ぎ、小さくつぶやいた。
「こいつ、本当に分かってねぇ……。」
三人は周囲の景色を注意深く観察しながら、遠足の列に紛れて歩いていた。
校舎。
運動場。
先生たち。
子どもたちの笑い声。
すべてが鮮明だった。
ダイちゃんが小さく顎で後ろを示す。
「保健室の先生。」
ひろもちらりと視線を向ける。
先生は、後ろのクラスの最後尾を歩いていた。
ダイちゃんが声を潜める。
「後ろ行ったらまずいか?」
その問いに、ひろは少しだけ笑った。
ダイちゃんも、ようやく夢のルールを掴み始めている。
進行方向の後ろ。
そこは、自分たちがほとんど記憶していない景色だった。
もちろん、振り返ったことはある。
だから、「後ろのクラスに先生がいた」くらいの記憶は残っている。
だが、それだけだ。
どんな表情をしていたのか。
誰と話していたのか。
何をしていたのか。
そこまでは覚えていない。
ひろは静かに首を横へ振った。
「やめた方がいいね。」
「記憶が曖昧な場所に近づけば、夢がどう反応するか分からない。」
「今は、僕たちがはっきり覚えている範囲だけを歩こう。」
ダイちゃんは素直にうなずいた。
「了解。」
三人は無理に後ろには行かず、列の流れに合わせて歩き続けた。
その時だった。
後ろから聞き慣れた声が飛ぶ。
「大崎! 鈴木! 山田!」
「三列になるな!」
三人は反射的に振り返る。
ダイちゃんが小さく笑った。
「俺のことを苗字で呼ぶの、この人しかいねぇ。」
そこに立っていたのは、担任の早川先生だった。
その瞬間。
「だめよ。」
鈴木さんが小さく、しかし鋭く言った。
「考えないで。」
ひろとダイちゃんは、はっと我に返る。
危うく、また記憶を辿るところだった。
二人は照れくさそうに頭を掻く。
「悪い。」
ダイちゃんが苦笑する。
「鈴木、慣れすぎだろ。」
鈴木さんは肩をすくめた。
「あなたたちが頼りなさすぎるのよ。」
そのやり取りを見ていた早川先生が笑う。
「相変わらず鈴木は賢いな。」
「習い事をたくさんしていた嬢様だったな。」
そしてダイちゃんを見て苦笑する。
「それに比べて大崎は、相変わらずバカ丸出しだ。」
「ひでぇな。」
ダイちゃんが笑って返す。
ひろも思わず振り返った。
早川先生と目が合う。
その瞬間だった。
(まずい。)
頭の奥で、何かが軋む。
(早川先生の記憶。)
(鈴木さんの記憶。)
(ダイちゃんの記憶。)
三つの記憶が、一度に流れ込んでくる。
「っ……!」
世界が、大きく歪んだ。
景色が波打ち、音が伸びる。
立っていられない。
そのまま、ひろの意識は暗闇へと落ちていった。




