第18話 背中合わせの二人
『ハイナ工房』が正式に発足して数日が経った。
実家へ叩きつけた法的かつ物理的な完全反撃書(回答書)に対する返事はまだないが、どうせ家名だの威信だのを持ち出して、どうやって私を従わせるか頭をひねっているだけだろう。以前なら胃が痛くなるところだが、今の私にはどうでもよかった。
なぜなら、今日の朝食の焼き菓子(冷蔵庫で冷やした特製クリーム添え)が最高に美味しかったからである。
「甘いものは偉大ね」
「お嬢様、最近は何でも偉大になりますね。温かいお風呂、冷えたエール、排水勾配……」
「排水勾配を軽んじる者は、いずれぬめりに泣くのよ」
私とエルジェが作業部屋でスパリゾートの図面を広げていると、扉が勢いよく開いた。
「遅くなったわね!」
現れたのはトート・ビアンカだった。淡い青の実用服に身を包み、腰には工具袋。かつての「愛され聖女」の面影はどこへやら、目の下にはうっすらと隈ができている。
「寝ていませんね?」
「二刻(約四時間)は寝たわ。それよりこれを見て! 浄化回路の最終調整案よ!」
彼女が叩きつけた図面を見て、私は息を呑んだ。
「検知羽根を二つに増やしたの。流入口と流出口の両方の水流の速さを測れば、濾過層が詰まりかけた時に流速の差でいち早く気づけるでしょう?」
「詰まり検知……! 流量の差分からフィルターの交換時期を割り出すシステムね!? 素晴らしいわ!」
「ほ、褒めないで! 評価も同じよ!」
顔を真っ赤にしてそっぽを向くビアンカに、床材の魔力伝導を調べていたゾルターンが這い出してきて「術式が美しい……」と絶賛し、ファルカシュが「腹が減っては判断力が落ちる。食え」と冷やした果実水とパンを差し入れる。
「悪くないわね……」とクリーム入りのパンをかじりながら、ビアンカは完全にこの『ハイナ工房』の開発チームの一員となっていた。
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裏庭には、本番規模に近い仮設の大型浴槽が設置されていた。
耐熱魔石の加熱板、保温鉱石の壁材、滑り止めタイル、そしてビアンカの『清流ユニット』。
「試験浴槽、本稼働開始!」
私の号令で、巨大な木枠の浴槽にたっぷりの湯が張られ、循環が始まった。
わざと投入された泥や油分、石鹸成分が、ビアンカの沈殿・濾過・吸着システムを通り抜け、最後に水流の拍動に合わせた浄化魔法陣が白く脈打つ。
ぽう。ぽう。ぽう。
流れてきた水は、完全に無色透明な、清らかな湯へと生まれ変わって浴槽へ還っていった。
「湯温、安定。水質、極めて良好」
ゾルターンの報告に、イシュトヴァーンが「これは都市衛生にも応用できる大事業になるな」とソロバンを弾く。
私は湯をすくい、光に透かして匂いを確認した。
「……成功よ。ビアンカ様、あなたがいてくれて本当に助かりました」
「とっ、当然よ! わたくしの術式が実用に耐えることを証明しただけ! あなたのためじゃないわ!」
「ええ、分かっています。こっちも期待してないわ」
私が微笑んで言うと、ビアンカは一瞬だけ悔しそうに目を丸くし、そしてふっと口元を緩めた。
「……そう。それでいいのよ」
私たちは浄化回路を挟んで、互いに顔を見ずに背中合わせで立っていた。
私が湯温と設備を、彼女が水質と浄化を。決して馴れ合うわけではないが、職人として互いの技術を完全に信頼し、同じ『快適なスパ』という未来を支え合っている。
「良い形だな」とファルカシュが静かに呟いた。
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一方その頃、王宮の浴室にはマーチャーシュ王子の怒鳴り声が響いていた。
「熱い! なぜまともな湯も出せない!」
侍従たちが青ざめながら水魔石を調整するが、湯は熱湯と氷水を行ったり来たりするばかりだ。
以前から欠陥だらけだった王宮のインフラは、ハイナがこまめにメンテナンスや指示を出していたからこそギリギリ機能していたのだ。ハイナを失った今、その不便さが一気に表面化していた。
「殿下ぁ……」
浴室の外から、可憐な装いのリラが不満げな声を上げた。
「お部屋の暖炉も調子が悪いですし、昨日の魚料理、パサパサで喉に詰まりそうでしたわ」
「今それを言うな! 侍従が無能なのだ!」
「ハイナ様がいらした時は、こんなことありませんでしたわ」
言った瞬間、空気が凍りついた。
マーチャーシュの顔が屈辱に歪む。「ではお前が直せばいいだろう!」
「なぜわたしが!? わたしは殿下に大切にされるためにここにいるのに!」
誰も直せない。誰も快適にしてくれない。
リラは唇を噛んだ。ハイナから王子を奪えば、名門令嬢に勝った気分で優越感に浸れると思っていた。
だが、手に入れたのはすぐ怒鳴る無能な男と、不快極まりない生活環境だけ。
(こんな貧乏くさい生活……耐えられないわ!)
愛され庇護されることを望むだけの女と、自分の世話すら自分でできない男。二人の関係には、すでに決定的な破綻の亀裂が入り始めていた。
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夜。ハイナ工房の裏庭では、試験浴槽の成功を祝うささやかな夕食会が開かれていた。
魔法フライパンで焼いた魚の香草ソース添えと、冷蔵庫でキンキンに冷やした果実水。
「ビアンカ様」
私はサンドイッチ(三つ目)を頬張る彼女に声をかけた。
「これからも、水質浄化担当としてよろしくお願いしますね」
「勘違いしないでよ。わたくしはあなたの友達になったわけではないわ」
「はい」
「あなたの思想に染まったわけでもないわ」
「ええ」
「でも、水質管理に関してはわたくしが絶対に譲らない。あなたがどれだけ湯温や床にこだわっても、湯が汚ければ全て台無しよ。だから、わたくしが見てあげるわ」
ツンとそっぽを向く彼女に、私は心から笑った。
愛されるだけだった聖女は、自分の足で立ち、技術で貢献する道を見つけた。
恋に狂っていた私も、自分の手で未来を作る快適ライフを手に入れた。
もう、あのポンコツ王子も、体面ばかり気にする実家も、私たちの人生には必要ない。
さあ、究極のスパリゾートの衛生土台は完成した。
次はついに、本物の大浴場の建設よ! 王都の常識を、根本から茹で上げてやるんだから!
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