第1話 覚醒の修羅場
王宮の大広間は、むせ返るような香水の匂いと貴族たちの熱気で満ちていた。
コヴァーチ・ハイナは、扇子を握りしめながら浅く呼吸を繰り返す。
原因は明白だ。容赦なく締め上げられたコルセットに、無駄に重い装飾だらけのドレスのせいである。
立っているだけで体力が削られる拷問器具だが、今のハイナにはもっと腹立たしい問題があった。
「リラ、震えているのか? 可哀想に……。私がついているから安心しろ」
金髪碧眼のマーチャーシュ王子が、小動物のように震える男爵令嬢、ナジ・リラを抱き寄せている。
リラは王子の胸に顔を埋める直前、ハイナに向かって勝ち誇ったように唇の端を吊り上げた。
「殿下……私、怖いです。ハイナ様がずっと睨んで……っ」
「案ずるな。悪いのは嫉妬に狂って君を責め立てる、この女だ!」
王子がハイナを指差す。
ドレスにワインをこぼしただの、招待状を隠しただの、身に覚えのない罪状を次々と並べ立てられた。
要するに、最初からハイナを悪者にすると決めているのだ。
「ハイナ様……私、殿下をお慕いしてしまったこと、申し訳なく思っています……でも、恋する気持ちは止められなくて……っ」
リラが完璧な嘘泣きを披露する。
「見ろ、ハイナ! リラはこれほど苦しんでいる! 私は決めたぞ。お前との婚約は破棄する!」
大広間がわっと沸いた。好奇と嘲笑の視線がハイナに突き刺さる。
普通なら泣き崩れる場面だろう。
だが、ハイナの中で膨れ上がったのは、純粋な怒りだった。
「……ふざけないで」
人の婚約者に抱きついておいて、恋する気持ちは止められない?
「アンタなんか」
視界が怒りで赤く染まる。
「アンタなんか死ねばいい!!」
叫ぶと同時に扇子を振り上げ、一歩踏み出した。
その瞬間。
無駄に豪華なドレスの裾が、見事に足首に絡みついた。
「あ」
間抜けな声と共に、ハイナの体は前方に傾く。
そして大理石の床へ、頭から一直線に突っ込んだ。
ゴッッッ!!
鈍く重い音が響き渡った。
▲▽▲▽▲▽▲▽
痛い。ものすごく痛い。
頭頂部から背骨にかけて雷が落ちたような衝撃が走る。
(……あれ? 私、何してるんだっけ?)
床に這いつくばったまま、ハイナの脳内に凄まじい勢いで記憶が流れ込んできた。
ホームセンターの資材売り場。ドライバーセット。休日に組み立てた棚。
温度調節のできるシャワー。焦げ付かないフライパン。
(……思い出した。私、前世は日本の会社員で、DIYオタクだったわ)
記憶が噛み合った瞬間。
恋に狂っていた令嬢コヴァーチ・ハイナは、完全に目を覚ました。
目覚めて最初の感情は、失恋の悲しみでも婚約破棄の絶望でもない。
この異世界の生活環境に対する、強烈な怒りだった。
(まずこのドレス! 重い、暑い、動きにくい! 構造的欠陥すぎる!)
ドレスへの不満から始まり、怒りは屋敷の設備へと向かう。
(あの欠陥シャワー! 熱湯か氷水の二択ってどういうこと!? 魔法があるのにサーモスタット式混合栓もないの!?)
さらに昨夜のパサパサで焦げた魚料理。
(焦げ付かないフライパンがあれば、あんな悲劇は起きないのに!)
「おい、ハイナ! いつまで床に座っているつもりだ!」
マーチャーシュの声で我に返り、ハイナは立ち上がった。
目の前には美しい王子。
以前なら、彼に見つめられるだけで胸が高鳴っていた。
だが、今は。
(……私、なんでこの男に執着してたんだっけ?)
顔はいい。だがそれだけだ。
(この人、自分で詰まった排水口一つ直せなさそう。釘も打てないし包丁も握れないポンコツじゃない。実体のない権威に乗っかってるだけだわ)
すうっと、胸の奥が冷えていく。
恋慕も執着も、一瞬で完全に消え去った。
ハイナはぐしゃぐしゃのドレスのまま背筋を伸ばし、完璧なカーテシーを披露した。
「マーチャーシュ殿下。私の見苦しい振る舞いにより、ご不快な思いをさせてしまいましたこと、深くお詫び申し上げます」
あまりの変貌に、王子もリラも呆然と固まる。
「婚約破棄の件、謹んでお受けいたします。どうぞお二人で末永くお幸せに。では、失礼いたします」
あっさりと背を向けたハイナに、マーチャーシュが慌てて叫ぶ。
「ま、待て! お前、本当に分かっているのか!? 私との繋がりを失い、社交界で笑われるのだぞ! なぜ縋らない!」
「私、今とても忙しいのです」
ハイナは振り返り、職人のような熱のこもった瞳で告げた。
「帰って、浴室の欠陥シャワーバルブを分解しなければなりませんので」
「……は?」
「熱湯か冷水しか出ない生活など、もう一秒も耐えられません。では殿下、リラ様、ごきげんよう」
意味不明な宣言を残し、ハイナは堂々と歩き出した。
貴族たちが無意識に道を開ける。
もう背後からの王子の叫び声は、ハイナの耳には届いていなかった。
(まずはバルブを分解して、魔石の流量制御からね。この邪魔なドレスも帰ったら即刻燃やそう。作業着を作らなきゃ)
考えることが山ほどある。直すべきものが山ほどある。
それはなんて楽しいことだろう。
こうして、王子を追いかけるだけだった彼女の人生は終わりを告げた。
代わりに始まったのは、己の趣味と快適さのために我が道を突っ走る、痛快すぎるDIYライフだった。
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