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第27話 逃走――世界は助けない、だから“ズラす”

落下。

 また落下。


 でも今回は、井戸の冷たさじゃない。

 祈りの熱と、血の匂い。


 俺たちは石床に転がり、

 息を吐いた。


 暗い。

 狭い。

 壁が湿っている。


 地下通路。

 伯爵邸のさらに下。

 逃走用の抜け道だ。


 セラが立ち上がり、壁を叩いた。


「こっち。

 この通路、昔の“捨て道”」


 捨て道。

 いらないものを捨てる道。

 名前を削られた失敗作を捨てる道。


 吐き気がする。


 リナが膝をつき、首筋を押さえる。

 烙印はまだ熱い。

 さっきより落ち着いたが、消えていない。


「……私、いつか名乗っちゃう」


 リナの声は、震えていた。

 強いのに、限界が見える声。


 俺は掌を握る。

 痛みが遠い。

 その遠さが怖い。


 アークが胸の奥で言う。


 ――烙印は“言葉の罠”だ。

 ――言葉を奪うか、言葉をズラせ。


 ズラす。

 俺がやってきたこと。

 奉納で、世界の反応をズラす。

 忘却で、相手の目的をズラす。


 セラが俺を見る。


「健太。

 さっき“支配”を世界へ奉納した。

 だから今、教主の処置は一瞬ズレた」


 俺は息を呑む。


「……でも追ってくる」


 セラは頷く。


「追ってくる。

 しかも次は“器の健太”が先に来る」


 器の健太。

 あいつは俺に触れて、死の映像を流し込んだ。

 俺が捨てた死を“持っている”。


 つまりあいつが、

 俺の空白の鍵だ。


 リナが唇を噛み、言った。


「……教会も背教も同じ」


 セラが答える。


「同じじゃない。

 もっと悪い」


 セラは振り返らず言った。


「背教はウルボロスへ捧げる。

 教会は“捧げやすい形”に整える」


 整える。

 処置。

 名簿。

 首輪。


 俺の頭に、偽記憶がまた差し込もうとする。

 駅前。

 刃。

 俺の叫び。


 俺は歯を食いしばり、心で名を打った。


(堀口健太)


 すると映像が一瞬ぼやける。

 完全には消えない。

 だから怖い。


 セラが小さく言った。


「健太。

 空白は埋まらない方がいい」


「……でも苦しい」


「苦しい方が生きてる。

 埋まったら、誰かの都合になる」


 現実的すぎて、救いがない。

 でも正しい。


 通路の先に鉄扉が見えた。

 古い。錆びている。

 扉の向こうから、外気の匂いがする。


 森。

 湿った土。


 セラが鉄扉に手を置いた瞬間――

 背後で、乾いた拍手が聞こえた。


 パン。

 パン。


 リナが反射で剣を構える。

 俺も木剣を握る。


 影の奥に、黒い傘が見えた。


 器の健太。


 彼は静かに言う。


「逃げ道、知ってたんだね」


 声が落ち着いている。

 怖いほど落ち着いている。


 器の健太の首の銀鎖が、

 淡く光って見えた。


 俺の銀鎖が反応する。

 同じ結び目。

 同じ鎖。

 つまり“互いに引ける”。


 器の健太が俺を見て言った。


「君の死、返そうか」


 その言葉が甘く響く。

 空白は人を飢えさせる。

 飢えは判断を鈍らせる。


 セラが叫ぶ。


「聞くな!」


 俺は息を吸い、

 あえて短く言った。


「……いらない」


 器の健太の表情が一瞬だけ揺れた。

 怒りじゃない。

 寂しさみたいな揺れ。


「……じゃあ僕は、何?」


 その問いが、胸を刺す。

 器だ。

 でも器にも痛みがある。


 アークが冷たく言う。


 ――同情するな。

 ――同情は結び目になる。


 結び目。

 新しい鎖。


 リナが踏み込み、器の健太へ斬りかかる。

 だが烙印が燃えて、動きが僅かに鈍る。


 器の健太が囁く。


「名乗って」


 その一言でリナの喉が震える。

 言葉が上がってくる。


 俺は咄嗟に叫んだ。


「……忘却!」


 銀鎖が冷え、

 器の健太の目が一拍曇る。


 同時に、リナの喉の震えが一瞬止まった。

 完全には止まらない。

 でも“一瞬”は作れた。


 セラが鉄扉を開ける。

 冷たい外気が流れ込む。


「今!!」


 三人が飛び出す。

 森の夜。

 月。

 草の匂い。


 背後で器の健太の声が追う。


「逃げても同じだよ。

 八年で終わる」


 八年。

 教主の手帳の期限。

 この世界に書かれた予定。


 俺は走りながら、

 喉の奥で焼ける息を吐き、

 心の中で名を握りしめた。


(堀口健太)


 その時、セラが小さく言った。


「……健太。

 次はあなたの“代償”が足りなくなる」


 俺は息を呑む。


「もう捨てるものがない?」


 セラは首を振る。


「捨てるものはある。

 でも捨てたら、あなたが壊れる」


 リナが苦しそうに言う。


「……じゃあ、どうするの」


 セラが答えた。


「捨てない。

 代わりに“奪う”」


 奪う。

 誰から?


 セラが森の闇を見て囁いた。


「教主から。

 そして“器の健太”から」


 その言葉の直後、

 遠くで鐘が鳴った。


 カン。


 教会でも背教でもない。

 世界の音。


 免疫の声が、どこからともなく響く。


「観測:逃走開始」


 逃走開始。

 つまり――

 ここからが本番だ。

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