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第1話 死んで異世界へ

 堀口健太は、平凡な人生を望んでいた。

 朝、駅へ向かい、仕事をして、帰る。

 誰にも恨まれず、誰も恨まず、静かに終わる。


 なのに。


 ときどき胸の奥で、説明できない疼きが鳴る。

 初めて来たはずの場所が懐かしい。

 知らないはずの言葉が、喉の手前まで上がる。


「……なんだ、今の」


 電車の窓に映った自分の顔が、

 一瞬だけ別人に見えた気がした。

 金色の目――そんな馬鹿な、と笑い飛ばす。


 疲れているんだろう。

 そうやって、何度も誤魔化してきた。


 その日も、同じだった。

 改札を抜け、コンビニ袋をぶら下げて、

 人混みの中を歩く。


 夕方の風は冷たかった。

 なのに、背中だけが妙に熱い。


 視線。


 誰かに見られている。

 振り返っても、雑踏しかない。

 駅前の喧騒が、やけに遠く聞こえた。


 胸が、嫌な予感で縮む。


「……おい」


 声が出た時には遅かった。


 人の波の隙間から、男が飛び出した。

 顔は見えない。

 表情も、目的も、意味もない。


 ただ、刃物だけが光った。


 ――ズブッ。


 鈍い衝撃。

 熱いものが腹の奥に突き立てられる感覚。

 時間が、粘ついて伸びる。


「……は?」


 声が自分のものに聞こえなかった。

 周囲が一瞬、凍ったみたいに静かになる。


 次の瞬間、悲鳴が爆発した。


「きゃあああああ!」

「誰か! 誰か呼んで!」

「救急車!」


 健太は膝をつき、アスファルトに手をついた。

 掌が濡れる。

 赤い。


 自分の血だ、と理解するより先に、

 頭の中で妙な映像が弾けた。


 黒い輪。

 尾を噛む円。

 そして、囁き。


 ――帰れ。


 誰の声だ。

 何のことだ。


 視界の端が暗く落ちていく。

 耳鳴りが、鐘の音に変わった。


 カン、カン、と。


 教会の鐘?

 ここは日本だ。

 なのに、なぜ――。


 健太は倒れながら、

 最後に、空を見上げた。


 曇天の裂け目が、一本だけ走っていた。

 雲の割れ目ではない。

 “空そのもの”が、薄く割れて見えた。


(……裂け目?)


 そんな言葉を知っているはずがない。

 なのに、知っていた。


 知っている。

 この感覚を――ずっと昔にも。


 唇が勝手に動いた。

 名前を呼ぶみたいに。


「……ア」


 そこで、音が途切れた。


 世界が、暗転する。


 *


 次に目を開けた時、

 健太は柔らかい布の上にいた。


 天井が高い。

 白い壁。

 鼻をくすぐる薬草の匂い。


 そして――身体が軽すぎた。


 手を上げる。

 細く、白く、子どもの手。


「……え?」


 声が高い。

 喉が小さい。


 混乱する健太の耳に、

 扉が開く音が響いた。


「ブレード様っ……!」


 泣きそうな声。

 駆け寄ってきた女が、両手で健太の肩を掴む。


「よかった……目を覚まされた……!」


 女の瞳の奥に、安堵と恐怖が混じっていた。


「……俺、は……」


 健太が言い終える前に、

 女は、まるで確認するように名を呼んだ。


「ブレード・ファン・エイル様」


 聞き覚えのないはずの名前。

 なのに、その音が心臓の奥を強く叩いた。


 鏡が視界に入る。

 健太は反射的に、そこへ目を向けた。


 金色の瞳の少年が映っている。

 自分のはずのない顔。

 けれど――その瞳の中心に、

 薄い黒い輪が浮かんでいた。


 夢の中の“輪”と同じだ。


 その瞬間、背筋が冷たくなる。


 外から、低い鐘の音が鳴った。


 カン、カン。


 今度ははっきりと、

 ここが“教会のある世界”だと分かった。


 女が小さく震えながら言った。


「……司祭様が来られます。

 聖痕の確認を……」


 聖痕。


 その言葉を聞いた瞬間、

 健太の胸の奥で、何かが“目を覚ました”。


 まるで、ずっと待っていたみたいに。


 そして耳元で、

 誰かが笑う気配がした。


 ――帰ってきた。


 健太は息を呑んだ。


 自分が死んだことよりも。

 自分が“ここへ戻された”ことの方が、

 ずっと怖かった。

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