フェルセンとの邂逅と影
初夏のヴェルサイユ宮殿は、どこかむせ返るような白百合と香水の匂いに満ちていた。
広大な庭園を見下ろす王太子宮の一室で、ルイは山のように積み上げられた財政文書から顔を上げ、深く息をついた。前世の記憶という最強の武器を手に入れたとはいえ、1770年代初頭のフランス王国が抱える構造的な赤字の山は、一朝一夕で崩せるほど甘くはない。
(テュルゴーの登用を進めつつ、宮廷内の無駄な経費を削る……。だが、それだけでは足りない。外交のカードも握っておかねば、のちの英仏の抗争やアメリカ独立戦争の波に呑まれる)
そう考えていた時、扉が控えめにノックされた。
「お入りなさい」
静かに開いた扉の向こうから姿を現したのは、近衛隊長ではなく、凛とした佇まいを見せる一人の若者だった。銀色の美しい長髪を後ろでまとめ、紺色の端正な仕立てのコートを纏ったその男は、まだ二十代前半でありながら、どこか研ぎ澄された刃のような気配をまとっている。
アクセル・フォン・フェルセン伯爵。
スウェーデンからやってきた、名門貴族の青年だった。
「――お初にお目にかかります、ルイ皇太子殿下。スウェーデンより参りました、アクセル・フォン・フェルセンと申します」
低く落ち着いた声が、広大な部屋に響く。
ルイは目の前の男をじっと見据えた。歴史の教科書や、前世の記憶にある彼の姿が脳裏をよぎる。史実において、このフェルセンはのちにヴェルサイユを訪れ、マリー・アントワネットと運命的な恋に落ちる人物だ。王妃の生涯の伴侶となり、フランス革命の際には命がけの「ヴァレンヌ逃亡事件」を主導する、あの気高くも悲劇的な騎士。
(――ふむ。史実の通りであれば、我が妻となるマリーの心を奪い、私を「寝取られる不遇の夫」にする男、か)
だが、今のルイの心に、古臭い嫉妬や焦燥の色は微塵もなかった。
むしろ、ルイの脳裏をよぎったのは「使えるものは使え、優秀な人材は泥を被ってでも引き抜け」という、現実主義的な思考だった。北欧の厳しい気候と王立士官学校で鍛え上げられたフェルセンは、単なる貴族の御曹司ではない。極めて冷静な大局観と、剣の腕、そして何よりも鉄の忠誠心を持った一級の「外交・実務の人材」である。
「ようこそヴェルサイユへ、フェルセン伯爵。君の噂は予てより耳にしている。北欧の猛者が、よくぞ我がフランスへ来てくれた」
ルイは微笑みながら立ち上がり、机の周りを回ってフェルセンへと歩み寄った。
その予想外に気さくで、しかし威厳のある出迎えに、フェルセンはわずかに目を丸くした。もっとこう、フランスの宮廷人特有のうわべだけの世辞や、退廃的な貴族の遊戯に満ちた歓迎を予想していたのだろう。目の前の皇太子は、どこか鋭い光を宿した目で自分を観察している。
「恐れ入ります、殿下。これほど温かく迎えられるとは思いませんでした」
「固い挨拶は抜きにしよう、フェルセン。君がただの社交界の遊び人ではないことは、私もよく知っている。……どうだ、少し庭園を歩きながら、最近の北欧事情について聞かせてくれないか?」
宮廷のしきたりを無視した突然の散歩の提案に、側近たちはどよめいたが、フェルセンは悪くないといった面持ちで片眉を上げた。
「光栄です、殿下。喜んで」
ヴェルサイユの広大な幾何学庭園の緑の中を、二人の青年が並んで歩く。噴水の水しぶきが初夏の太陽に照らされてきらめいていた。
周囲から少し離れた小道を選び、ルイは遠くのトピアリーを見つめながら、唐突に本題を切り出した。
「フェルセン。率直に聞こう。君は、スウェーデン王室と我がフランスの現在の同盟関係を、どう見ている?」
その言葉に、フェルセンの歩みがわずかに止まった。彼はルイの横顔を鋭く観察する。目の前にいるのは、まだ15歳の少年の体をした皇太子だ。だが、その問いの鋭さは、百戦錬磨の外交官のそれと変わらなかった。
「……お答えします、殿下。率直に申し上げて、フランスの旧態依然とした外交姿勢は、イギリスの海洋覇権の前にじわじわと蝕まれています。我がスウェーデンにとっても、フランスの国力低下は死活問題ですが、現在のヴェルサイユには、奢侈に溺れ、未来を見据える者が少なすぎる」
批判とも取れる歯に衣着せぬ物言いだった。だが、ルイはそれを聞いて不敵に笑った。
「まったく同感だ。我が国は今、内部から腐りかけている。だからこそ、私はそれを変えるつもりだ。だが、改革には国内の古い勢力と戦うための『外の目』と、そして何より信頼できる『盾』が必要になる」
フェルセンは息を呑んだ。
「……それは、私をどうしろと?」
ルイは足を止め、フェルセンと真正面から向き合った。その瞳には、冗談の色など一切なく、冷徹なまでの決意と、絶対的な信頼を置く者の光があった。
「フェルセン伯爵。私の側近にならないか? 単なる宮廷の友でも、形だけの客人でもない。我が直属の特命外交官、そして――王家を、そして私の妻を守る影の近衛隊長としてだ」
衝撃的な提案だった。外国から来たばかりの若造を、それも王太子の側近に据えるなど、宮廷の保守派からすれば正気の沙汰ではない。
だが、フェルセンの胸の内で、激しい衝撃と共鳴が渦巻いていた。彼はヨーロッパ中を巡り、数々の王侯貴族を見てきたが、これほどまでに明確なビジョンを持ち、自らの足で未来を切り開こうとする皇太子に出会ったことがなかった。
「……私が、殿下の『影』になることを求めると?」
「そうだ。君の優秀な頭脳と、剣の腕を、私に貸してほしい。もちろん、待遇は惜しまない。そして、何より――」
ルイは少しだけ声を潜め、フェルセンの肩に軽く手を置いた。
「君がこれから出会うであろう、我が妻・マリーとの関係についてもだ。私はね、フェルセン。嫉妬深い夫になるつもりはない。彼女が孤独なこの宮廷で、心を開ける真の友を得てくれるなら、それは私にとってもこの上ない喜びだ。ただし、その友情が、私の築く新しいフランスへの強固な絆になってくれるなら、だがね」
その言葉の意味を理解した瞬間、フェルセンは全身の血が逆流するような感覚を覚えた。
王太子の器の大きさ。そして、自分の内面や、これから起こりうる人間関係の機微のすべてを見透かされているような底知れなさ。この少年は、ただの「お飾り」ではない。この国を、いや、ヨーロッパの勢力図そのものを塗り替える化け物かもしれない。
フェルセンは深く息を吸い込むと、右膝を地面につき、自身の剣の柄に右手を添えて頭を垂れた。
「――我が忠誠を、ルイ殿下に。この命、フランスの未来と、王妃殿下を守るための盾として捧げましょう」
その声には、微塵の迷いもなかった。
史実では悲劇的な三角関係の引き金となった二人の男が、こうして時空を超えた歴史の改変により、最強の「主従兼戦友」として結びついた瞬間だった。
宮殿に戻ると、夕暮れの茜色がヴェルサイユの黄金の窓ガラスを赤く染め上げていた。
自室に戻ったルイを待ち受けていたのは、心配そうな顔をしたマリーだった。彼女は今日、初めての本格的な宮廷の社交を経験し、少し疲れた様子でソファに座っていた。
「あなた……おかえりなさい。なんだか、今日はとても長いお散歩だったのですね」
マリーの言葉には、どこか甘えるような響きがあった。前世のギロチンの冷たさを知るルイにとって、この日常がいかに尊いものであるか、言葉では言い表せないほどだった。
ルイは優しく微笑みながらマリーの隣に歩み寄り、その髪をそっと撫でた。
「ああ、少し大事な『同志』を一人、迎え入れてきたところだ。これで、私たちの布陣はさらに強固になったよ」
「どうし……?」
首をかしげるマリーの愛らしい姿を見ながら、ルイは心の中で静かに頷いた。
テュルゴーによる内政改革の始動、じゃがいもの普及計画、そして今、フェルセンを組み込んだ外交・諜報網の構築。
史実のフランス革命が引き起こされるのは、1789年。
だが、あの破滅へのカウントダウンは、もう二度と鳴り響かない。ルイ16世の第二次人生は、着実に、しかし圧倒的なスピードで歴史の歯車を狂わせ始めていた。




