断頭台の先の開眼
冷たい刃が首筋を通り過ぎた瞬間の、熱いような、そして凍てつくような感覚。息が詰まり、暗闇に引きずり込まれる恐怖。――だが、次にルイの意識を叩いたのは、咽せ返るようなインクと古い羊皮紙の匂い、そして窓から差し込む眩い初夏の陽光だった。
「殿下? どうかなさいましたか?」
澄んだ、あどけなさを残す少女の声が降ってきた。
弾かれたように上体を起こしたルイの視界に飛び込んできたのは、豪奢な天蓋ベッドの柱と、見慣れない金糸の刺繍が施されたシーツ、そして――信じられないほど鮮やかなアッシュブロンドの髪を持つ、青い瞳の少女だった。
(……マリー……?)
オーストリアから嫁いできたばかりの、まだ14歳の皇太子妃マリー・アントワネット。
いや、違う。彼女の顔には、かつてヴェルサイユの宮廷で孤立し、処刑台へ向かう馬車の中でやつれ果てていた面影はない。あどけなさを残した、無垢で、しかしどこか不安げな少女の顔がそこにあった。
ルイは自分の両手を見た。かつて労働と苦悩に荒れ、ギロチンの冷たさを知っていたその手は、ふっくらとして滑らかな、まだ年若い少年のそれに戻っていた。
頭の中に、強烈な記憶が奔流となって流れ込む。
――1770年5月16日。皇太子ルイ・オーギュストと、オーストリア大公女マリー・アントワネットの婚姻の儀、そしてその夜。
(私は……死んでいなかったのか。いや、死んだ。処刑されたんだ。だが……戻ったのか? 1770年の、この夜に……!)
史実のルイは、この夜、あまりの気恥ずかしさと知識の不足から、初夜のベッドでまともにマリーに声をかけることもできず、ただ背中を向けて眠りについた。そのすれ違いが、二人のその後の冷え切った関係の始まりであり、さらには王妃の孤独、そして破滅への第一歩となったのだ。
(馬鹿な……。あんな恐ろしい最期を、数千万の民を巻き込んだ地獄を、もう一度繰り返すだと? 冗談じゃない……!)
背筋に冷たいものが走るのと同時に、強烈な使命感がルイの胸を突き動かした。
もう「ポンコツの錠前オタク」などと呼ばせない。免罪符のようにただ運命に流されるだけの王太子ではない。彼は二度目の人生を手に入れたのだ。この国を、そして目の前の少女を救うために。
「殿下……?」
不安そうに眉をひそめ、ベッドの端で身を縮こまらせているマリーの姿が目に入った。
彼女もまた、遠く離れた母国を離れ、見知らぬ巨大なヴェルサイユの宮廷に放り出されて怯えているのだ。孤独なのは自分だけではない。彼女こそが、最も心細い夜を過ごしている。
ルイはハッと息を整え、ゆっくりと体を起こすと、ベッドのシーツを正してマリーの方へと向き直った。
前世の記憶にある、不器用で気まずい沈黙はもう要らない。
「すまない、マリー。少し……悪夢を見ていたようだ」
ルイの口から漏れた声は、少年の名残をとどめながらも、不思議なほど落ち着いていた。
マリーはびくりと肩を震わせ、おそおそしい様子でルイを見上げる。
「悪夢……ですか?」
「ああ。だが、目が覚めてよかった。君がこうして、私の目の前にいてくれる」
ルイは微笑んだ。それは、かつての宮廷生活で見せたことのない、心からの、そして温かな微笑みだった。
彼はベッドの上で少しだけ体を寄せると、震えているマリーの小さな手を、そっと自分の両手で包み込んだ。
マリーの青い瞳が驚愕に見開かれる。オーストリアの宮廷でも、ヴェルサイユの冷たい儀礼の中でも、これほどまでに真っ直ぐに、温かく自分に触れてきた人間はいなかった。ルイの手に宿る熱が、彼女の冷えかけた指先から伝わっていく。
「殿下、わたくし……」
「アントワネット」
ルイは彼女の名を、初めて愛おしさを込めて呼んだ。
「君は遠いウィーンから、この見知らぬフランスへ来てくれた。どれほど心細かったことか。私こそ、夫でありながら、今日まで君の不安に気づいてやれなかった。許してほしい」
「……っ」
マリーの瞳から、大粒の涙がぽろりとこぼれ落ちた。
気丈に振る舞ってはいたものの、彼女の心もまた限界だったのだ。言葉の通じない宮廷、冷たい視線、そして何より、自分をどう扱っていいのか分からない夫。その全てに対する緊張の糸が、ルイの優しい言葉によって一気にプツリと切れた。
彼女は堪えきれなくなったように、ルイの胸元に顔をうずめた。
小さな体が細かく震え、やがて嗚咽へと変わる。ルイはためらうことなくその背中に腕を回し、優しく、壊れ物を扱うように抱きしめた。
「泣いてもいい。ここは君の家だ。そして、私はいつだって君の味方だ、マリー」
背中を優しくさすりながら、ルイは心の中で強く誓う。
前世では守れなかった。彼女の贅沢三昧も、孤立も、そしてルイ自身の無力さも、すべてがあの断頭台へ繋がっていた。だが、今夜から歴史は変わる。この少女の手を二度と離さない。彼女に孤独な思いをさせず、共にこの巨大な王国の荒波を乗り越えてみせる。
しばらくの間、寝室にはマリーの静かな泣き声と、窓の外を渡る初夏の夜風の音だけが響いていた。
やがて、泣き疲れたのか、マリーの呼吸が穏やかになっていく。彼女はルイの胸に顔を預けたまま、安心しきったように微かにまぶたを閉じ、そのまま眠りについていた。
ルイは眠った妻の柔らかな髪をそっと撫でながら、静かに天井を見上げた。
(さて……時間はたっぷりある。テュルゴーを登用し、財政の膿を出し、あの忌々しい飢饉の芽を摘み取る。そして、農民たちにじゃがいもを植えさせなければな……)
前世の知識と、この人生のすべてを賭けた「国家改革」の幕が、今、静かに上がったのだった。




