ロベスピエールとの対話
初夏の爽やかな風がヴェルサイユ宮殿の白亜の外壁をなでる頃、国王執務室の重厚な扉の向こうで、ルイ16世は静かに一人の青年を待ち構えていた。
前世の歴史において、フランス革命の狂気の中ですべてを恐怖政治の血に染め上げ、「インコウ」の異名とともに恐怖の独裁者として君臨することになる男――マクシミリアン・ロベスピエール。その若き日の姿が、今まさに目の前に現れようとしていた。
地方都市アラスから三部会の代表としてパリ、そしてヴェルサイユへと赴いてきた彼は、まだかつての冷酷な処刑人としての面影はなく、ただ純粋に民衆の苦境を救いたいという正義感と、旧体制に対する燃えるような情熱を胸に秘めた、一人の青臭い地方弁護士にすぎなかった。
「お入りなさい」
ルイの静かな声に促されて開いた扉から、緊張の色を隠せない面持ちで入ってきたロベスピエールは、目の前に座る絶対君主の姿を見ると、深く、しかしどこか誇り高さを失わない仕草で一礼した。
「アラス選出の代議員、マクシミリアン・ロベスピエールにございます。陛下におかれましては……」
「堅苦しい挨拶は不要だ、ロベスピエール君」
ルイは冷徹でありながらもどこか底知れない深みを持った瞳で、目の前の小柄な青年の全身をじっと観察した。
「君が地方からパリへ出てきて以来、その熱弁と、貧しき民衆の権利を訴える公正な姿勢について、私の耳にも多くの報告が入っているよ。座りなさい」
ロベスピエールはわずかに驚いたような顔をした。絶対王政の頂点に立つ国王が、自分のような田舎の無名な弁護士の名前を知り、さらにその思想の中身まで把握しているとは微塵も思っていなかったからだ。
「……恐れ入ります。私が訴えているのは、長年虐げられてきた平民層、すなわち第3身分の人々が人間らしい生活を送る権利と、貴族や教会ばかりが優遇されるこの不条理な税制の改革にすぎません」
ロベスピエールはソファに腰掛けると、徐々にその瞳に強い光を宿し、自らの正義感を言葉に変えて熱く語り始めた。
「陛下、現在のフランスはあまりにも歪んでおります。地方の農村では税の重さに耐えかねて飢えに苦しむ民が溢れ、パリの街頭では仕事にあぶれた者たちがパンを求めてさまよっている。王室や特権階級がその豪華な宮殿で宴に興じている間にも、国家の礎である民衆が倒れていっているのです。このままでは、この国はいずれ根本から崩壊します」
その言葉には、一切の私欲や権力欲がなく、ただ純粋に「社会を良くしたい」「民を救いたい」という剥き出しの理想主義だけが満ちていた。
史実の記憶を持つルイにとって、この男の持つその純粋さこそが、のちに制御不能な革命の炎を燃え上がらせ、数千人もの人々の首を断頭台に送る原動力となったことを深く理解していた。純粋であるがゆえに妥協を知らず、理想のためには手段を選ばない危険な狂気――しかし、それは同時に、古い体制を根本から打破するための圧倒的なエネルギーでもあった。
「君の言う通りだ、ロベスピエール君」
ルイは静かに頷き、手元のティーカップを置いた。その落ち着き払った声に、ロベスピエールは思わず言葉を呑んだ。
「我が国が抱える構造的な矛盾、過酷な重税、そして特権階級の特権に胡座をかいた怠慢――それらが国家を蝕んでいることは、誰よりも私自身が深く認識している」
「……陛下が、それを認めるというのですか?」ロベスピエールは信じられないといった表情で目を見開いた。
「驚くのも無理はない。一般の貴族や宮廷の者たちは、自分たちの既得権益が失われることを恐れて現状維持にしがみつくだけだ。だが、私は違う」
ルイは立ち上がり、執務室の窓から広大なヴェルサイユの庭園を見下ろしながら、冷徹で力強い口調で続けた。
「私が目指しているのは、古い王政の維持ではない。法の下の平等であり、すべての国民が豊かさを分かち合える新しい国家システムの構築だ。ネッケルを通じた金融改革も、中立貿易による経済の立て直しも、すべてはそのための布石に過ぎない」
ロベスピエールは、目の前の若い国王の背中から発せられる圧倒的な存在感と、自らが思い描いていた「腐敗した絶対君主」像とはあまりにもかけ離れた現実の前に、完全に言葉を失っていた。彼が想像していた王は、民の苦しみを知らぬ愚鈍な権力者であったはずなのに、この男は誰よりも鮮明に、そして誰よりもラディカルに「国家の変革」を見据えていたからだ。
「君は、民を救うために法律を変えたいと言ったね」ルイは振り返り、ロベスピエールをまっすぐに見据えた。
「ならば、こう問おう。暴力と流血によって既存の秩序をすべて破壊し、その瓦礫の上にごく一部の正義だけを押し付けること――それが本当に、君の望む『民の救済』なのかね?」
その問いは、ロベスピエールの心の最も深い核心を鋭く突き刺した。
彼はわずかにたじろぎ、苦悩に満ちた表情でうつむいた。
「……私とて、血を流したいわけではありません。しかし、あの強大な特権階級の壁を打ち破るには、言葉や穏健な改革だけではあまりにも無力だという恐怖があるのです。民が踏みにじられる絶望を見続けるうちに、私の中では……激しい怒りしか残らなくなっているのも事実です」
「その怒りは正しい。だが、怒りだけでは国家を築くことはできない。築けるのは破壊だけだ」
ルイはロベスピエールの対面の席にゆっくりと戻り、その少年のように揺れる瞳をしっかりと捉えた。
「ロベスピエール君。君のその鋭い知性と、民を想う純粋な情熱を、破壊のためではなく、我が国を新しい法治国家へと導くための『建設の力』として使ってみないか?」
「……建設の力、ですか?」
「そうだ。三部会において、君は平民の代表として声を大にして発言するといい。旧体制の不条理を告発し、税制の不平等や人権の確立を法制化するための議論を主導しなさい。私は、君の背後から最大の権限と法的バックアップを与えよう。暴動や革命という名の無秩序な血の海を経ずとも、王室と国民が一体となって国家を根本から作り替える――その中枢に君を置く」
ロベスピエールは身体が震えるのを覚えた。目の前の国王は、自分を「敵」として抑え込むのではなく、自らの改革の最も尖った刃として、公の政治舞台へと引き上げようとしている。それは、彼が心の中で夢見ながらも、絶対に実現不可能だと思っていた理想郷への最短の道そのものだった。
「……私が、王室の庇護の下で、真の法による平等の社会を創る……」
ロベスピエールはゆっくりと顔を上げ、その瞳にかつての狂気ではなく、確かな知性と光を宿してルイを見据えた。
「陛下、あなたのその覚悟が本物であるならば……このマクシミリアン・ロベスピエール、私のすべての知性と弁舌を、古い悪習を根絶やしにし、すべての民が救われる法秩序を築くために捧げましょう」
「期待しているぞ、ロベスピエール君」
ルイは微かに笑い、若い革命の闘士としっかりと握手を交わした。
歴史の洪水中において、最も危険な牙を剥くはずだった青年弁護士は、こうしてルイ16世の冷徹かつ包容力のある戦略によって完全に包摂され、王室を打倒する敵ではなく、国家を近代化へと導く最強の法制改革の尖兵へと生まれ変わったのだった。
ヴェルサイユの宮殿に吹き抜ける風は、もはや古い体制の終わりを告げる冷たいものではなく、新しい秩序と繁栄に向かって力強くうねる、確かな時代の潮流へと変わっていた。執務室の窓辺で遠くを見つめるルイの横顔には、未来の歴史を完全に自らの手で書き換えたという、揺るぎない自信と静かな微笑みが浮かんでいた。




