密偵ミラボオーとの出会い
秋の深まりとともに、ヴェルサイユ宮殿の広大な庭園の木々は鮮やかな赤や黄色に染まり、パリの街並みには冬の足音が近づいていた。しかし、王宮の奥深くにある国王執務室の中だけは、冷徹な緊張感と次なる布石に向けた静かな熱気に包まれていた。
前世の記憶を持つルイ16世にとって、フランス王国の未来を盤石なものにするためには、国家の財政再建や中立貿易による富の蓄積だけでは不十分であった。どれほど経済が潤い、どれほど優れた土地台帳や金融システムを築き上げようとも、宮廷の足元を揺るがす貴族たちの隠された陰謀や、ヨーロッパ列強が送り込んでくるスパイ網の動きをいち早く察知できなければ、いつか致命的な足元をすくわれることになるとルイは痛感していた。
「陛下、本日のパリ発の密偵報告にございます」
特命外交官として、そして王の最も信頼する側近として常に動き回っているアクセル・フォン・フェルセンが、一枚の暗号化された報告書を恭しく机の上に置いた。
ルイはペンを置き、その書類に目を通しながら低く呟いた。
「……ほう。オルレアン公の一派が、またぞろ宮廷に対する不穏な噂をサロンで流し始めているか。しかも、イギリス大使館を通じて何やらきな臭い資金が動いているらしいな」
「はい。旧来の特権にしがみつく貴族や、王家の失脚を狙う者たちの動きが活発化しております。彼らは表向きは忠誠を誓いながら、裏では我が国の経済改革やネッケル長官の金融政策を潰そうと、あらゆるスパイや悪質なデマを使って妨害工作を企てている模様です」
フェルセンの言葉に、ルイは静かにうなずいた。
宮廷の表舞台でどれほど華やかな改革を成し遂げようとも、水面下では常に権力争いや他国の諜報活動が渦巻いている。古い体制を守りたい守旧派の貴族たち、そしてフランスの経済的躍進を警戒するロンドンやウィーンの諜報員たち。彼らの毒牙を事前に折り、すべての陰謀を先手で叩き潰すためには、宮廷の機密を守り、敵の懐深くに入り込んで情報を引き出せる「桁外れの才気を持った裏の顔」が必要不可欠だった。
「……そろそろ、表の警察組織や伝統的な護衛だけでは限界だな」
ルイは窓の外の黄昏時の空を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「一筋縄ではいかない強者でありながら、既存の権威や古い慣習に縛られず、己の野心と知性のために動く男……そんな危険な才能を持った密偵の頭目がどうしても必要だ」
「そのような人物が、果たして都合よく見つかるでしょうか?」フェルセンはわずかに眉をひそめた。
「今のパリやヴェルサイユで、王室のために命を賭けて裏の仕事を請け負うような者は、少なくとも忠実な貴族の中にはおりません」
「いや、いるとも」ルイは冷徹に、しかし確信に満ちた笑みを浮かべた。
「むしろ、貴族階級でありながらその腐敗しきった伝統を誰よりも激しく憎み、圧倒的な弁舌と野心を持ちながらも、まだ居場所を見出せずに燻っている男が一人だけいる」
「それは……誰にございますか?」
「オノレ・ガブリエル・リケティ、のちのミラボオー伯爵だ」
その名前を聞いた瞬間、フェルセンの端正な顔にわずかな驚きの色が走った。
「ミラボオー……! あの放蕩息子として知られ、父との確執から各地の牢獄をたらい回しにされ、借金まみれでスキャンダルの絶えない、あの問題児ですか?」
「そうだ。世間では単なる『手に負えない厄介者』として扱われているが、あれほどの知性と人間観察眼、そして群衆を狂わせるほどの圧倒的な言葉の魔力を持った男は他にいない。史実では、彼はのちに革命の闘士として王室の前に立ち塞がり、その強烈な弁舌で旧体制を破壊する中心人物となった……。だが、その牙がまだどちらを向くべきか定まっていない今、彼を我が陣営に引き込むことができれば、これ以上の最強のカードはない」
ルイの眼には、未来の歴史を書き換える冷徹な計算が宿っていた。
「フェルセン、すぐに彼を極秘裏にこの宮殿の奥へ連れてこい。誰にも知られてはならない」
数日後の真夜中、ヴェルサイユ宮殿の最も人目につかない裏口から、一人の男が近衛兵に連れられて国王執務室へと通された。
無精髭を生やし、決して洗練されているとは言えない無骨な身なりでありながら、その目つきだけは野獣のように鋭く、周囲を威圧するような異様なオーラを放つ男――オノレ・ミラボオーその人だった。
彼は手錠こそ外されていたものの、突然国王の密室に呼び出されたという状況にもかかわらず、全く怯える様子を見せず、むしろ不敵な笑みを浮かべながら部屋の中を見回していた。
「これがフランス国王陛下の執務室ですか。噂に違わず豪華なことだ。だが、私のような借金まみれの厄介者を真夜中に呼び出すとは、陛下もよほど物好きなご趣味をお持ちのようですね」
ミラボオーは礼儀作法など無視するかのようにソファに腰掛け、ふてぶてしく足を組んだ。護衛の兵士たちが一斉に剣の柄に手をかけたが、ルイは静かに手を挙げてそれを制した。
「下がりなさい。私たち二人だけで話をする」
ルイは執務机の椅子から立ち上がり、ミラボオーの対面の席にゆっくりと歩み寄って、その鋭い眼光を真正面から受け止めた。
「態度が大きいのう、ミラボオー伯爵。君のその素行の悪さと借金のせいで、実の父親からも見放され、牢獄を渡り歩いているという噂は私の耳にも届いているぞ」
ミラボオーの顔から、わずかに嘲笑が消えた。彼が最もコンプレックスを感じ、同時に最も怒りを抱えていた父親や社会の権威について、目の前の若き王が臆することなく真っ直ぐに突いてきたからだ。
「……で、その落ちぶれた問題児をここに呼んだのは、説教をするためですか? それとも、私の首をさっそく処刑台に送るための前段階か?」
「処刑などしない。むしろ、君のその有り余る才能と、既存の秩序に対する激しい反逆心こそ、今の私が必要としているものだからだ」
「……私に、才能だと?」ミラボオーは鼻で笑った。「世間の連中は私をただの破滅型の放蕩者、危険な異端児と呼ぶだけだ。あなたのような絶対王政の頂点に立つ王が、私のような男に何の用がある」
「世間がどう呼ぼうと関係ない」ルイは冷徹に言い放った。「君がどれほど鋭い洞察力を持ち、パリの闇社会や貴族たちのサロンの裏事情を誰よりも深く理解しているか、私は知っている。君は、この腐り切った貴族社会の裏側を誰よりも軽蔑し、同時にその構造を熟知しているはずだ」
ルイは机の上から一枚の極秘書類を取り出し、ミラボオーの前にスライドさせた。そこには、最近パリで暗躍している反16世派の貴族たちの隠れ家と、外国スパイの接触リストが正確に記されていた。
ミラボオーはその書類に一瞥をくれ、目を見開いた。表面的な噂だけでなく、それぞれの人物の弱みや、裏で交わされている密約の核心までが暴かれていたからだ。
「……ほう。王宮の警察もまだ掴みきれていない情報の網の目を、ここまで正確に……」
「どうだ、ミラボオー」ルイはさらに一歩、彼に近づいた。
「君のその優れた頭脳と、パリのあらゆる階層に食い込める交渉の才を、我が王国のための『秘密情報組織の統括者』として使ってみないか?」
「……私を、スパイの親玉にしろと?」
「スパイではない。王国の目を守る『影の守護者』だ。貴族たちの陰謀を事前に察知し、外国から送り込まれるスパイ網を根絶やしにする。君にその全権と、活動のための潤沢な資金を与えよう。もちろん、君を苦しめていた借金の肩代わりも約束する」
ミラボオーはしばらくの間、完全に言葉を失っていた。絶対的な権力を持つはずの若い国王が、あえて自分のような危険な男を買い、しかも国家の裏の網の目を任せようとしている。その発想のスケールの大きさと、自分の才能をこれ以上なく見抜いている洞察力に、彼の心の奥底で熱いものが突き上げた。
「……面白い」
ミラボオーは不敵ににやりと笑い、ソファからゆっくりと立ち上がった。
「私をただの厄介者として切り捨てるのではなく、そんな汚れ仕事を最高の方法でやらせてくれるとは……。陛下、あなたは世間で言われているような『凡庸な若き王』どころか、とんでもない怪物だ」
「怪物の下で働くのは悪くないはずだ。どうだ、受けてくれるか?」
ミラボオーは深く、しかしどこか誇らしげに一礼した。
「喜んで。このオノレ・ミラボオー、王室の犬としてではなく、私の面白すぎる遊園地の管理人として、あなたの敵どもを一人残らず丸裸にして差し上げましょう」
こうして、歴史上最も危険で最も優秀な天才政治家・煽動家であるミラボオーが、極秘裏にルイ16世の「宮廷秘密情報員(統括者)」として登用された瞬間だった。
それからの数ヶ月間、パリの裏社会や貴族たちのサロンの勢力図は一変した。
これまで王室やネッケルたちの改革を陰から妨害し、不穏な陰謀をめぐらせていた保守派の貴族たちや、イギリス・オーストリアなどの外国スパイ組織の動きは、すべてミラボオーの張り巡らせた巧妙な情報網によって完全に把握されていた。
「またぞろオルレアン公の密偵が、北部の商人を買収しようとしています」
「オーストリアからの使者が持ってきた偽りの密書、すでに偽物にすり替えておきましたよ、陛下」
ミラボオーがもたらす極めて正確で生々しい情報は、王室に牙をむこうとする者たちの計画を未然に、かつ完璧に粉砕し続けた。宮廷の陰謀は芽が出る前にすべて摘み取られ、ルイの統治基盤を揺るがす者はもはや誰一人として存在しなくなった。
ヴェルサイユ宮殿の執務室の窓辺で、報告書に目を通しながら満足げにうなずくルイの背中に、マリー・アントワネットが穏やかな微笑みを浮かべて近づいてきた。
「最近、宮殿の周りが妙に静かだと思ったら……あなた、あの噂のミラボオーをすっかり手懐けてしまったのね。あんな危険な男を側において、大丈夫なの?」
ルイは書類を閉じ、愛する妻を振り返って微かに笑った。
「危険な猛獣こそ、飼い慣らせばこれほど頼もしい番犬はいないさ。表の経済改革とネッケルの金融、そしてミラボオーが率いる裏の情報網――これで、我がフランス王国を揺るがす死角は完全に消え去った」
マリーは安心したようにルイの肩に寄り添い、窓の外の輝かしい星空を見上げた。
国内外のすべての罠をかわし、富と情報、そして最強の布陣を整えたルイ16世のフランス王国は、もはや誰にも止めることのできない絶対的な黄金期へと、さらに深く力強く突き進んでいくのだった。




