第41話「国王陛下の壁、あるいは全員が頭を抱えた日」
卒業式まで二週間になった。
シグルトは毎日、エルヴィンと話し合っていた。
どう国王を説得するか。
エルヴィンは積極的だった。
「兄上、私が直接父上に話す」
「お前が話してどうなる」
「私も旅に行きたいと言えば、父上は二人分考えなければならない」
「それは交渉材料になるか」
「わかりません。しかし何もしないよりいい」
シグルトはしばらく考えた。
「……頼む」
「任せてください」
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エルヴィンが国王に謁見を申し込んだのは、卒業式の十日前だった。
レオンはその報告をシグルトから聞いた。
「エルヴィン殿下が動いてくれているんですね」
「ああ。しかし」
「しかし?」
「父上は頑固だ。理由がある」
「どんな理由ですか」
「外交問題だ。王太子が国外に出るということは、何かあった時の対応が遅れる。それを父上は懸念している」
「それは正当な理由ですね」
「正当だ。だから難しい」
レオンは少し考えた。
「エルフィーナ様は何と」
「旅には出る、と言っている。変わらない」
「そうですね」
「俺が来られなくても、旅は続けると言っていた」
「それがエルフィーナ様ですね」
「ああ」
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エルヴィンの謁見は三時間かかった。
終わって戻ってきたエルヴィンの顔を見て、シグルトはすぐにわかった。
「だめだったか」
「……だめでした」
「何と言っていた」
「王太子が国外に出ることは許可できない。第二王子も同様だ、と」
「第二王子も」
「ええ。私も国外禁止になりました」
シグルトはしばらく黙った。
「それは」
「外交問題になる可能性があるからだそうです。王族二人が同時に国外に出て、何かあった時の責任は誰が取るのか、と」
「……父上らしい論理だ」
「反論できませんでした。正しいことを言っているので」
エルヴィンは少し俯いた。
「すみません、兄上。力になれなかった」
「お前が悪いわけではない。よく動いてくれた」
「しかし」
「父上の判断は正しい。悔しいが、正しい」
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その夜、シグルトがエルフィーナに報告した。
中庭だった。
「エルフィーナ」
「はい」
「父上の判断が出た」
「どうだったか」
「不許可だ。エルヴィンも国外禁止になった」
エルフィーナはしばらく黙った。
「そうか」
「申し訳ない」
「謝らなくていい」
「しかし」
「殿下は動いてくれた。エルヴィンも動いてくれた。それは本物だった」
「結果が出なかった」
「結果が全てではない」
シグルトはエルフィーナを見た。
「……お前は怒らないのか」
「怒る理由がない。国王陛下の判断は正しい」
「正しいと思っているのか」
「王太子が国外に出て何かあれば、国が困る。それは正しい判断だ」
「しかしお前は」
「私は旅に出る。それは変わらない。殿下が来られないだけだ」
シグルトはしばらく黙った。
「……本当に怒っていないのか」
「怒っていない。しかし」
「しかし?」
エルフィーナは少し間を置いた。
「……殿下が来ない旅は、少し困る気がする」
シグルトはその言葉を聞いた。
困ったような笑いをした。
エルフィーナはその笑いを見た。
見ていたい、と思った。
しかし今夜は少し違った。
この笑いを、旅の間見られない。
その事実が、今夜初めて重く感じた。
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レオンはその会話を聞いていなかった。
しかし翌朝、エルフィーナの顔を見て何かがあったとわかった。
「姉上、昨夜はどうでしたか」
「殿下から報告を聞いた」
「不許可でしたか」
「ああ」
「……そうですか」
「エルヴィンも国外禁止になったそうだ」
「エルヴィン殿下も」
「外交問題になるからだそうだ」
「なるほど」
レオンは少し間を置いた。
「姉上はどうするつもりですか」
「旅には出る」
「一人でですか」
「カイとミレーユとアロイスは来ると言っている」
「私も来ます」
「わかっている」
「……殿下が来られないことについては」
「困る気がする」
「困る、というのは」
「稽古相手が減る、という話ではない。しかしうまく言葉にできない」
レオンはしばらく黙った。
「……それでいいと思います」
「そうか」
「言葉は後から来ます。旅の中で見つかるかもしれません」
「そうかもしれない」
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カイとアロイスに話が伝わったのは昼食の時間だった。
「殿下が来られないんですか」カイが言った。
「そうだ」エルフィーナが言った。
「残念ですね」
「ああ」
「……エルフィーナさんは残念に思っていますか」
「困る気がする、とは思っている」
「それは残念ということですよね」
「そうかもしれない」
アロイスが言った。
「エルヴィン殿下も来られないのか」
「そうだ」
「では私たちだけか」
「そうなる」
「……修正した」
「何をだ」
「旅の計画を修正する。殿下方がいない分、私たちが補う」
「補う必要はない。各自の強さで動ける」
「それでも」
「それでも何だ」
「エルフィーナの傍にいる人間として、できることをしたい」
エルフィーナはアロイスを見た。
「それは貴族らしくない考えだな」
「修正した結果だ」
「そうか」
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ミレーユはその会話を聞いていた。
心の中で、静かに何かが動いていた。
殿下が来られない。
エルヴィンも来られない。
旅に出るのは、エルフィーナとレオンとカイとアロイスとミレーユだけだ。
ミレーユはその事実を確認した。
嬉しい、という感情があった。
それは正直な感情だった。
しかし同時に、別の感情もあった。
エルフィーナが「困る気がする」と言っていた。
その困る、という気持ちは、殿下がいないから生まれる気持ちだった。
エルフィーナにとって、殿下は「いなければ困る」人間になっていた。
それが、ミレーユには少し重かった。
嬉しい感情と、重い感情が、同時にあった。
矛盾しているようで、矛盾していなかった。
それがミレーユの正直な気持ちだった。
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夕方、ミレーユはイリスが帰国したことを思い出した。
一週間前に帰っていた。
あの時のイリスの最後の言葉を思い出した。
「また会いましょう」
エルフィーナは「ヴァルハイムに行くかもしれない」と言っていた。
旅で出会う人間は、どれほどいるだろうか。
イリスのような人間が、各地にいるかもしれない。
エルフィーナが変わっていく速度は、旅に出てさらに速くなるかもしれない。
ミレーユはその変化を、傍で見ていたいと思った。
それが変わらない気持ちだった。
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夜、シグルトが一人で道場にいた。
レオンが声をかけた。
「殿下、こんな時間に」
「素振りをしていた」
「一人でですか」
「ああ」
シグルトは木刀を下げた。
「レオン、一つ聞いていいか」
「はい」
「エルフィーナは旅の間、変わっていくと思うか」
「変わると思います」
「どう変わるか」
「わかりません。しかし旅で出会う人間と稽古をして、各地の武術を学んで、強くなって帰ってくると思います」
「それだけか」
「……殿下が聞きたいのは、そういうことではないですね」
「ああ」
「気持ちの話ですか」
「ああ」
レオンは少し考えた。
「旅の中で、言葉が見つかるかもしれません」
「何の言葉だ」
「刀と同じくらい好き、よりも先の言葉です」
「それは旅に出なければ見つからないのか」
「姉上の場合は、経験の中で見つかると思います。言葉で教えても入りません。体で感じた時に気づきます」
「……そうだな。あの人はそういう人間だ」
「殿下が旅に来られないのは残念です。しかし」
「しかし?」
「旅から帰ってきた時のエルフィーナ様が、殿下に何を言うかを、楽しみにしてください」
「……それは待てということか」
「はい。また待てということです」
シグルトは少し笑った。
「お前は本当に、あの人のことをよく見ているな」
「四年間、一番近くにいましたから」
「そうだな」
シグルトは素振りを再開した。
レオンはその音を聞いた。
今夜の「仕方ない」は、少し複雑だった。
殿下が来られない旅。
しかし姉上は旅に出る。
自分は一緒に行く。
それだけのことだった。
それだけのことなのに、今夜は少し胸が重かった。
仕方ない。
今日の「仕方ない」は、穏やかではなかった。




