第40話「国王陛下の返事、あるいは想定外の展開」
卒業式まで三週間になった。
学院の空気が変わっていた。
三年生は卒業の準備を始めていた。しかし一年生にとっては、まだ先の話だった。
エルフィーナにとっては、卒業より旅の準備の方が重要だった。
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イリスとの最後の手合わせは、卒業式の一週間前に行われた。
道場に全員が集まっていた。
イリス一行が帰国する前日だった。
「最後の手合わせです」イリスが言った。
「ああ」
「全力で来てください」
「いつも全力だ」
「わかっています。しかし今日は、特別に全力でお願いします」
エルフィーナは少し考えた。
「わかった」
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始まった。
イリスは今日が違った。
いつもより速かった。いつもより踏み込みが深かった。
この三ヶ月で積み上げてきた全てを出していた。
エルフィーナは受けた。
二刀で応えた。
十合。二十合。三十合。四十合。
四十五合目で、エルフィーナの黒嵐がイリスの剣を弾いた。
静止。
「……参りました」
イリスは木刀を下げた。
道場が静かになった。
四十五合だった。
最初が二十合だった。
三ヶ月で二十五合増えていた。
「四十五合か」エルフィーナが言った。
「ええ」
「三ヶ月でここまで伸びた」
「まだ足りません」
「足りない。しかし本物になった」
「本物、というのは」
「最初は技術だけだった。今は読みがある。相手を見て動いている」
イリスはしばらく黙った。
「……それはあなたから学びました」
「そうか」
「ヴァルハイムに帰っても続けます」
「続けろ。旅で会う時には、もっと変わっているだろう」
「そうなりたいです」
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イリスの内心は、今日の手合わせの後、少し整理された。
四十五合。
三ヶ月前は二十合だった。
毎日稽古をして、毎日変わって、毎日エルフィーナに指摘をもらった。
その結果だった。
ヴァルハイムに帰ったら、また一人になる。
しかし今回は違う。
一人でも続けられる気がした。
なぜかと考えた。
エルフィーナが教えてくれたのは技術だけではなかった。
変わり続けることの意味を、教えてくれた。
その言葉を思い出した。
「毎日続けろ。必ず変わる」
シンプルだった。
しかしその言葉が、三ヶ月間イリスを支えていた。
ヴァルハイムに帰っても、その言葉は消えない。
それがイリスにとって、この留学の一番大きな収穫だった。
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別れの挨拶の時、四人がエルフィーナの前に並んだ。
ルイーザが代表して言った。
「エルフィーナ様、三ヶ月間ありがとうございました」
「礼はいらない。強くなれ」
「はい」
「帰ってからも稽古を続けろ。イリス殿下と一緒に」
「はい」
フレアが言った。
「また会えますか」
「旅に出る。ヴァルハイムにも行くかもしれない」
「その時は全員で手合わせをお願いします」
「望むところだ」
クラウディアが言った。
「エルフィーナ様、一つだけ聞いていいですか」
「言え」
「私たちは弟子ですか」
「道場生だ」
「道場生と弟子は違いますか」
「……同じかもしれない」
クラウディアは少し笑った。
「では弟子として、また会いに来ます」
「来い」
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イリスが最後に言った。
「エルフィーナ」
「何だ」
「旅に出る前に、一つだけ言わせてください」
「言え」
「あなたは私が出会った中で、最も本物の武人です」
「そうか」
「それだけです」
「わかった」
「……それだけですか」
「ありがとう。それが言いたかった」
イリスは少し間を置いた。
「……また会いましょう」
「ああ。その時は四十五合より長くなっていろ」
「必ず」
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イリス一行が馬車に乗った。
ミレーユがその背中を見ながらレオンに言った。
「イリス殿下、最後まで真剣でしたね」
「ええ」
「変わりましたね、最初と比べて」
「別人みたいでした」
「エルフィーナ様の影響ですね」
「いつも通りです」
「いつも通りに人が変わっていくんですね」
「エルフィーナ様らしいと思います」
馬車が門をくぐった。
イリスが窓から振り返った。
エルフィーナを見た。
エルフィーナは既に道場に向かって歩いていた。
振り返らなかった。
イリスは少し笑った。
それがエルフィーナらしかった。
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同じ日の午後、シグルトがレオンを呼んだ。
「レオン、少しいいか」
「何ですか」
「父上から返事が来た」
レオンは少し止まった。
「旅の許可申請の返事ですか」
「ああ」
「何と」
シグルトは手紙を渡した。
レオンは読んだ。
読みながら、少し表情が変わった。
「……不許可、ですか」
「ああ」
「理由は」
「王太子が長期の旅に出ることは、国政上の懸念がある。以上だ」
「……エルヴィン殿下は何と」
「父上を説得する、と言っていた。しかし父上は頑固だ」
「どうするつもりですか」
シグルトはしばらく黙った。
「エルフィーナに話す」
「今日ですか」
「ああ。卒業式の前に話す必要がある」
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夜、中庭でシグルトとエルフィーナが向かい合った。
レオンは少し離れたところから見ていた。
「エルフィーナ」
「はい」
「父上から返事が来た」
「旅の許可申請の」
「ああ」
「何と言っていたか」
「不許可だ」
エルフィーナはしばらく黙った。
「そうか」
「申し訳ない」
「殿下が謝ることではない」
「しかし」
「殿下が旅に来ると言ってくれた。それは本物だった。国王陛下の判断は別の話だ」
シグルトは少し間を置いた。
「……もう一度交渉する」
「無理はするな」
「無理ではない。エルヴィンも動いている。父上を説得できる可能性はある」
「卒業式まで時間がない」
「旅の出発を少し遅らせることはできるか」
エルフィーナはしばらく考えた。
「できる。しかし」
「しかし?」
「殿下が来なくても、旅には出る」
「わかっている」
「殿下が来てくれれば嬉しい。しかし来なくても、旅は続ける」
シグルトはその言葉を聞いた。
「嬉しい、という言葉が出たな」
「ああ。母上に言われた通り、言葉にした」
「刀と同じくらい好き、とは違う言葉だ」
「ああ。違う。殿下がいれば嬉しい。いなければ少し、困る気がする」
シグルトはしばらく黙っていた。
「……その言葉を聞いて、もう一度父上に頼む気になった」
「そうか」
「ありがとう」
「礼はいらない」
「いや、これは礼を言う」
エルフィーナはシグルトを見た。
困ったような笑いだった。
見ていたい、と思った。
「殿下」
「何だ」
「その笑いを見るとまた見ていたいと思う」
「……知っている」
「今夜も見た」
「そうか」
「いつも見ていたいと思う。しかし今夜は特に見ていたい」
「なぜだ」
エルフィーナはしばらく考えた。
「……旅に出たら、しばらく見られないかもしれないと思った」
シグルトは少し止まった。
「……その言葉も、刀とは違う」
「そうか」
「ああ。刀は持っていけばいつでも見られる」
「そうだな」
「俺を持っていくことはできない」
「できない」
「だから特別だ」
エルフィーナはしばらく黙った。
「……そうかもしれない」
「もう少し考えてくれ。その答えが出た時に、また言葉にしてくれ」
「わかった」
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レオンはその会話を遠くから見ていた。
ミレーユが隣に来た。
「シグルト殿下、旅の許可が下りなかったんですね」
「そうです」
「エルフィーナ様の顔を見ていました。複雑そうでしたね」
「ええ。しかし動じていませんでした」
「エルフィーナ様らしいです」
「はい」
「でも、殿下を見る顔が変わっていました」
「今夜はどんな顔でしたか」
「……惜しそうな顔でした」
「惜しそうな」
「見ていたい、という言葉を言っていましたね。今夜は特に、という顔でした」
レオンは少し間を置いた。
「それは大きな変化ですね」
「ええ。刀をいつでも見られるから特別ではない、という考えに自分でたどり着いたんだと思います」
「母上との話し合いの積み重ねですね」
「そうですね。ゆっくりですが、確実に変わっています」
レオンはしばらく中庭を見た。
「……国王陛下が許可を出してくれるといいですね」
「そうですね」
「エルフィーナ様は殿下がいなくても旅に出ます。しかし」
「しかし?」
「殿下がいた方が、エルフィーナ様は嬉しいと言っていました」
「そうですね」
「その嬉しい、という感情を大切にしてほしいです」
ミレーユは静かに言った。
「レオン様」
「はい」
「あなたは本当に、エルフィーナ様のことを想っているんですね」
「……当然です。姉上ですから」
「姉上だから、だけではないと思いますが」
「……今夜はそういうことにしておきます」
ミレーユは少し笑った。
中庭で、シグルトとエルフィーナが並んで空を見ていた。
夜が静かだった。




