幕間「好きとは何か、という問い」
夜だった。
エルフィーナは素振りを止めた。
珍しいことだった。百回を数える前に止まることは、ほとんどなかった。
木刀を下げて、空を見た。
星が出ていた。
シグルトの言葉が、頭の中にあった。
――俺はお前のことが好きだ。恋愛的な意味で。
あれから何日か経った。考えても、答えが出なかった。
エルフィーナは縁側に腰を下ろした。
整理しようとした。
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好き、という言葉について、考えた。
シグルトは言った。お前のことを考える時間が長い。傍にいると落ち着く。離れると会いたいと思う。それが恋愛的な好きだと。
エルフィーナは自分の中を確認した。
好きなものは何か。
まず、武術が好きだった。
これは疑いようがなかった。剣を持った時の感覚、体が動く時の感覚、強い相手と打ち合う時の感覚。それが好きだった。稽古の後の充実感が好きだった。技が身についていく過程が好きだった。
次に、食べ物が好きだった。
正確には、体に合った食べ物が好きだった。稽古の後に食べる、消化がよくて栄養がある食事が好きだった。バランスが取れていること。体が求めているものが満たされること。それが好きだった。
これはわかった。
では、人への「好き」とは何か。
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エルフィーナは考えた。
強い人が好きだった。
しかしそれは全員に対してそうだった。グラハムも、シグルトも、バルディも、ジークハルトも、老師も、ハインツも、みんな強いから好きだった。
ではシグルトへの感情は、それだけか。
考えた。
シグルトのことを考える時間が長いか。
……ある、とエルフィーナは思った。
稽古の話だけではなかった。シグルトの顔が少し疲れていると気になった。贈り物をもらった時に、なぜこれを選んだかを知りたいと思った。手合わせで引き分けた時に、もう一度やりたいと思った。
それは他の稽古相手にも感じることか。
グラハムの顔が疲れていても、気にならない。バルディへの贈り物を欲しいとは思わない。
なぜシグルトだけ違うのか。
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エルフィーナはさらに考えた。
前世の記憶を探った。
颯太兄と蓮兄のことを考えた。
二人のことは好きだった。傍にいると落ち着いた。離れていた時は会いたかった。
しかしそれは家族への感情だった。シグルトへの感情とは違う気がした。
何が違うのか。
颯太兄と蓮兄を思う時は、安心だった。帰る場所だった。
シグルトを思う時は、少し違った。
何かが落ち着かなかった。
稽古の時は落ち着く。しかしシグルトが「俺はお前のことが好きだ」と言った時の感覚は、稽古の時とは違った。
あの時、何かが胸の中で動いた。
武術の型が決まった時の感覚とも、美味しい食事を食べた時の感覚とも、違った。
何だったのか。
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エルフィーナはしばらく空を見ていた。
整理しようとしたが、整理できなかった。
前世の記憶を探っても、該当するものがなかった。
颯太兄と蓮兄と一緒に稽古をしていた記憶はある。道場で共に食事をした記憶はある。しかし恋愛というものは、前世でも経験したことがなかった。
だからわからなかった。
比べる材料がなかった。
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エルフィーナは少し考えを変えた。
定義から入るのではなく、事実から確認することにした。
シグルトが稽古に来ると、来ない日より動きがいい。これは事実か。
……事実だと思った。シグルトがいる日の稽古は、いつもより充実していた。
シグルトが贈り物をしてきた時、受け取った後に少し温かい気持ちになった。これは事実か。
……事実だと思った。自分の好みを調べて選んでくれたことが、なぜか嬉しかった。
シグルトが困ったような笑いをする時、見ていたいと思う。これは事実か。
……事実だと思った。あの顔が、なぜか好きだった。
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エルフィーナは少し止まった。
「なぜか好きだった」という言葉が出てきた。
武術が好きなのは理由がある。技が磨かれるから。強くなれるから。
食べ物が好きなのも理由がある。体に合っているから。稽古に支障がないから。
しかしシグルトの困ったような笑いが好きなのは、理由がわからなかった。
なぜか好きだった。それだけだった。
エルフィーナはその事実を確認した。
「なぜか好き」という感情が存在することを、初めて認識した。
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さらに考えた。
レオンのことを考えた。
レオンも好きだった。しかしそれは違う種類の好きだった。
レオンが傍にいると、自分が見落としているものを補ってもらえる。それが助かった。信頼していた。
シグルトへの感情とは、質が違う気がした。
ミレーユのことを考えた。
ミレーユも好きだった。稽古が上達していく様子が好きだった。正直な目をしているところが好きだった。
これもシグルトとは違う気がした。
カイのことを考えた。
カイへの感情は、弟子への感情に近かった。伸びていく様子が嬉しかった。
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全員への感情を確認した。
違いがあった。
シグルトだけが、「なぜか」という感情を持っていた。
理由のない好意。説明できない温かさ。見ていたいという気持ち。
ここまで確認して、エルフィーナは一つの結論に辿り着いた。
シグルトが私に向けている「好き」というのは、私が武術や食べ物に感じるような好きと、おそらく同じ種類のものだろう。
殿下は私を、好ましい稽古相手として気に入っている。あるいは消化のいい食事のように、傍にいると調子がいいと感じている。
それが「恋愛的な好き」という言葉の意味なのだろう。
なるほど、と思った。
自分にも似たような感情が殿下にある気がする。稽古相手として好ましく、傍にいると調子がいい。
つまり殿下と自分は、互いに似たような好意を持っているということだ。
それは良いことだと思った。
整理がついた。
エルフィーナは満足した。
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エルフィーナは立ち上がった。
木刀を持った。
素振りを再開した。
百回、二百回。
考えがまとまったので、稽古に集中できた。
ただ一つだけ、気になることがあった。
素振りをしながら、シグルトの顔が頭に浮かんだ。
困ったような笑いの顔だった。
なぜ浮かぶのかは、まだわからなかった。
しかし浮かんでいることは、事実だった。
まあいい、とエルフィーナは思った。
稽古の邪魔にはなっていない。
夜が更けていた。
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翌朝、レオンが縁側に来た。
「姉上、今日は少し遅いですね」
「ああ」
「昨夜、遅くまで考えていましたか」
「していた」
「何を考えていましたか」
エルフィーナは少し間を置いた。
「好きとは何か、を考えていた」
レオンは固まった。
「……それは」
「シグルト殿下の言葉が気になっていた」
「結論は出ましたか」
「出た」
レオンは少し緊張した。
「どんな結論ですか」
「殿下は私のことを、武術や食べ物のような好きで気に入っている。稽古相手として好ましく、傍にいると調子がいいということだ。恋愛的な好きとはそういうものだろう」
レオンは黙った。
長い沈黙だった。
「……そうですか」
「私も殿下に似たような感情がある。互いに同じ種類の好意を持っているということだ。良いことではないか」
「……はい」
「何か問題があるか」
「……いいえ」
レオンは何も言えなかった。
言えることが何もなかった。
シグルトが聞いたらどんな顔をするだろうと思った。
おそらく困ったような笑いをするだろう。
エルフィーナがその笑いを好きだと言っていたことを、レオンは思い出した。
「レオン、どうした。顔色が悪い」
「……少し、色々と考えていました」
「何を」
「殿下に、今の話をお伝えした方がいいかどうか」
「伝えていいぞ。殿下も同じ結論に至るはずだ」
「……そうですね」
レオンは空を見た。
今日の空は青く、澄んでいた。
シグルトに何を言うべきか、言わないべきか。
それを考えながら、レオンは「仕方ない」という言葉が今日は出てこないことに気づいた。
代わりに出てきた言葉は、もっと複雑なものだった。
しかしそれを認識するのは、また別の日のことだった。




