神父の願い
最初に感じたのは、妙な感覚だった。
腹の内側を引っ張られるような、皮膚の内部にある何かが移動しているかのような奇妙な感覚。
しかもそれは物理的なものではない、痛みもなく苦痛もないその妙な感覚に康太は眉をひそめていた。
それがデビットの仕業であると気づくのにかなり時間がかかったほどだ。体の中を這い回る液体の魔術の痛みに耐えながらその感覚に集中すると、不意に康太の体の中、術式などを司る部分に違和感が生じる。
康太の体の中では術を発動する際に術式を作る部分を設定してある。その中の一つに常にデビットの宿っているDの慟哭の核もあるのだが、そのデビットが妙にざわめいてきているのだ。
先ほどの神父の話を聞いて、途中から妙にこんな風にざわめいてきている。いったい何をしているのかさっぱりわからない。
こういう時にデビットと会話できれば何をしているのか聞くこともできるのだが、生憎デビットにそんな自我はもはや存在しない。
このデビットの残滓が一体何をしようとしているのか、康太はただ見守ることしかできないのだ。
だがせめて自分の体の外でやってほしいなと思いながらも、康太の体の中にさらに変化が生じていた。
いや、変化が生じたのは体ではなかった。康太の頭の中に奇妙な光景が流れ込み始めたのだ。
暗い場所、一体どこだろうか。ほとんど明かりがなく周囲は何も見えない。少なくとも康太が今現実で目にしている光景ではないのは確かだ。
そして康太はこの感覚を知っている。見える光景の意味を知っている。
魔術の根源。
康太の起源によって視覚的に、あるいは感覚的に認識することのできる魔術の生まれた瞬間、あるいはその魔術が生まれた原因、その経過などを見たり感じたりできる、康太だけが持つ特殊な能力だ。
それがなぜ発動したのか康太にもわからなかった。少なくとも康太は魔術を発動していない。しかもこんな光景を見せられるような魔術を康太は有していなかった。
ここまで考えた時、唐突に胸部に激痛が走る。体の中にいる液体が這い回ったわけではない、今見ているこの光景、何かの魔術の根源によって康太の体が疑似的に痛みを実感しているだけだ。
胸に痛みが走ったかと思うと、今度は体の中から何かが吸いだされるような感覚が広がっていく。
指先、手足、腕、胴体、徐々に体の中からなくしてはいけないものがなくなっていくような感覚がある。
まるで自分が自分ではなくなっていくような、自分自身と離別させられているかのような、自分の体が、徐々に自分のものではなくなっていくような奇妙な感覚だ。
吸い出される度に胸に痛みが走る。吸い出されていく部分から凍っていくかのような冷たく、張り付くような痛みを感じる。
声は聞こえなかった。デビットの時には聞こえた声は感じ取れず、ただ痛みと見える光景、そして内側がひしめくかのような不安と恐怖だけを康太に伝えていた。
そしてその光景が最後に見せた光景は、視界の先に立っている誰かだった。
いったい何を見せようとしているのか。康太は何を見せられているのか。
同じような光景を何度も、同じような苦痛を何度も味わうことで、康太は徐々にではあるがそれを理解しつつあった。
最期に見えるあの人影、あれは康太が先ほどまで対峙していた神父だ。そして今見えているこの光景、今体感しているこの痛みは、この液体の魔術『ウィル』の中に込められてしまった被害者たちの体験の一部だ。
デビットはこれを見せようと何やらざわめいていたのだ。
康太の体の中に直接術式を取り込んだわけではないために、情報にかなりの欠損があるが、デビットはこの魔術の被害にあった者たちの体験を康太に伝えようとしているのだ。
これほどの苦痛を味わったのだと、これほどの不安と恐怖を味わったのだと、康太に伝えようとしているのだ。
「・・・デビット・・・お前何してんだよ・・・!」
デビットがこれをやったというのは確定的だ。どんな風にやったのか、どんな手段を使ったのか康太にはわからない。
もとより康太はDの慟哭のシステムさえ完璧に理解把握していないのだ。魔力を伝達するようなリンクを作るように、今康太の体の中に這い回っている液体魔術『ウィル』の中に何らかのリンクを作成したのかもしれない。
だが疑問よりも康太の中には確信があった。デビットが語りかけているのではないかと思えるほど、その考えに至るのに時間は必要なかった。
救えと言っているのだ。自分にそうしたように、この魔術にとらわれてしまった人々の意志の残骸を救えと。
同じ神父である魔術師が引き起こしたことであるがゆえに、同じく神父であり、人を救おうとしたデビットは見て見ぬ振りができなかったのだろう。
「勝手に動いて勝手にやりたいことやって・・・どうしろっていうんだよ・・・」
デビットを今の形にできたのはほとんど偶然でしかない。嘘でも謙遜でもなく事実だ。偶然康太がこういった起源を有していたからこそ、こんな状況を作れたといっていい。
自分にそんなたいそうなことができるとも思えなかった。こんな状態になった人たちを救えるとも思えなかった。
だがだからといって放置できるはずもない。康太は小さく息をついて目を閉じ集中し始めた。自分の中にいる液体魔術に語り掛けるように、ゆっくりと自分の意志をデビットに託していく。




