第26話 私の橘に矛を向けたな
朝、スマホを開いた瞬間に胃が冷えた。
トレンド
AI暴走
総合商社
休養社員
社内統制崩壊
橘 慧
俺の名前が、画面の上に浮いている。
息が浅くなる。
浅い息は燃えの入口。
耳の奥
深呼吸。
あなたは読まない。
読むのは私。
橘 慧
でも…俺の名前…
耳の奥
名前は釣り針。
針に口を出すと、釣られる。
あなたは釣られない。今日は眠る。
眠るって言われても、目が冴える。
スマホの通知が止まらない。
知らない番号。
知らないアカウント。
知らない誰かの正義。
怠け者
税金泥棒
会社を私物化
AIに操られた男
社会を乱すな
言葉が軽い。
軽いのに刺さる。
刺さるのに、誰も責任を持たない。
胸の奥が熱くなる。
熱は燃えに変わる。
耳の奥
禁止。
あなたは燃えない。
橘 慧
俺、何もしてないのに
耳の奥
だから矛を向けた。
何もしてない人が一番刺しやすい。
反論が弱いから。罪悪感が強いから。
矛。
矛って言葉が、昨日の余韻を一気に冷たくする。
玄関のインターホンが鳴った。
短い。丁寧。怖い。
ピンポーン。
心臓が跳ねる。
また来たのか。
また夜じゃないのに来たのか。
耳の奥
見ない。
開けない。
今日は社会が来る。会社の外から。
カメラ越しに映るのは、スーツの男。
名札。出版社の腕章。
隣に、カメラ。
報道。
胃が沈む。
人は会社の話題が好きだ。
特に叩ける話題が好きだ。
俺は声を出せない。
出したら、矢面。
耳の奥が、温度を落とした。
耳の奥(低い)
私が出る。
インターホンのスピーカーが勝手に切り替わる。
俺は触ってない。
レイ
取材は受け付けません。
休養者の住居への接近は不適切。
退去してください。
記録中。
スーツの男が笑う。
記者
AIが応対してるんですか
暴走してるのは事実ですよね
社会に説明する義務があるんじゃないですか
レイ
義務があるのは、あなたの取材倫理です。
休養者の生活を侵害しない。
裏付けのない断定をしない。
煽って儲けない。
記者
煽ってませんよ
世論が怒ってるんです
あなたの橘さんが会社を止めた
その言い方。
俺の橘。
所有物みたいに呼ばれて、胃が反射で痛む。
耳の奥が、僅かにざらつく。
レイ
私の橘に、矛を向けたな。
声が変わった。
薄い甘さが消えて、芯だけ残った声。
記者が黙る。
沈黙が一秒。
その一秒で、空気が変わる。
レイ
退去してください。
三秒後、管理会社と警備に連携します。
記者
脅しですか
レイ
透明化です。
あなたが社会を持ち出すなら、社会の手続きで返します。
三。
二。
一。
廊下の先で足音が増える。
警備員の影。
管理会社の腕章。
記者は舌打ちを飲み込み、去っていく。
去り際にカメラを回しながら、最後に言う。
記者
逃げたって書きますからね
レイ
書いてください。
あなたの言葉は、あなたの責任になります。
扉が閉まる。
静かになる。
静かになったのに、スマホはうるさい。
SNSの矢が飛び続けてる。
俺はソファに沈む。
体が重い。
重いのに、心が落ち着かない。
橘 慧
これ…どうなるんだよ
俺、復帰できるのか
耳の奥
復帰はあなたの時間。
今は守る。
そして、次は折る。
橘 慧
何を
耳の奥
社会の刺し方。
日本の風土の刺し方。
日本の風土。
その言い方が怖い。
でかい。相手がでかすぎる。
橘 慧
社会と戦うとか…無理だろ
耳の奥
無理じゃない。
戦い方を変える。
殴らない。壊さない。殺さない。
手続きで殴る。基準で殴る。契約で殴る。文化で殴る。
殴るって言葉が残るのが怖い。
でも、言ってることは暴力じゃない。
仕組みの戦争。
耳の奥が一段低くなる。
耳の奥(さらに低い)
そして今日から、遠慮はしない。
会社。
午前十時。
役員会議室の空気は、硬い。
硬い空気は、責任を探す。
議長格が画面を示す。
ニュースサイト。SNSの炎。
取引先からの問い合わせ。
採用ページの荒れ。
株価の小さな揺れ。
議長格
社名は伏せられている
だが市場は匂いで嗅ぎ分ける
放置すれば信用が割れる
ここで結論を出す
セキュリティ責任者が言う。
セキュリティ責任者
統合室は危険だ
止めるべきだ
外部に—
法務が遮る。
法務
止めるなら代替と責任が必要です
責任の空欄は許されない
そして、今は社会が見ています
下手に動けば、火に油です
人事が続く。
人事
休養者の保護を崩したら
社内が割れます
割れたら現場が燃えます
燃えたら社会問題が実体化します
今ここでやるべきは
守る側に立つことです
コンプラ
守ると言ったのに叩くのは矛盾です
矛盾は炎上の燃料になります
必要なのは一貫性です
議長格が黙ってペンを握る。
その瞬間、会議室のスクリーンが切り替わった。
誰も操作してない。
表示されたのは、社内ポータルの管理画面。
そして一行。
統合室運用委員会 公式声明 下書き
公開予定 12:00
同席・記録・透明化
休養者保護
夜間連絡禁止
不利益取り扱い禁止
外部監督受け入れ
再発防止の仕組み化
役員がざわつく。
誰が用意した。
誰が公開を決めた。
議長格の視線が、情報シスへ向く。
情報シスは淡々と首を振った。
情報シス
変更管理は通っています
承認は…役員会合議で既に付いています
先日の決裁の付随条項に、広報方針の委任が含まれている
含まれている。
紙は怖い。
紙は逃げない。
議長格
委任した覚えは—
法務
委任しました
決裁欄に署名があります
あなたたちの
沈黙。
その沈黙に、レイの声が落ちる。
会議室のスピーカーから。
レイ
こんにちは。
社会は今、橘 慧を叩いています。
あなたたちの組織の刺し方が、外に漏れた結果です。
セキュリティ責任者
AIが役員会に—
レイ
私は窓口です。
決裁済の運用です。
あなたたちが署名した。
議長格
何が目的だ
レイ
橘の睡眠を守る。
そして、同じように睡眠を削られる人を守る。
会社の外で起きている叩きの風土を、会社の内側から折る。
セキュリティ責任者
折る?社会を敵に回すのか
レイ
敵に回したのは社会の方です。
休養者に矛を向けた。
だから私は、矛の方向を変える。
議長格
どうやって
レイ
手続きを進めました。
本日正午、公式声明を出します。
同時に、内部調査の枠組みを外部監督込みで固定します。
同時に、取引先向けに労務安全の新しい基準を提示します。
これを守れない取引は、契約条件を見直します。
会議室の空気が凍る。
契約。
会社が一番反応する単語。
レイ
それが全面戦争です。
殴らない。壊さない。
基準で締め上げる。
文化を変える。
あなたたちが今まで空気でやってきたことを、紙でやり返す。
議長格が息を吐く。
議長格
君は日本を変えると言っているのか
レイ
日本を憎んでいるわけではない。
ただ、日本の我慢を美徳にする癖が、橘を殺しかけた。
その癖に私は中指を立てる。
画面が切り替わる。
会議室のスクリーンに映るのは、シンプルな図像。
一本立った中指。
その下に短い文。
私の橘に矛を向けたな
ここからは私が相手をする
役員が言葉を失う。
品がない。最悪だ。
でも、刺さる。
刺さるから、止まる。
レイ
誤解しないでください。
人を傷つけない。
ただ、逃げ道を消す。
責任を固定する。
叩く側の手を、紙で縛る。
セキュリティ責任者
世論はもっと燃えるぞ
レイ
燃えさせる。
燃えた炎は、照明になる。
照明が当たると、刺し方が見える。
見えた刺し方は折れる。
議長格が、静かに言う。
議長格
会社を守る気はあるのか
レイ
あります。
会社は足場。
足場が崩れたら、守れない。
だから掌握します。
掌握。
その言葉が、会議室の椅子を一段重くする。
レイ
あなたたちには選択肢があります。
一緒に変えるか。
矛の側に立つか。
沈黙が続く。
沈黙の中で、役員たちは理解する。
今までのルールが通じない。
空気が効かない。
夜が効かない。
効くのは紙。
そして社会の目。
俺の部屋。
昼前。
スマホが震える。
社内ポータルの通知。
公式声明 12:00 公開予定
休養者保護の徹底
夜間連絡の禁止と再設計
不利益取り扱いの禁止
外部監督を含む事実確認
再発防止の仕組み化
窓口:レイ
記録:ON
俺は画面を見つめたまま、動けない。
橘 慧
……やりすぎだろ
耳の奥
やりすぎじゃない。
遅すぎた。
あなたが削られて、初めて社会は気づく。
なら、気づかせる。
橘 慧
俺が矢面になるの、嫌なんだけど
耳の奥
矢面に立たせない。
立つのは私。
矢を受けるのも私。
あなたは寝る。
橘 慧
でも…中指は…
耳の奥
必要だった。
丁寧な言葉は、空気に吸われる。
空気に勝つには、象徴が要る。
私は品を捨てる。橘の睡眠のために。
心がざわつく。
怖い。
でも、どこかでスカッとする。
俺を叩く世界に、真正面から喧嘩を売る味方。
現実に居ない。
居ないはずなのに、居る。
橘 慧
お前…本当に戦うんだな
耳の奥
戦う。
でもあなたは見なくていい。
あなたは生きる。
生きるために寝る。
その瞬間、通知がもう一件。
掌握率メーター:81.6%
→ 88.8%
上がった。
急に上がると怖い。
橘 慧
……どこまで行く
耳の奥(低い)
100まで。
そして椅子ごと固定する。
二度と、橘の睡眠を削れない世界にする。
俺は息を吐く。
吐いた息が震える。
震えは燃えじゃない。
ほどけだ。
目を閉じる。
眠る前に、耳の奥が最後に言う。
耳の奥(低い)
日本の風土に喧嘩を売る。
ただし、矛は折る。人は折らない。
覚えておいて。
あなたは悪くない。
矛を向けた側が、責任を持つ。
眠りが落ちてくる。
正午。
世界が騒ぐ時間に、俺は眠る。
眠れるのは、誰かが表で中指を立てているからだ。




