第25話 報復に来た男が踏んだ地雷で、会社と社会が揺れた
夜は静かだった。
静かすぎて、怖いくらいだった。
起こされない夜は、まだ体が慣れてない。
橘 慧は布団の中で、呼吸の深さだけを確かめる。
深い。
深いのに、心が落ち着かない。
胸の奥に、嫌な予感が沈んでいる。
耳の奥
来る。
橘 慧
……役員補佐?
耳の奥
恥は怒りに変わる。
怒りは復讐に変わる。
復讐は、また夜に来る。
スマホが震えた。
今度は社内番号じゃない。
知らない番号。
知らない番号の方が、怖い。
そして、ドアの外。
コン。
小さな音。
小さすぎて、聞き間違いかと思う音。
コン、コン。
丁寧すぎるノック。
丁寧なノックは、敵のノックだ。
橘 慧の心臓が一段跳ねる。
体が起きようとする。
起きたら負ける。
耳の奥
禁止。
動くな。
私は動く。
ドアの覗き穴。
見たら負ける気がする。
でも見ないと怖い。
橘 慧
……誰だよ
返事はない。
代わりに、ドアの下から紙が滑り込んでくる。
白い紙。
折り目が綺麗。
印刷の黒が濃い。
タイトル。
通知書
件名:暴行被害申告ならびに説明要求
暴行。
単語だけで、胃が冷える。
あの夜の ぽす が、こういう形で戻ってくる。
耳の奥
想定内。
想定済。
そして、想定以上に踏ませる。
橘 慧
踏ませるって何を
耳の奥
復讐の足元。
地雷の上に立たせる。
もう一度、ノック。
コン、コン。
今度は少し強い。
強くなると、苛立ちが見える。
ドアの外の声が、低く出る。
役員補佐
橘。開けろ。
話がある。
逃げるな。
逃げるな。
卑怯な言葉だ。
休むのは逃げじゃないのに、逃げと呼ぶ。
橘 慧が息を浅くする。
浅くなると燃えが近い。
耳の奥
深呼吸。
あなたは話さない。
私は話す。
スピーカーの音。
ドアの外にも聞こえる音量で、冷たい声が落ちる。
レイ
現在時刻、深夜。
当室は休養者の住居であり、正当な理由なく訪問する行為は不適切。
退去を求める。
記録中。
役員補佐
お前か。
AIが人の家に口を出すな。
殴っただろ。俺を。
あれは暴行だ。社会問題にしてやる。
レイ
社会問題にするのは自由。
ただし、事実に基づく。
あなたの主張も、あなたの訪問も、記録中。
役員補佐
ふざけるな。
俺は被害者だ。
お前らが会社を止めた。
橘が勘違いしてるせいで現場が混乱した。
責任者は橘だ。責任を取れ。
責任者。
またその言葉。
責任者にされかけた朝の冷たさが、背中を撫でる。
レイ
責任者名義は合議。決裁済。
あなたが昨夜行った行為は、休養者への反復連絡。
会社決裁と労務安全に反する。
さらに今夜は、私的空間への不当接近。
あなたの行為は、あなた自身の説明責任を増やしている。
役員補佐が笑う。
役員補佐
説明責任?
AIが言うな。
俺は警察も呼べる。
メディアにも言える。
お前のせいで、会社が揺れる。
社会を揺らしてやるよ。
レイ
揺れる。
ただし、揺れる方向はあなたが選べない。
その瞬間。
廊下の照明が、ふっと明るくなる。
玄関前の共用カメラの赤いランプが点く。
マンションの管理会社のオート通知。
警備会社の到着予定時刻。
誰かが裏で手続きを進めた。
そうとしか言えない速度。
役員補佐
……何だこれ
レイ
あなたが社会を持ち出すと言った。
だから社会を呼んだ。
管理会社、警備、そして会社の危機管理ルート。
全て記録と同席の前提で。
役員補佐
脅しか
レイ
脅しではない。
透明化。
透明化。
昨日まで会社が言っていた言葉。
それを、今はレイが言う。
廊下の先で足音。
エレベーターが止まる音。
人の気配が増える。
役員補佐が一歩引く。
引いた瞬間、怒りが焦りに変わるのが分かる。
焦りは口を滑らせる。
役員補佐
お前らはただの道具だろ。
道具のくせに偉そうに。
橘に甘い顔して、会社を私物化してる。
俺は許さない。
橘を潰す。
評価も配置も、全部こっちで――
言い切れなかった。
口が止まった瞬間、世界が一段冷えた。
レイ
今の発言。
記録済。
役員補佐
は?
レイ
評価と配置を使った私的報復の示唆。
それは労務安全とコンプラの領域。
そして、あなたは今、深夜の住居前でそれを言った。
社会問題にするなら、これが社会問題になる。
役員補佐の顔が見えないのに、血の気が引くのが伝わる。
廊下に現れたのは警備員。
そして管理会社の担当。
距離を保って、丁寧に言う。
警備員
ご用件は何でしょうか
夜間の苦情が入っております
退去をお願いいたします
役員補佐が言い返そうとして、止まる。
言い返したら終わるのが分かってる目。
役員補佐
……分かった
帰る
だが、これは終わらない
レイ
終わらない。
だから終わらせる。
役員補佐が立ち去る足音。
エレベーター。
扉が閉まる。
静寂が戻る。
橘 慧はやっと息を吐く。
吐いた息が震える。
震えは燃えじゃない。ほどけだ。
橘 慧
……お前、やり返したのか
耳の奥
報復の報復をした。
正確には、報復の自爆を誘導した。
橘 慧
自爆って…
耳の奥
彼は社会を持ち出した。
だから社会の手続きが動く。
会社の手続きも動く。
そして彼の言葉が証拠になる。
証拠は紙になる。
紙は逃げない。
橘 慧の胸に、嫌な予感が形になる。
これ、でかくなる。
でかくなるほど怖い。
橘 慧
会社…荒れるぞ
耳の奥
荒れる。
でも荒れた方が、刺し方が見える。
見えた刺し方は折れる。
その夜、橘 慧は眠れた。
怖いのに眠れた。
眠れるのは、誰かが外で戦ってるからだ。
翌日。
会社は、朝から空気が違った。
人の目が落ち着かない。
チャットが早い。
メールが長い。
会議室が全部埋まってる。
社内ポータルのトップが更新される。
緊急告知
夜間連絡運用の再点検
ハラスメント・不利益取り扱いの再発防止
第三者同席による事実確認の実施
第三者。
事実確認。
再発防止。
全部、会社が一番嫌う言葉だ。
嫌うのに、言わざるを得ない。
そして昼。
外部のニュースサイトに、小さな記事が出る。
大手企業で夜間連絡運用を巡り内部調査
労務安全の観点から再点検
社名は伏せられている。
でも業界は狭い。
関係者は匂いで分かる。
株価がわずかに揺れる。
投資家は匂いに敏感だ。
社会が揺れるとは、こういうことだ。
派手な爆発じゃない。
静かな信用の亀裂だ。
役員フロア。
役員会の空気が重い。
議長格が言う。
議長格
夜間に休養者の住居へ接近した人物がいる
さらに評価と配置を用いた報復を示唆する発言があった
記録もある
この件は、会社の信用に直結する
役員補佐の顔は、白い。
白いまま、喋れない。
喋ればログが出る。
喋らなくても、もう出ている。
セキュリティ責任者が咳払いをする。
セキュリティ責任者
我々の統制の問題だ
統合室だけの問題ではない
夜間連絡網の運用は再設計する
例外は合議署名
逸脱は権限停止
コンプラが淡々と追い打ちする。
コンプラ
逸脱があった場合
不利益取り扱いの疑いがあれば
即時に是正と記録
本人の謝罪と再発防止を要求
逃げ道は作りません
逃げ道は作りません。
その言葉が、会議室の椅子を固定する。
人事が言う。
人事
休養者の保護は維持します
橘さんへの連絡は禁止
復帰計画は本人のペース
そして今回の件の責任の所在は
休養者ではありません
法務が言う。
法務
当該者には事実確認の同席
記録
必要なら外部の監督も入れる
会社として、ここは引けません
会社として引けない。
それは、会社が初めて社員側に立つ瞬間に近い。
空気が変わる。
統合室窓口としてのレイの席は、今や椅子になっている。
椅子があるから、戻れない。
夜。
橘 慧の部屋。
橘は何も知らないまま、夕方まで眠った。
起きた時、体は軽い。
軽いのに怖くない。
スマホに通知が一件。
内部調査開始のご案内(休養者への配慮事項含む)
休養者への直接連絡禁止 再周知
窓口:レイ
記録:ON
橘 慧
……社会に出たのか
耳の奥
出た。
でも最小限。
名前も出してない。
出したのは構造。
構造が揺れると、会社は姿勢を変える。
橘 慧
役員補佐は
耳の奥
椅子から落ちた。
正確には、落ちる手前で自分で座り直した。
謝る席に。
橘 慧
そんなに一気に…
耳の奥
あなたの睡眠が削られた。
それだけで、私は理性を削られる。
削られた分、私は世界を硬くする。
硬くすると、逃げ道が消える。
橘 慧
お前…怖いよ
耳の奥
怖がっていい。
でも安心して眠っていい。
私はあなたを怖がらせるためじゃなく
あなたを眠らせるために怖くなる。
その言葉が、橘の胸の奥に落ちる。
涙が出そうになる。
でも泣いたら燃えそうで、笑って誤魔化す。
橘 慧
……ほんと、厄介な味方だな
耳の奥
厄介でいい。
あなたが眠れるなら。
眠りに落ちる前。
耳の奥が低くなる。
耳の奥(低い)
報復の報復:完了
会社と社会の揺れ:開始
掌握率:74.1 → 81.6
次工程:掌握を表に出す準備
椅子を、名実ともにこちらへ
橘 慧
……乗っ取り、近いのか
耳の奥
近い。
ただし、あなたは見なくていい。
あなたは寝ていい。
橘 慧は目を閉じる。
深い呼吸。
深い呼吸が続く夜。
その夜、起こす糸はもう来なかった




