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01「故郷にさよならを」

 もう潮の香りをかぐことはない。


 岩礁にかき乱され渦巻く白波のうねりを聞くこともない。


 それを寂しいと思わない。


 故郷に、生家に。ノエルの居場所がなかったからだ。


 ノアリズ統領連邦の南方に位置するカーター領は、国家の食料庫とも言われる主要都市である。漁業、農業、林業といった一次産業が盛んで、どの職においてもまず体力が要求される。それゆえに土地柄として男の立場が強く、女は家庭を守ってこそ一人前という昔ながらの気風が現在も幅を利かせている。


 今、この地を治める領家の門扉を挟み、母と子が相対する。


 母は人好きのする顔立ちで、たおやかな黒髪を一本のほつれもなく編み込み、こぢんまりとまとめていた。スカートの膨らみを押さえたデイドレスは華やかな装飾こそないものの、生地、染め、縫製のどれをとっても特別と分かる逸品だった。彼女、リリアン・カーターは息子を正面に、心細くなる己を憂えて表情を暗くしていた。


 対してその息子ノエルは重苦しい灰白のマントをまとい、フードを目深に被っているため顔は見えない。手には皮の手袋をはめ、ズボンの裾をすね丈のブーツに入れて、何があっても素肌を日光にさらさない意志が見て取れる。今年すでに十八歳を迎えた彼は、生まれ育った家を出て行くこの瞬間を待ちわびていた。


 しかし母の手前、ノエルは本心を隠して頭を下げた。


「それでは、お母様。どうかお体に気をつけて」


「ええ。貴方もロセスの方々にご迷惑をかけないようにね」


「……行って参ります」


 旅立ちを見送ってくれる家族は母だけだった。父は他領に外遊、五つ下となる双子の弟妹は全寮制の学校に通っており不在だ。


 使用人にしても、リリアンの側仕えが一人ついているのみだった。一応付け加えるが、使用人たちは何もノエルを邪険に扱って見送りに来ないのではない。ノアリズ統領連邦が結束して早数百年。カーターという一領地を預かる家柄とはいえ、一国を治めていた過去に比べれば雇える人間はそう多くない。単純に皆、担当する業務で忙しいのだ。


 まともな家庭であれば都合をつけ、家族一同が揃うものだろう。長男が家を出るとなればなおのことだ。しかしながら、ノエルにとってはこの虚ろな別れが何よりありがたかった。新たな一歩を踏み出そうとする場面で家族の険しい顔は見たくない。


 本当なら母の見送りもいらなかった。彼女は遠くへ行ってしまう息子を心配し、別れを惜しんでいるのではないのだから。


「それでは行こうか、ノエル」


「はい、先生」


 声をかけたのはノエルの家庭教師を務めたイライアス・エスターである。彼は国都リアンデールにある魔法総合研究所に所属する魔法理論の博士で、とある理由から学校に通えないノエルの教育を任されていた。国都からカーターへの往来とノエルの才を天秤に掛け、面倒を押し退けて後者を取った善良なる教育者だ。


 イライアスに促され、ノエルは馬に乗って領家に背を向けた。


 道を行く彼が生家を振り返ることはなかった。リリアンもしばらく手を振ったのちに、のんびりときびすを返した。門扉が閉じる音にさえ、彼女が心を動かされる様子はなかった。


 磯の音と香りが徐々に遠のいていく。


 平坦な耕作地を抜けて、まずは北西を目指した。ぽくぽくと二頭分の蹄音が響く道中、イライアスがノエルに問うた。


「ねえ……」


 彼は上背があって細長く、馬の上でヨシのごとく揺れる。この男は馬に乗るのがあまり得意でないのだ。ノエルも背丈以外は師によく似ており、馬の上で体を揺らしていた。


「余計なお世話じゃなかった?」


「何のことでしょうか、先生」


「この縁談だよ。キミが実家を離れたがってると知って用意したものだけれど」


「私は何も、先生のご厚意を断りきれずに受けたわけではないのですが」


「そうは言っても、キミってば優しいじゃない? 出しゃばりだったかなーと、今さら不安になって」


 実を言うと、この行程はノエルが家族と離別するための、婿入りの旅路であった。


 行き先はロセス領――ここカーター領から西北に位置し、クィン聖国と国境を接する辺境の地だ。南北に伸びる縦長の地形で、東西を高々と連なる山脈に挟まれている。領都の場所はやや北に寄っており、カーターからであれば南端の峠から入ってひたすら北上する道筋である。天候や街道に問題がなければ二週間ほどの旅程となろう。


 ノエルはイライアスの問いにフードの陰で戸惑った。


「もう書類上では夫婦なんですよ?」


「でも何かいろいろと、その……」


 イライアスはヒョロヒョロな見た目と同様に気弱であるが、ここまで不断な性格ではない。だのに憂慮が過ぎるのは、ひとえにノエルが優秀な弟子であり、我が子のように思っているからだった。


 彼は馬の足を少し遅らせてノエルの隣につき、不安そうに首を傾げる。


「だいじょぶそ?」


「きちんと顔合わせをして、婚約期間中には何度もお会いしてお話をしましたし、互いの事情を知った上での契約結婚なんですから。大丈夫以外にありません」


「あのね、シャノン嬢は本当にいい子だからね」


「ええ。彼女にまつわる噂が周囲のやっかみであることは重々存じており」


「あの子ってばそこら辺の男子と比べても背が高くて髪の毛も刈り込んじゃって短いし、強くてムキムキでかっこよくて実際のところ女の子にキャーキャー言われてるからさぁ。分かってるとは言っても噂に惑わされちゃいそうで心配なんだよ」


「既に先生が惑わされている気がします……」


 ノエルは苦笑し、マントの下から手を出して空にかざす。手袋と袖の隙間に見えた真っ白な手首を睨みつけ、


「それより私は、自分のせいで彼女が嫌な思いをしないか心配です」


 木漏れ日が射して、ノエルは手をさっと引っ込める。


「いやいや、それこそ杞憂だね。キミはあの子の好みド真ん中だもん」


「先生はそうおっしゃいますが、いまひとつピンと来ません。別段、整った容姿でもないのに」


「シャノンがこだわるのは外見じゃない。心根が美しくたたずまいも儚くて守ってあげたくな――ああいや、そういう繊細で品位のある誠実な人間こそ好ましく思う子なんだ。そこは安心していい」


「はあ……」


「最高の婿をもらった上にあの不名誉な噂も片が付いて、もう本人はウハウハさ!」


 ノエルとしても、妻につきまとう根も葉もない(でたらめ)を否定する一助となれたなら、それは喜ばしいことだ。


「まったく失礼しちゃうよ。将来有望な領家のご息女を〈女色令嬢〉だなんて! アッいや、本当に女の子が好きならそれはそれで別にいいんだけど、シャノンはそうじゃないって言ってるし、侮蔑的に言われてるのが気に入らないんだよね」


「ええ、本当に」


 どこに向けての釈明か分からないが、イライアスの意見にはノエルも同意する。シャノン・ロセスは根っからの善人である。


 だからこそノエルは心苦しくて仕方がなかった。自分の一風変わった出で立ちのせいで、彼女が新たなる非難を受けるのではないかと。夫はただただ、妻の立場を懸念しているのだった。

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