朝、まだ眠る夢の中で
【はじめに】
これは、夢を諦めた男が、
もう一度「何かを好きになる」物語。
誰でも、かつては夢中になったものがあった。
だけど、現実という名前のシフトに追われ、
気づけば、手放していた。
それでも――
たとえ世界が灰色でも、
心のどこかで火は消えない。
これは、ただのバイト男・エイリドが、
再び“夢”に触れるまでの、静かな物語。
世界が震えていた。
まるで、寿命の尽きかけた古いモニターのように。
目の前には、机。マウス。キーボード。
いつもの光景。
けれど――両側に立つ人影には、顔がない。
右に五人。左に五人。
彼らは選手ではない。
煙から切り抜かれたような、ただの影。
自分はその真ん中にいた。
ヘッドセットの中で、海のようなノイズがざわめく。
指がマウスをなぞる。
古い。傷だらけ。
それでも、生きているように――彼の呼吸と一緒に脈打っていた。
画面の中央には、十字の照準。
色も音もなく、光と影だけの世界。
「勝つのは、先にまばたきしなかったほうだ。」
――フリック。
――静寂。
――銃声。
影たちが崩れ落ちる。
だが、音はしない。
響くのは、自分の心臓の鼓動だけ。
世界で唯一の音楽のように。
彼は顔を上げた。
ステージ。フラッシュ。歓声。トロフィー。
だが顔はすべてぼやけている。
そして、どこかで声がした。
自分の頭の中から、かすかに。
「お前、ゲームなんてやったことないだろ。
どうして、できると思った?」
答えようとした。
けれど唇は動かない。
喉が乾く。砂を飲み込んだように。
息が足りない。
世界が揺れる。
トロフィーが溶け、手の中で古いマウスに変わる。
すべてが消える前に、彼は自分の声を聞いた。
「……まだ、やってみたいんだ。」
──静寂。
朝の空気が重く、しかしやわらかく部屋を包んでいた。
壁の向こうでは、すでに街が息づいている。
畳の上、薄い布団がずれて、冷たい床に手が落ちていた。
埃と木の匂い、そして微かに漂う機械の熱。
この部屋は――まるで夜通し動いていたPCのように、生きていた。
エイリドはゆっくりと起き上がり、顔をこすった。
指先がひび割れたスマホの画面を探り当てる。
暗い部屋の片隅で、ディスプレイがぼんやり光った。
机の上のマウスが、小さくカチリと鳴る。
主よりも先に目覚めた、忠実な相棒。
左側のキッチンには、昨日のままの皿とコップ。
油の香りがまだ少し残っている。
棚の上には、瓶と段ボール。
この部屋の静けさを埋める、生活の音たち。
彼は立ち上がり、窓を開けた。
冷たい空気が一気に流れ込み、肌を刺す。
外の車の音が遠くに響いたが、この部屋だけは、別の世界のようだった。
廊下をのぞくと、奥のくぼみに白い冷蔵庫。
無言のまま、ひんやりとした安定を放っている。
上には磁石や古い箱。
まるで記憶を積み上げた小さな塔のようだった。
部屋に戻り、湯を沸かす。
その音が、朝のメトロノーム。
彼は部屋を見回す。
「何も変わらない」
けれど、確かに「生きている」。
音楽を流す。
歌詞のないリズム。考えないための音。
机の上には二つの封筒。
白と黒。まるで天秤のように並んでいる。
白い方を開ける。
公式な紙、固い印刷。
次に黒い方。
タバコの匂い。人の温もり。少しの罪。
中身を数える。
およそ四万。
「……これで、また一週間。」
湯が沸く音。
PCのファンが回り始める。
彼は椅子にもたれ、息を吐いた。
モニターを点けると、ニュースの見出し。
大会、ストリーマー、優勝者。
いつもの光景。
「誰かの成功」は、いつも同じ角度で眩しい。
「……俺も、あそこにいたかったな。」
苦笑しながら、画面の中の自分の顔を見つめた。
次の瞬間、手が勝手に動いた。
マウス、クリック。
──『15歳の少年、伝説の試合!』
観客の歓声。
ライト。
そして中央のプレイヤーカメラ。
少年の名は、RINX。
まだあどけない顔。
大きすぎるヘッドフォン。
ブレない視線。
実況が叫ぶ。
「RINX、一人で五人抜きだーー!!」
五発。
五人。
五秒。
世界が爆ぜる。
少年はイヤホンを外し、静かにマイクへ。
「運じゃない。……俺は、このゲームが好きなんだ。」
エイリドは息を止めた。
胸の奥で、何かがクリックする音。
ほんの一瞬――だが確かに、心の窓が開いた。
RINX。
三文字とひとつの音。
その中に、幼さと、情熱と、世界への扉があった。
動画が終わる。
リプレイ。スロー。歓声。
彼の頭の中には、ひとつの言葉だけが残った。
「あいつも、最初はPCをつけただけなんだ。」
プロフィールを開く。
RIN SAEGUSA。
十五歳。
プロチーム《CRYSTA》所属。
種目:Fara-Day。
冷静なプレイと反射速度で知られる若き天才。
コメントが無数に流れている。
「君に憧れてる!」
「RINX、最高!」
エイリドは無言でスクロールした。
自分の名前が呼ばれない世界を、ただ眺めながら。
「……くだらないな。」
そう呟いて、苦く笑う。
「俺はプレイヤーじゃない。ただのバイトだ。」
ブラウザを閉じた。
黒い画面に、自分の顔。
疲れたようで、どこか微笑んでいるようにも見えた。
心の奥で、何かが小さく灯った。
それは夢ではない。
「何かを欲しがる感覚」――その残り香。
音楽が次の曲に変わる。
テンポが上がる。
指先が再び、キーボードの上に落ちた。
彼自身、まだ気づいていなかった。
だが――その胸の奥には、
すでに小さな火が灯っていた。
試合前の、最初の“クリック”のように。




