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第1章:夜の空気は、少しだけ甘い

 細い煙が、ランプの光の中でゆっくりと消えていく。

 タバコではない。

 乾いた花びらと薬草で巻いた手作りの煙草——バラ、セージ、少しのミント。


 頭がぼんやりするような煙じゃない。

 むしろ、ざわついた音や他人の声を、静かに洗い流してくれる。


 エイリッドは深く吸い込み、

 一日の残りを胸から吐き出すように、長く息を吐いた。


 目の前に広がるのは見慣れたクロークルーム。

 暗い木のカウンター。

 ワックスのほろ苦い匂い。

 混ざる香水の甘さ。


 フックには無数のコート。

 毛皮、革、濡れたジャケット、光るレインコート。

 それぞれが、一時だけ脱ぎ捨てられた誰かの人生だった。


 冷房が低く唸り、ハンガーが小さく擦れる。

 まるで水槽の中みたいだ。

 ——彼だけが、同じ円を描いて回っている魚。


 文句なんてない。

 クロークは静かで、顔も少ない場所だ。

 今の彼には、それが丁度いい。


 別の世界では、顔を見すぎた。

 勝敗で人の価値が決まるあの場所では。


 今のエイリッドはただのスタッフ。

 ベストに蝶ネクタイ、電池の弱ったスマホ。

 胸には「Eirid」と書かれた名札。

 唇にはバラと、存在しないタバコの味。


 「まぁ、配信のコメント欄よりは静かだ。」


 彼は自嘲気味に笑い、くすんだ鏡に映る自分を見る。


 目の下のクマ、乱れた髪、まくり上げた袖。

 疲れてはいない。ただ——目を覚ます理由が見つからないだけ。


 ドアの向こうでは、音楽と嘘の笑顔。

 ここでは、番号札とハンガーの規則正しい音。


 心の奥で小さな声が囁く。

 「彼らの目には、俺は何に見えるんだろう。

 家具の一部か、それとも、いつか消える影か。」


 最後の一吸いをして、

 手作り煙草をカウンターの端で押し消す。

 甘くて、ほんのり苦い香りが空気に溶けていく。


 ——いつも通りの夜。

 けれど、皮膚の奥で何かが、静かにくすぶっていた。

 「変わらなきゃいけない」と。


 ***


 扉の向こうのホールは、巨大な獣のように唸っていた。

 湯気と音楽、そして人の群れ。


 最初に来たのは、五十代くらいの男。

 コートの裾は濡れ、指は小刻みに震えている。

 目は落ち着かず、まるで「自分がまだ生きている」と確かめるように動く。


 「寒いねぇ。」

 かすれた声、長年の煙草のせいだろう。


 「中は暖かいですよ。」

 エイリッドの声は穏やかだった。


 男は笑った。

 だがその笑みは、もう熱を失っていた。

 「中はいつも暖かいさ……冷めるまではな。」


 安いコロンの金属っぽい匂い。

 それは、疲れた人間の香りだ。


 ***


 次に現れたのは、シャンパンを持った若い女性。

 派手なドレス、強すぎる笑顔。

 香りはジャスミンとアルコール。


 「ここ、暑いわね。」

 「人の言葉で、部屋まで熱くなってますから。」


 彼女は笑って、目を細める。

 「詩人?」

 「クローク係です。」

 「でも、あなた……記憶する香りの人ね。」


 彼女はシャンパンを口にし、

 泡を唇に残したまま言った。


 「じゃあ、私の香りも覚えておいて。」

 「もう、覚えました。」


 ——その香りには、孤独が混ざっていた。


 ***


 最後の客は若い男。

 安っぽいスーツ、湿った髪、握りしめた拳。

 コーヒーと焦げた電線の匂い——

 夜も明かりが消えないオフィスの匂い。


 「ここ、いつもこんなに騒がしいの?」

 「時々は、騒がしい方がいい。」

 「俺は……静かな方が好きだな。」

 「俺は、誰も“元気か”って聞かない場所がいい。」


 男は小さく笑い、去っていった。

 足音は軽かった。負けを受け入れた人のように。


 ***


 ホールが静まり、残ったのは香りだけ。

 コーヒー、ジャスミン、安いコロン、そしてバラの煙。


 エイリッドは帳簿を閉じ、

 新しい煙草を手に取る。

 「毎日は同じ。でも、匂いは違う。」


 彼は微笑み、ゆっくりと煙を吐いた。


 ***


 やがて、背後からヒールの音。

 イベントマネージャーが現れた。

 タブレットを抱え、焦りの貼りついた笑顔。


 「お疲れさん。全部終わった?」

 「はい、全部戻しました。」

 「助かる。問題なし。」


 男は内ポケットから二つの封筒を出す。

 白と黒。


 白い方には「WorkLink.Pro」——

 イベント業専用の自営業アプリのロゴ。

 黒い方は、柔らかく、タバコの匂いがした。


 「規則ではこっち。」男が白を指す。

 「でも、客からの“ボーナス”もある。秘密だ。」


 エイリッドは両方を受け取る。

 片方は冷たく、もう片方は人の体温を残していた。


 ***


 外に出ると、夜気が頬を撫でた。

 湿った風、草の香り、石畳の冷たさ。

 雨上がりの街が、ランプに照らされて光っている。


 彼は深呼吸した。

 ——煙ではなく、ただの空気を。


 ポケットのスマホが震えた。

 画面に「新しい勤務情報」の通知。


 『バルホール東棟 勤務時間:明後日18:00〜02:00』


 彼は少し見つめて、

 無言で「受ける」を押した。


 「もう一晩。

 もう一つの夜。」


 スマホの光が消える。

 街は静かに息をしていた。


 ***


 部屋に戻る。

 古い階段、軋む床、冷たい扉。

 ベストを脱ぎ、窓を開けると、

 夜の冷気が猫のように入り込んできた。


 簡単な食事——パン、パテ、水。

 胸のポケットには黒い封筒。


 「進んでる……でも、どこへ?」


 エイリッドはそのままベッドに倒れ、

 雨音に包まれながら目を閉じた。


 ——街が眠り、

 彼の中で、次の夜が静かに燃え始めた。

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