さた
圭はそのプログラムのレベルの高さに息をのんだ。理解することはすぐにできた。読みやすいしわかりやすい。時雨がやっているのは現実世界をコンピューター上に再現するデジタルツインの一種だった。人間の体にあらかじめつけておいたセンサーから取得したデータから、人々が病気を事前に知ることができるようにするためのものだ。
その中でも、専門分野は脳。脳をデジタル上で再現し、アルツハイマー病のような脳の病気への治療法をその脳を使って試すというものだった。
つまり、圭のやっていることの発展形かつ、斎藤教授の研究の類似形。斎藤教授が永遠の命を作るために研究をしているのに対して、彼女は脳の病気の治療法を探るためにしているようだったが。
(先生が客員教授として呼ばれた理由は、多分これだ)
時雨のパソコンには、斎藤教授の研究データも送られてきていたようだった。気になって尋ねる。
「あれ、斎藤教授の研究データも見れるんですか?」
「ん?ああ。そっか、早川くんは斎藤教授の紹介でここに来たんだっけか」
時雨はなんてことないように言ってのけた。
「いずれバレるから言うけど、この小鳥遊研究所の生物工学ブースの所長はお兄ちゃんじゃなくて私なんだなー、それが」
「え……聞いていいのかそれ」
「名目上はお兄ちゃんだけど」
圭の疑問を無視して時雨は続ける。やけに早口だった。顔には汗が見える。
「お兄ちゃんは忙しいからねん。これは私が代わりにしてるの」
天才。
その二文字が頭の中に浮かぶ。ほかにどう言えと言うのだろう。圭は自分が同年代の中で抜きんでて優秀であることを自覚していた。その圭をしてなお、そこが知れない能力。
「わたし、お兄ちゃんほどじゃないけど天才だからね!こうやって無理しすぎちゃうお兄ちゃんの仕事を分けてもらってるってわけ」
天才は笑った。圭にとっては笑いごとではない。お兄ちゃんほどではない?そんなことがあってたまるかと思った。自分たちの敵はどれほどまでに強大なのかと考え、体がすくんだ。
「じゃあ、その間、小鳥遊大和さんは何をしてるんだ?時雨ちゃんは学校に行けてないんじゃないか?」
「えーひみつー」
彼女はいつものように答えをはぐらかした。都合が悪くなったから逃げるつもりなのだろうか、と圭は思った。彼女は黒のチョーカーを握っている。やけに焦っているようだった。
そうして小走りに、
「私は眠いから仮眠室行くから。わからないところがあったら言ってねん」
と、圭が引き留める前に仮眠室に引っ込んだ。
(わからない)
圭は、彼女が言えるラインと言えないラインがよくわからなかった。
何かを伝えようとしていることはわかった。訴えかけてくる瞳がその必死さを示していた。
圭にはもう、これが罠だとは思えなくなっていた。
(罠というより、むしろ…………)
時雨の笑顔は、友達が欲しいと、一人は嫌だと無理やり笑っていた小学校時代の紗奈の笑顔に似ていた。
(…………まぁとにかくやるか)
圭はパソコンに向き直った。仕事ができずに追い払われては元も子もない。もともと、時雨はこの作業を一人でしていたと言っていた。信じられない。この量のデータを一人で裁くことが可能だとは到底思えなかった。正直、時雨の半分も作業を進めることはできないだろうと予測していたが、それでもやれるだけはやるつもりだった。
そうして、作業すること3時間。
お昼時になり、休憩をとっていいか許可を取ろうと時雨のいる仮眠室へと足を運ぶ。その手には、斎藤教授から渡された記録装置を持っていた。
ノックをせずに、恐る恐る開ける。靴箱からは寝ているところが見えないことは仮眠室を紹介されたときに確認していたから、大丈夫だろうと判断した。マナー違反ではあるが仕方がない。
圭は、自分の靴を脱ぎ、靴箱に靴を直すときにさりげなく、記録装置を時雨の靴に着けた。
(よし)
コンタクトレンズからその記録装置が記録した映像を確認する。確かに靴箱の壁面が映っていた。
「時雨ちゃん、休憩行ってきていいか?」
返事はない。眠りこけているようだった。
「時雨ちゃん?」
前よりも大きな声で呼びかけてみる。
「――――あ、うん。大丈夫。帰ってくる頃には私お兄ちゃんのところに行ってるからいないけど、気にしないでね」
ヒューヒューと時雨が声を発するたびに、かすかな笛の音らしき音が聞こえた。
「大丈夫か?具合悪いの?」
「あー大丈夫!!寝起きで!!」
時雨が踏み込んでほしくなさそうだったから、圭はそれ以上尋ねるのを止めた。
疑問は尽きないけれどとにかく今日やるべき任務は完了したから、時雨の様子を見る必要はないと判断して、休憩に向かう。
部屋を出てようやく、緊張でバクバク音を鳴らしていた心臓が落ち着きを取り戻した。昼食はサンドウィッチとフライドチキン。圭の大好物である。
明日は紗奈に会えると思うと、圭の心は踊った。インテリアはどうしようかと考えるのが楽しい。あまり紗奈の好みのど真ん中を狙うと、紗奈が訝しむかもしれないから、それは避けた方がいいだろう。だとしたら、どんなインテリアがいいだろうか。紗奈は圭の好みを知っているから、圭の好みをそのまま反映したインテリアにするのも憚られる。
(……明日か)
圭は待ちきれなかった。
***
一日の仕事を終え、ミネルヴァの東京支部にて、今日記録装置からとれたデータを観ようと圭はパソコンを起動する。記録装置はうまく作動していたようだった。
時雨は圭が休憩に行った30分ほど後に靴を手に取り、仮眠室用の靴から履き替えて、小鳥遊大和の研究室の前へと進んでいった。もちろん、人が多い道ではなく、応接室の横を通る通路を使って。
足元からの映像だけでなく、時雨の目線から見える景色まで見ることができる広角カメラのおかげで、圭はそのことがすぐにわかった。
この記録装置を作るまでの教授の苦労を思うと何も言わずにこれをくれたのが信じられないほどだった。
時雨が大和の研究室につくまで早送りをしようかと圭が手を伸ばしたその時、時雨は立ち止った。そうしてその手を空中にかざす。
その場所は、ちょうど応接室の横だった。
「は、なん、で」
時雨の前に、扉が出現した。時雨が手をかざすまで、あんなものはなかった。圭は時間を巻き戻し、時雨が手をかざす数秒前からのデータのコピーをとるために動く。
『おまたせ』
時雨はささやいた。今度は時雨が話しても、ひゅーという音は聞こえなかった。
ためらいもなく、その先へと時雨は足を進める。
「なんだ、これ」
時雨が進んだ先には地獄があった。
罪を犯した者が落ちるとされる、地獄。
もしそこが地獄だとするならば、『それら』は一体何の罪を犯したというのだろう。
どんな罪を犯していたとしても、その罰はあまりに重すぎる。
その罰に相応する罪なんてない。
何より『それら』が罪を犯しているはずがない。犯しようもないのだ。
続きを見てられずに、圭はそこでいったん映像をとめた。
急な衝撃に心が耐えられそうになかった。
「…………だめだ」
見ないといけない。そんなこと、圭が一番わかっている。
圭は強く目をつぶった。そうしてゆっくりと開いた。
「…………よし」
今度こそと、圭は再生ボタンを押した。
――――ぐちゃ、げちゃ、ごちゅ
たとえるなら、人間の業の集合体。
地獄絵図なんて言葉じゃ説明しきれない。
「うそだろ、こんなの」
強烈な吐き気。
画面から異臭がするようだった。
「こんなのが、この世界に……」
あっていい、はずがないのに。
圭の目から生理的な涙がこぼれた。対照的に画面の中の時雨は、幸せそうに笑っていた。
次回、残酷な表現があります。ご注意ください。




