第1話眠ると、知らない世界にいた
乱雑に置かれたエナジードリンクの空き缶。
つけっぱなしのゲーム機。
床に転がるコントローラーのコードは、何度も踏まれて癖がついている。
空き缶の表面には、指で掴んだ跡が白く残り、
いくつかは中身が完全に蒸発したのか、振っても音を立てなかった。
甘ったるい匂いと、わずかに焦げたような電子機器の熱が、部屋にこもっている。
半開きのカーテンの隙間から、
オレンジ色の夕陽が、部屋の奥まで差し込んでいた。
日中よりも柔らかく、
しかし逃げ場のない角度で射し込む光が、
散らかった床や机の輪郭を無遠慮に照らし出している。
カァ、カァ——。
カラスの鳴き声に、現実へ引き戻される。
主人公――**田中三郎(無職)**は、
だらしなく伸びをしながら、震える手でコントローラーを掴んだ。
指先は少し冷えていて、
ゴム部分の擦り切れた感触が、妙に生々しく伝わってくる。
三郎「ふぁ〜……16時か」
壁の時計を、ぼんやりと見上げる。
短針と長針の位置を理解するまで、
ほんの数秒、思考が追いつかない。
三郎「よし。昨日の続きやるか……
トラコンクエストは終わったし、今日はヘイペックスだな。
ランク、ブレデター目指すぞ〜」
独り言と共に、ゲーム機を起動する。
何かに取り憑かれたような指の動きだった。
ロード画面が映るまでのわずかな時間ですら、
彼の視線は画面から離れない。
――――――
18時30分。
トヨコ「三郎、ご飯持って行くわねー」
階段を上る足音と、母・トヨコの声。
三郎は無言で画面を睨み続ける。
イヤホン越しに流れる電子音と、
現実の足音が、微妙に噛み合わない。
トヨコ「あ、そうそう。喜美子ちゃんへのラブレター、見つけたわよ?
読むわねー?」
三郎は弾かれたように立ち上がり、
ドアに耳を押し当てて叫んだ。
三郎「やめろォ!!
ごめんなさい! 可愛い可愛いお母様! 俺が悪かったです!!」
声が裏返り、
必死さだけが廊下に響く。
トヨコ「嘘よー。はい、ご飯置いとくわね」
足音が遠ざかる。
三郎「……なんなんだよ」
肩の力が抜け、
急に空腹を思い出す。
黙々と箸を動かす。
ちなみに、にんじんは嫌いだ。
皿の端に寄せられたオレンジ色のそれを、
最後まで見ないふりをする。
三郎「おい、ナレーション。今それ言う必要ある?」
……はい、次。
三郎「話を逸らすなって!」
風呂へ向かい、久々にシャワーを浴びる。
流行には疎いが、“風呂キャンセル界隈”だけは妙に詳しかった。
シャワーの水音が、
部屋の静けさを洗い流していく。
三郎「だから言うなって!」
シャー……ガチャン。
布団に潜り込むと、
数秒で意識が落ちた。
――――――
三郎「……ん?」
三郎「なんだ……これ……」
頭から、何かが引き抜かれていく感覚。
同時に、心臓が異常な速さで脈打つ。
呼吸が浅くなり、
耳鳴りのような音が広がる。
三郎「(やば……なにこれ……)」
夢だと断定するには、
感覚があまりに生々しかった。
次の瞬間、意識は“どこか”へ放り出された。
――――――
異世界とは——
生活サイクルの崩壊。
白昼夢。
明晰夢。
それらが重なり合い、
眠りの最中、魂が現実と夢の狭間へ迷い込む現象。
この物語では、そう定義される。
――――――
三郎「……う、ん……はっ!」
跳ね起きると、
視界に奇妙な光景が広がっていた。
土の匂い。
湿った空気。
見上げれば、見慣れない空の色。
肺いっぱいに吸い込んだ空気が、
どこか重く、異物感を伴っている。
二足歩行の獣。
杖を持った女。
三郎「……獣と、おばさん?」
「誰がおばさんよ!」
腰に手を当て、頬を膨らませる紫髪の少女。
ヒサト「私、ピチピチの18歳よ!」
声の主――ヒサトだった。
ヒサト「あなた、どこから来たの? 見かけない顔だけど」
三郎「どこって……日本だけど」
(待て。この流れ……)
(異世界系じゃね?)
(ここから勇者になって、無双して、モテモテで……)
三郎「結婚してください」
ヒサト「ば、馬鹿じゃないの!?
いくらなんでも早すぎるでしょ!私まだ——」
三郎「じゃあ離婚してください」
ヒサト「話聞いてた!? しかも言い出したのそっちでしょ!!」
ヒサトは顔を真っ赤にして叫んだ。
ヒサト「……まぁいいわ。日本? 聞いたことない」
三郎(確定だな)
三郎「俺、田中三郎! 勇者になりに来ました!」
ヒサト「王様が言ってた人ね。案内するわ」
こうして、
三郎は最初の村へ向かうことになる。
――――――
【エンジャル武器屋】
天使の像。
光る看板。
どう見ても信用しづらい外観。
看板の光は不規則に瞬き、
羽の欠けた天使像が、妙に生々しい影を落としている。
筋骨隆々、派手なメイクの店主。
キヨシ「あらぁ〜いらっしゃーい」
店内は外観以上に異様だった。
天使の像がいくつも並び、羽根の先が欠けていたり、
どれも微妙に目線が合わない。
壁には金属製の武器が所狭しと吊るされ、
光る看板の明かりが、ギラついた刃に反射している。
ヒサト「この村の看板名物よ。
これなんてどう?100ジュール」
ヒサトが差し出したのは、両刃の刀だった。
刃は左右対称で、
中央の峰だけがわずかに盛り上がっている。
素人目にも、切れ味が良さそうなのは分かった。
※100ジュール=日本円で1万円だった
この世界では標準価格である。
三郎「おぉ……かっこいい。
勇者って感じ!」
刀を握った瞬間、
ずしりとした重みが腕に伝わる。
ゲーム画面でしか見たことのない“装備”が、
現実として存在している感覚に、少しだけ胸が高鳴った。
ヒサト「店長、防具もあるー?」
店の奥から、
派手な物音と一緒に足音が近づいてくる。
「あら、勇者なの?
じゃあ特別に……この店で10番目に高い防具、あげちゃう♡」
そう言いながら、
厚化粧の店主――キヨシが距離を詰めてくる。
笑顔は妙に近く、
香水の匂いが鼻を突いた。
「だ・か・ら……ウブをちょうだい♡」
迫ってくるキヨシ。
三郎は一歩、
無意識に後ずさる。
「また今度で!
てか10番目って微妙だな!
まぁ……ありがとう、おじさん」
反射的に出た言葉だった。
「“おじさん”じゃなくて、
お・ね・え・さ・ん、ね?」
語尾を区切り、
一音ずつ強調するキヨシ。
その瞬間、
三郎はこの店に長居してはいけないと、
本能で理解した。
――――――
村の外。
ヒサト「魔物を倒すとポイントが貯まるわ。
ある程度倒したら戻ってきてね」
柵が、勢いよく閉められる。
その音が、
やけに大きく響いた。
三郎「お、スライムだ!」
(主人公って大抵、最初から強いんだよな)
手をかざす。
だが何も出ない
――バコッ。
次の瞬間。
三郎「……え?」
スライムの大口が迫る。
三郎「待っ、無理、死ぬ——!」
丸呑みだった。
ヒサト「三郎さーん!!」
――――――
三郎「——っは!!」
跳ね起きる。
机の上には、空き缶の山。
窓からは、同じオレンジ色の夕陽。
三郎「……夢、か?」
だが、胸の奥に残る――
あの、引き抜かれる感覚だけが消えなかった。
そして三郎は、
まだ知らない。
この死が、
“最初の一回”でしかないことを。




