エピローグ(3)
「だいぶ良くなっただろう?」
翼の隣に並んで建物を見上げたルシファーが、満足げに言った。
「上層階は、ホテルのときのまま?」
「そのほうが、なにかと都合がいいからな」
悪びれもせず、ルシファーは応える。住まいもかねたこの研究所は、彼がザイアッドから無償で譲り受けたものであり、スラムとは別にできた、もうひとつの安息の場でもあった。
中央塔の崩壊に巻きこまれ、建物の一部は損壊したままになっているが、いずれ施設の拡張に伴い、それらも修繕されていくのだろう。
「シヴァの奴が待ちわびてるぞ」
促されて、翼はルシファーのあとにつづいた。
受付を経てエレベーターに乗りこみ、所長室へと向かう。途中すれ違う所員のルシファーを見る目には、皆、敬意と憧憬がこめられていた。そこにはもはや、スラムにあったときのような恐怖も畏怖も畏縮もない。かつての《セレスト・ブルー》のメンバーが、《ルシファー》は自分たちのボスなのだと研究所の職員をライバル視しているという話が、翼にはとても微笑ましかった。
「シヴァ、翼が到着したぞ」
所長室のロックを解除して、開いたドア越しにルシファーが声をかけると、奥から銀糸の髪の美貌の青年が、優しげな微笑とともに出迎えに現れた。
「ようこそ。ご無沙汰しております」
「ひさしぶり、元気そうだね。ジェニーがくれぐれも君によろしくって」
「無事お生まれになったら、お祝いに伺います」
客人を鄭重に招き入れながら、青年はやわらかに言った。
「ほんと? すごく喜ぶよ。とっても会いたがってたから。君がルシファーに扱き使われてるんじゃないかって心配してた」
翼が言うと、シヴァが答えるより早く、先に奥の間に入っていったルシファーが声だけで割りこんできた。
「逆だ逆。おまえの女房は俺たちの関係を完全に誤解してる。あとできっちり訂正しとけ。毎日俺がそいつに扱き使われて、死ぬほど働かされてるんだってな」
「人聞きの悪い人ですね。あなたが脱線ばかりして、ちっとも真面目に仕事をしないのがいけないんでしょう?」
有能な秘書にピシャリとやりこめられて、執務卓に行儀悪く両足を乗せて座っていたルシファーは、おどけた表情で下唇を突き出した。なごやかな空気が、日頃のふたりのやりとりを窺わせた。
青年は不真面目な上司など無視して、執務卓の手前にある応接用の椅子を翼に勧めた。
「いま、お茶をお持ちします」
言い置いてふたりを残すと、彼は退室していった。
足を投げ出した格好のまま、ルシファーは机上に提出されていた書類を手にとってパラパラと目をとおす。気づまりとは真逆の、穏やかな沈黙がしばし流れた。が、やがて書類を置いて立ち上がると、テーブルを挟んだ翼の向かいに腰を下ろした。
「じつは、おまえに会わせたい奴がいる」
「僕に?」
あらたまった態度に驚いて、翼は尋ねた。ちょうどそこへ、席をはずしたシヴァが戻ってきた。その後ろには、金髪の黒人とその妻である黒髪の美女――深紅のドレスで正装したハロルド夫人とが従っていた。
もう二度と着ない。
白い肌と漆黒の髪、そして華やかな美貌を匂いたたせるそれは、かつて彼女が誓ったはずの、禁忌の色――
「え? クローディア……?」
状況がよく呑みこめず、疑問を口にしかけた翼のまえで、彼らはなにも言わずにわきへ退いた。その向こうに、さらにもうひとりの人物が立っていた。
パステル・グリーンのワンピースにベージュのカーディガンを羽織った、小柄で痩身の少女。その横に、焦げ茶色の犬がぴったりと寄り添って座っていた。
どこか見覚えのあるその貌を、翼は時が止まってしまったかのように凝視した。その瞳が、やがて驚愕に瞠かれていった。
自分がいつのまにか立ち上がっていたことにすら、気づかなかった。
少女はそんな翼を見上げて微笑んでいる。そして、彼女の騎士を自負しているらしき犬も、友好的な表情で尻尾を振っていた。
「――ひょっとして、ジャス…パー……?」
そのひと言を搾り出すまでに、翼にはかなりの時間と労力、そして勇気が必要だった。なぜならそれは、彼の中で、決してありえない事実だったからである。
3年前、翼はたしかに不幸な少女の悲しい最期を看取ったはずだった。その少女がいま、現実に翼の目の前に立ち、はにかみながら微笑んでいた。
「なん…で? ほんとに? ほんとに、ジャスパー……?」
「翼、会いたかった」
少女が両手をひろげて胸の中に飛びこんできた瞬間、翼は、その華奢な躰を力いっぱい抱きしめていた。
「この子の病気を治すためには、きちんとした設備の整った場所と、治療方法を見つけ出すための時間が必要だったの。だから、そういう環境が整うまで、可哀想だったけどずっと眠っててもらったのよ」
この件に関する最大の功労者であろう遺伝子工学の権威の説明に、翼は完全に納得することができず顔を上げた。
「あのとき手を下したのは、ボスでもほかの連中でもなく、シヴァだったでしょう? ああいう状況で確実に急所を狙える技量を持っていたのは、シヴァだけだったのよ。最初の1発目って、麻酔用の弾が籠もってたの」
補足を聴いて、翼は目を瞠った。そして、信じられない思いでデリンジャーとルシファー、それから最後にシヴァを見つめた。
「ごめ……。なんにも知らないで、君に、とても酷いことを言った……」
心から出た謝罪の言葉に、穏やかな微笑を湛えた青年は無言でかぶりを振った。その隣で、彼のボスが少々決まり悪げに黄金の髪を掻き上げながら言った。
「おまえに黙ってたのは悪かったが、成功させられる見通しもつかなければ、確証もかぎりなくゼロに等しかったからな。あの段階では、俺たちにとっても一か八かの賭でしかなかったんだ」
「うん……」
翼は咽喉を詰まらせて俯いた。
眠 り 姫――
スラムでの最後の決戦のとき、ザイアッドが激怒していた『《Xanadu》から医療データを引き出した真の理由』とは、おそらくこのことだったのだろう。そして、だからこそルシファーも、直後の翼の問いに対して明確な回答を避け、曖昧な態度をとりつづけたのだ。
「場合によってはグレンフォードの組織再生と『記憶』の移植技術を応用することも考えたんだが、幸いにもそれには頼らず、治療してやることができた」
そう、説明も加えた。
とても、敵わないと思った。
《ルシファー》という人間は、どこまで遠い未来を見通し、魔法のような奇蹟をその手で実現させてしまうのだろう。
「翼、いま、シヴァに字を、習ってるの」
抱きついていた腕を解いて翼を見上げると、ジャスパーは嬉しそうに報告した。栗色の髪は肩まで伸び、その背はわずかだが、以前よりもたしかに成長して大きくなっていた。
「少しだけど、書けるようになったし、本も、読めるようになった」
「よかったね……」
「また、ときどきでいいから、翼も勉強、教えてくれる?」
「うん、もちろん。僕でよかったら、いくらでも」
「ふたりめの赤ちゃんが、もうすぐ生まれるそうですよ。そしたらお祝いを持って、一緒に会いに行きましょう」
シヴァが声をかけると、ジャスパーは瞳を輝かせて頷いた。クローディアが、「またばっちりドレスアップさせてあげるわ」と片目を閉じた。
「おーい、おっせーぞ! いつまで待たせる気だ」
そこへ、ガラガラとした濁声が室内に響きわたり、一同のあいだに乱入してきた。ルシファーが卓上に置かれた背後の通信機を自分のほうへ引き寄せて、立体画像に切り替える。途端にそこから、《黒い羊》と《自由放任》のトップが並んで浮かび上がった。
「早く来ないと、もうみんな、だいぶできあがってきちゃってるよ」
「なんだ、夜どおしの予定じゃなかったのか?」
「ばっか、昼から飲んでたって、そのまま次の日の朝まで飲んでりゃ夜どおしじゃねえか。こいつらが大量の酒瓶目の前にして、全員そろうまでなんて殊勝な態度でおとなしく待ってるもんかよ。早くしねえとなくなっちまうぞ」
ラフらしい催促に、ルシファーは笑い出した。
「わかった、すぐに行く」
通信を切ってルシファーが翼を促すと、しっかりものの秘書が「まだ勤務時間中ですが?」と釘を刺した。
「かたいこと言うなって。今日はもう止めだ。おまえらも仕事なんか適当に切り上げて、早く来い」
所長の権限を最大限に振り翳して、ルシファーは翼とともに執務室をあとにした。地下へ降りて駐車場に向かうと、専用とおぼしきスペースに、サファイア色に輝く1台のバイクが停められていた。
「軍曹は、ときどき顔見せるの?」
「ごくたまーに、気が向いたときだけな」
「あの事件の直後に軍を辞めて実家に戻ったって聞いたけど、いまはなにを?」
「つい最近、キムたちと警備会社を設立したそうだ」
「え? 13班の人たちと?」
「連中も、ザイアッドのあとを追うようにそろって辞職したからな」
言って、ルシファーは苦笑した。
「あ、そういえばそんな話、聞いてたかも。でもすごいね。あれだけの人材がもとの
職種活かしてSPなんてはじめたら、恐いものなしって感じじゃない?」
「要人警護の依頼がすでに殺到しているようだ」
「やっぱり。だけど軍曹、家のほうは大丈夫だったのかな」
「家督はとうの昔に長男が継ぐことでまるくおさまっていたようだからな。晴れて自由の身といったところだろう」
「そっか。じゃあ、気兼ねなく事業に専念できるね」
「所有地からの収益もそれなりに入るからな。それを元手に、ゆくゆくは福祉関連のNPO法人にも手をひろげていくつもりらしい」
「NPOってところが如何にも軍曹らしいね」
「金持ちの道楽だそうだ」
翼の言葉に低く笑いながら、ルシファーは愛車に跨った。
アドルフ・グレンフォードからこの都市を買い受けた当初、男はすべてを取り壊して更地に還してしまうつもりでいたという。それを知ったルシファーが、所有権を持つ男に提言して踏みとどまらせ、研究都市として再建しなおしたのである。
翼がタンデムシートにおさまってしっかり掴まると、青い車体はエンジンを噴き上げながらかろやかに走り出した。
研究所の建物が、みるみる後方へと遠ざかっていく。
「スラムに行くのって、すごくひさしぶり」
「そのまえに少し寄り道して、海でも見てくか?」
「うん!」
バイクが加速すると、耳もとで風が唸りを上げた。
あれから、随分遠くまで来た。世界の頂点に君臨したグレンフォード財閥とその一族は、在りし日の壮麗な姿を失い、現在、地盤固めをしなおしながら再起を図っている。
あれだけのスキャンダルにまみれながら、組織もろとも壊滅するに至らなかった事実をもってしても、2代目総裁のなみなみならぬ才覚が窺える。一族によって占められていた役員の席は、ほぼ半数に削減され、残った椅子の多くもまた、新総裁の厳然たる意向により新しい風が送りこまれたと聞く。
人は、在るべき場所へ還ってゆくべきなのだと、かつて彼の人物は言った。
そして天空の下、大きく、自由に翔る親友もまた、おなじことを口にした。
だれかが強く望んだなら、いつか、そう遠くない未来に、ドームの天井が払われる日も来るだろう。
そのとき人は、その向こうに、果てしなくひろがる蒼穹の耀きを見るのだ。
ゲートをくぐったバイクは、蒼い流星となって光り輝く世界へと飛び出していった。
【かつて人類は、地上に在って、その豊かで大いなる自然のエネルギーに包まれ、それらに育まれながら暮らしていた。
〈彼〉は言った。人はふたたび、《虚飾》という名の人工の殻を打ち破って、生命力に満ちた懐かしい世界へ還るべきなのだ、と。
目映い光が、圧倒的な力をもって燦然と溢れかえる世界。
筆者はそこで、至高の耀きを放つ蒼穹と出逢った――――】
~ End ~
最後までおつき合いいただき、ありがとうございました。
何か少しでもお心に残るものがありましたら、書き手として、これにまさる喜びはありません。
なお、引きつづき本編登場、公安特殊部隊所属カシム・ザイアッドの本編後日譚となるスピンオフ『金の鳥 銀の鳥』を掲載いたしますので、こちらも合わせてお付き合いいただければ幸いです。




