第13話 薬棚の裏側
翌朝、宿を出ると、村の広場には洗いたての布が何枚も干されていた。診療所から帰った人たちが、家で休めるようになったのだろうか。少し前まで不安そうな顔をしていた村人たちにも、ようやく普段の暮らしが戻り始めているようだった。
けれど、ユイさんはまだ役所の部屋にいる。あの子が自分の口で「毒を入れた」と言った以上、その言葉をただの間違いとして片づけることはできない。
「今日は薬棚の奥にある箱を見せてもらうのでしたね」
隣を歩くノア様が尋ねた。私はうなずいて、昨日の手帳を開いた。
「はい。サエさんは、ユイさんが何度も箱を指さしていたとおっしゃいました。薬を使わないでほしいと頼みながら、なぜ箱まで調べるように言ったのか。そこを確かめたいんです」
「何か隠してあるのでしょうか」
「それはまだわかりません。ユイさんが大切なものをしまったのかもしれませんし、たまたま箱の中身が気になっただけかもしれません」
「そうですね。僕も、見つける前から答えを決めないようにします」
そう言って笑うノア様の手には、紙袋が一つあった。中から焼きたてのパンの匂いがする。
「……それは、もしかして」
「ベンさんの店に寄ってきました。仕事が長引くこともありますから、昼の分を先に用意しておこうと思いまして」
「ノア様は、本当に食事の時間をよく覚えていらっしゃいますね」
「エマ嬢がよく忘れるからですよ」
私は反論しかけたけれど、昨日もお昼を食べるように言われたことを思い出してやめた。ノア様は少し得意そうに紙袋を持ち直した。
役所には、すでにトムさんと薬の管理を担当する職員が来ていた。昨日のうちに薬棚を詳しく調べる許可を取ってくれたそうで、私たちはそのまま診療所へ向かった。
診療所の前には、診察の順番を待つ人が二人いた。町から来たアベル先生が、今日も患者さんを診てくださっているという。私たちは先に事情を説明し、診察が落ち着くのを待ってから奥の部屋に通してもらった。
「お待たせしました。薬を一つずつ確かめるには少し時間がかかりますが、今日なら一緒に見られますよ」
アベル先生は机の上に布を広げていた。預かっている薬を並べるためらしい。
「ありがとうございます。昨日お話しした箱を、まず見せていただきたいんです」
「わかりました。ただ、薬の中身には手を触れないでください。私は医者ですが、見ただけで危険なものが入っているか判断できるわけではありません。必要なら町へ持ち帰って調べます」
「はい。私が確かめたいのは、箱に何が入っていたのかということです」
薬棚の前では、マーク先生が私たちを待っていた。いつもと同じ白い上着を着ているが、今日は少し疲れた顔をしている。
「奥の箱を調べると聞きましたが、あそこには古い薬や余った包みをしまっているだけですよ。何か気になることでも?」
「ユイさんが、箱も見てほしいとおっしゃっていたそうなんです。本人から詳しく聞けていませんので、まず中身を確かめたいと思いまして」
「……ユイが、ですか」
マーク先生は一度だけ奥の棚を見た。それから、職員の方が保管札の番号を読み上げると、黙って棚の前を空けた。
薬棚にはいくつかの段があり、上には包帯や布、真ん中には包み薬が整然と並んでいた。問題の箱は、一番下の段のさらに奥にあった。手前の薬を動かさなければ、正面からは見えない場所だ。
職員が棚の札を外し、薬の数と置いてあった位置を書き留めていく。私たちは手を出さず、その作業を見守った。箱を動かす前には、中身がこぼれないようアベル先生が確かめてくださった。
「これですね」
取り出されたのは、両手で抱えられるほどの木箱だった。ふたの端が少し欠けていて、側面には薄く『予備』と書かれている。木箱の上には布がかぶせてあり、長い間しまわれていたように見えた。
「こんなものがあったんですね」
ノア様が小さな声で言った。私はうなずいた。薬棚の手前だけを見ていたら、気づかなかったかもしれない。
ふたを開けると、中には紙で包まれた薬と、小さな空きびんが並んでいた。どれも特別なものには見えない。使いかけの道具をまとめておく箱なら、こういうものが入っていてもおかしくなかった。
「やはり、古いものばかりでしょう」
マーク先生が言った。
「全部を捨ててしまうのも、もったいなくてね。何かに使えるかもしれないと、残していたんです」
「そうでしたか。いつ頃のものか、覚えていらっしゃいますか?」
「古いものは先月から、最近のものもあるでしょう。そこまで一つずつ覚えてはいませんよ」
職員が箱の中身を一つずつ机に置き、数を記録し始めた。アベル先生は薬の包みを取り、外側の紙を見比べている。
「この青い丸印は、村の方が持っていた包みにもありましたね」
「はい。カズさんの家と、畑仕事をしている男性のお宅で見つかっています」
「ただ、同じ印だから同じ中身とは限りません。包んだ日や、もともと入っていた薬が違うこともありますからね」
私は手帳の該当する部分に印を付けた。ここで薬が見つかっても、それだけでユイさんのしたことがわかるわけではない。
けれど、箱の底が見え始めた頃、職員の方が不思議そうな声を上げた。
「……あれ。この紙、箱に張りついていますね」
見ると、底の板と側面の間に、折りたたまれた紙が挟まっていた。薬を取り出したときに見つかったらしい。職員はその状態を記録してから、破れないように取り出した。
紙は二枚重なっていた。一枚は薬の数を記した古い控え。もう一枚は、町から診療所へ送られたらしい知らせだった。
「文字が少し薄くなっていますが、読めそうですね」
トムさんが机に置き、皆が見えるように広げた。私も許可を得て、横からのぞき込む。
『青い丸印の薬について、保管中に変化が見つかったとの知らせがありました。安全が確かめられるまで、同じ時期に届いた薬は使用を控え、町の担当者へ返してください』
下には、八日の日付が書かれていた。
「……八日?」
思わず声が出た。
ハナさんが薬を受け取ったのは十日。畑仕事の男性は十一日。カズさんの家には、九日に薬を飲んだと書かれた包みが残されていた。
もし、この知らせが本当に八日に届いていたなら、村人たちが具合を悪くするより前から、薬の使用を止めるよう求められていたことになる。
「これは町からの正式な知らせでしょうか?」
私が尋ねると、アベル先生は紙をじっと見つめた。
「書き方は見覚えがあります。でも、私がここで本物だと言い切るわけにはいきません。町に同じ知らせの控えが残っているか、確認してもらいましょう」
「わかりました」
私が答えるより先に、マーク先生が口を開いた。
「その紙なら、覚えていますよ。薬に何か問題があるかもしれないと、町から知らせが来たんです。でも、結局は大したことではなかったのでしょう? こちらでも調べましたが、特に変わったところはありませんでしたから」
「使用を再開してよいという知らせも、届いたのですか?」
アベル先生の問いに、マーク先生は眉を寄せた。
「そこまでは……。ただ、村には薬を必要としている人が大勢います。いつまでも使わずにいられるわけではありませんよ」
「お気持ちはわかります。しかし、この紙には使用を控えるよう書かれています。安全が確かめられるまで、という条件もあります」
「……そんなことを言われても、町の人には村の事情がわからないでしょう」
その言葉には、怒りより疲れがにじんでいた。マーク先生は本当に、長い間この村の人々を診てきたのだと思う。ハナさんもカズさんも、何度も助けてもらったと言っていた。
だからこそ、私は確かめたかった。
「先生。この知らせを受け取ったのは、いつでしたか?」
「日付の頃だったと思います。八日か九日か……それはもう、正確には」
「では、そのあと青い印の薬を使った方がいらしたことは、ご存じでしたか?」
「薬を渡した日は記録帳にあります。それを見ていただいたでしょう」
「はい。ですので、記録とこの知らせを並べて考えたいのです」
マーク先生は答えず、机の上の紙を見た。
私は言葉を選んだ。使用を控える知らせがあったことと、薬が危険だったことは同じではない。知らせを受け取ってから何があったのかも、まだ調べなくてはいけない。それでも、薬のことで困っていた村人たちに、この知らせが伝わっていなかったのは気になった。
「先生は、十三日に役所へ『誰かが毒を入れたかもしれない』と届けていらっしゃいますね」
「ええ。具合の悪い人が続き、あの日にはびんまで割れたのですから、疑うのは当然でしょう」
「そのとき、この八日の知らせについても、役所に話されましたか?」
トムさんが顔を上げた。昨日見せてもらった届け出の記録には、そんな話は書かれていなかった。
「……話していないかもしれません。騒ぎが大きくなって、そこまで頭が回らなかったんです」
マーク先生は額を押さえた。
「私はこの村の医者です。患者を助けたくて薬を出していた。それなのに、まるで私が悪いことをしたように言われても困りますよ」
「先生が何を考えて薬を出していたのかは、まだわかりません」
私は静かに答えた。
「ですから、今日は先生を責めに来たのではありません。ユイさんがどうして薬を止めようとしたのか、その理由を確かめに来たんです」
マーク先生はしばらく黙り、やがて小さくうなずいた。
箱に残っていたものをすべて記録し終えると、アベル先生が薬の包みを別の布の上にまとめた。町から届いた知らせが本物かを確かめることと、同じ時期の薬がどれだけ残っているかを調べることになった。中身の確認には、まだ時間が必要らしい。
「薬が危ないと決まったわけではありません。ただ、今の段階で使わないという判断は、間違っていなかったと思います」
アベル先生はそう言った。私はほっとして、頭を下げた。
「ありがとうございます。村の皆さんにも、必要以上に怖がらせないよう伝えたいです」
「ええ。原因がわからないときこそ、わからないと正直に話した方がいいですからね」
その言葉を聞いて、私は少し考え込んだ。村の人たちは、診療所がなくなるのが怖くて、知っていることを話せずにいた。もし薬のことを安心して相談できていたら、もっと早く何かが変わっていたのだろうか。
診療所を出たあと、私たちは役所へ戻った。トムさんは町へ知らせを確認する手紙を出す準備を始め、ノア様は薬の保管や診察の手配について職員と相談してくださった。
私は一人、手帳に今日のことを書き込んだ。
八日付の知らせが、薬棚の奥から見つかったこと。そこには、青い丸印の薬を使わずに返すよう書かれていたこと。十三日の届け出には、その知らせが書かれていなかったこと。
どれも大切な事実だと思う。けれど、まだわからないこともある。
ユイさんは、いつこの紙を見たのか。どうして奥の箱を知っていたのか。そして、あの日、何をしたのか。
「エマ嬢、お昼にしましょう」
ノア様が戻ってきて、朝の紙袋を机に置いた。パンは少し冷めていたけれど、甘い香りは変わらなかった。
「今日は忘れていませんでしたよ」
「本当ですか?」
「……ノア様が戻るまで、待っていただけです」
「それなら、そういうことにしておきましょう」
二人で笑っていると、役所の戸がたたかれた。入ってきたのは、今朝も診療所へ同行してくれた職員だった。手には薄い紙を一枚持っている。
「エマ様。さっきの木箱の中身を整理していたら、箱の裏側にも文字があるのに気づきまして。取り出す前の記録と見比べて、こちらに写してきました」
「箱の裏側、ですか?」
「ええ。底の板に、鉛筆で小さく書いてあったんです」
差し出された紙には、子供が急いで書いたような文字が並んでいた。
『これは、捨てないでください。おじいちゃんの薬のことを、確かめてください。ユイ』
私は思わず、息を止めた。
あの子は、薬のことを忘れてほしくなかったのだ。何が起きたのか、自分ではうまく話せなくても、誰かに確かめてほしいと思っていたのかもしれない。
もちろん、この文字が本当にユイさんのものかは、本人に聞かなければならない。彼女が薬に何もしていないという証拠にもならない。それでも、初めて会った日に何度も薬のことを気にしていた理由が、少しだけわかった気がした。
「ノア様。もう一度、ユイさんに会わせていただけるでしょうか」
「もちろんです。面会の手続きを頼んでみましょう」
私は紙を見つめた。毒を入れたと言い続ける少女が、誰かに残そうとした小さなお願い。
今度こそ、その言葉をきちんと聞きたいと思った。




