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とある人物が――――壁によりかかり、静かに眠っていた。
規則的にして静かな寝息。肩がゆっくりと上下に動いている。
先ほどまで、雨粒が窓ガラスを叩いていた音は消え失せ、静寂が夜を埋め尽くしていた。
冷え切った室内。明かり一つない漆黒の闇。
突如……体に、目に見えぬ何かが入りこみ、僅かに体が跳ねた。
寝息が退いて、停止する呼吸……。しばらくして小さく咳き込む。
額から、玉のような汗がぶわっと噴き出す。
急激に空気を吸い込み、全身に鳥肌を立たせ。
――――『白惡』のフェンデンスは目を覚ます。
彼は立ち上がることなく、壁に寄りかかったまま、体の痛みを感じる。
それは、今ある肉体が受けているものではなく。
死ぬギリギリまで金平一穂の中にいた時に受けた痛み。違う体に移ろうとも、切り離された時の痛みは心の中で鮮明に残っている。体半分と腕に電流が流れるような痛みが続く。幻痛であるのは判っているが、他の体に幾度となく乗り移り続けていたフェンデンスは良く理解していて、こればかりは魔術でどうにかなるものではないと諦めていた。
うっすらと目を開け、誰も居ない空間に向かって話し出す。
「……………………くっ、あんな体では、できることに限界があったか。いや……例え良質な体を手に入れようとも、あの加速魔術の前ではどうにもならなかった。…………ははは。とんでもない人間がいたものだな。人類も時間を追うごとに確実に力をつけているということか。少し遊びすぎたようだが、計画に落ち度はなかった。あの男が、規格外すぎたのだ。…………もし、君だったら――もっと上手く出来たのかもしれないのかな?」
彼は自分の――今は自分の体の、顔半分を撫でた。
「異界を作るのには、骨が折れたものの、得られた成果は大きい。ブラックボックス…………連中の裏にいる者の存在が解ったのだ。これは大きい。――ヤツをつかって、しばらく小さな混乱を内界で起こして貰うとしよう」
フェンデンスは自らの首に手をかけて、締め上げた。
苦しさ……感覚を楽しむかのように、薄く笑う。
生きている実感が、苦しさの中で悦び暴れ回る。
手を離すと、頭に戻ってくる血流。こめかみがドクドク脈打つ。
久方ぶりに味わった高揚感。戦う事から離れていたフェンデンスは、まだ夢の中にいるような興奮が覚めやらなかった。
「余自身は、しばらく活動は控えた良さそうだな。――流石に君を知られ失ってしまったら、外界に居れる接点を失ってしまう。それだけは避けたい。それに長い付き合いである、君を失うのはじつに惜しい。君もそう思うだろう? ■■■。また君とはじっくり話したいモノだ。再会を心待ちにしている。…………共に、あの場所へ帰るまで」
体の持ち主の名を呼ぶ。その声は本人には届いておらず、
フェンデンスの意識が、深く溶けて沈むと、
また、穏やかな寝息が戻るのであった。




