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菊が舞う  作者: 山桜影
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足枷の音

「普通でいてほしい」──その一言が、娘を十年も遠ざけてしまった。

愛ゆえの願いは、いつしか娘を傷つける刃となり、私の手を血で染めた。

その想いの行き違いが、私たちを長い沈黙に閉じ込めた。


物心ついた頃、私は気づいていた。

自分の思う「普通」と、世の中の言う「普通」は、どこか違うことに。

同級生の友人が異性に対して恋心を抱くのを全く理解できなかった。友人が恋バナをしているときにただ苦笑いするしかなかった。異性のことを好きになる感情がどうしても理解できなかった。


高校三年の夏。

私は初めてクラスメイトの男子に恋をした。

整った顔立ちと優しい性格に心を惹かれた。

そのままずるずると片思いのまま半年が経ち、卒業式直前になってしまった。

彼は東京にある私立大学に進学し、私は地元に残る。

このままでは後悔が残ると思い、卒業式の当日に気持ちを伝えることにした。


「話したいことがあるんだけど、二人きりでいい?」

彼は笑いながら言った。

「何?告白?俺、ホモじゃないし。きもいんだけど……」

言葉がただただ喉に詰まり、息ができなくなっていた。

この日を境に私は世の中の「普通」に合わせて生きようと誓った。結婚をして子供を持つ、そんな普通の幸せを望むようになった。


娘から約十年ぶりに電話がかかってきた。

「もしもし……」

「あ、もしもしお父さん?」

十年ぶりの娘の声に涙が出そうになった。

「あのね。伝えたいことがあって電話したの。」

まるで世界の終わりを告げるかのように娘は告げてきた。

「結婚式あげるの……だから来てほしい」

娘がついに「普通」になったのだと、そう思えた。

「紹介したい人がいるから、直接会いたい」

「……知り合いがやってるジャズ喫茶があるから、そこでいいか?」

「うん、いいよ」

電話を切ると、私は嗚咽を漏らした。


大学時代は一切恋愛に関わらず過ごした。同性愛者が集う場所も知っていたが、近づかないようにしていた。

そのまま大学を卒業して、そこそこ大きめの中企業に就職をした。

恋愛に無縁の生活をしていると、三つ下の入ってきたばかりの新入社員に告白をされた。それがのちの妻だ。

私は妻を愛すことができなかった。高校生のときのように心を焦がすことはなかった。

それでも妻は私に寄り添ってくれた。

だから、せめて妻の望みを叶えようと思った。

結婚して一年後、娘が生まれた。

指を握り返してくる小さな手が、たまらなく愛おしかった。


私はいつも通り、旭のバーに向かった。

「いらっしゃい。お、いつものでいい?」

「ああ。たのむ」

哀愁漂うピアノが聞こえる中で、ブルドックをゆっくりと口に含んだ。

「……今度娘に会うことになったんだ。」

旭はグラスを拭く手を止めた。

「え!あの、十一年も疎遠だった?」

「一週間後。ここで。」

旭は天使を見るように、斜め上を静かに見上げていた。


娘には"普通"であってほしいと願っていた。自分のような想いはしてほしくなかった。

娘が高校生になったある日、娘の帰りが遅くなる日が続いた。

理由を聞くと「彼女がいるの」と言われた。

その言葉に、ただ言葉が頭の中をぐるぐると巡るだけだった。その渦から飛び出した言葉が、「普通でいてほしかった」だった。

限りなく小さい声が、娘を泣かせた。

部屋に篭った娘に語りかける妻の声が階上で響いた。


娘はどんな相手と来るのだろうか。心臓の鼓動と軽快なピアノが耳に響いていた。

「大丈夫だよ」

いつの間にか旭が隣に立っていた。


店のドアが開く音がした。

私はその光景を信じられなかった。大人びた娘の隣に女性が立っていた。

「お父さん、久しぶり」

「お世話になってます。菊と申します」


話を聞くと二人は大学で出会い、パートナーシップを取得した今のタイミングで、式をあげるらしい。

いい時代になった。

「楓、今は何してるんだ?」

「光庭美術館で学芸員してる」

「エロワの特別展、行ったぞ。」

「あ、それ、私が担当したやつ。」

そうか、楓もエロアを知っているのか。あの淡い絵を。


三十分ほど経って、重い口を開いた。

「あのな。父さん……あの時のこと、謝りたかったんだ。本当にすまなかった」

楓がこっちを凝視した。菊さんだけが何も知らない生まれたての小鹿のようだった。


「父さん、実は同性愛者なんだ。」

私は全て話した。

高校時代のこと、妻のこと、そして楓のこと。

二人は終始、聖歌を聴くように静かに耳を傾けていた。


「ありがとう。教えてくれて。」

やっと世界に認められた気がした。

店を出ると、小さな音が聞こえた気がした。

──まるで長い足枷が外れたような音だった。


会場のドアを開けると、午後の光がステンドグラスを通って床に模様を描いていた。

ピアノの音がやわらかく響き、人々の笑い声が花のように散っていた。


披露宴の終盤、司会の声が会場に響いた。

「それではここで、早瀬朔様よりご挨拶をいただきます。」

一瞬、世界が静まり返った。静けさの世界で楓は天使のように優しく笑っていた。

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