菊が舞う
彼女は中庭で淡い黄色の花にカメラを向けていた。
「何撮ってるんですか?」
「ヘリクリサム。」
か細い声でそう答える彼女が、昨日ステージで力強く舞っていたとは信じられなかった。突然、カシャコンと力強くカメラが鳴った。その音を聞いて初めて、自分に向けられたカメラだと気がついた。
「ごめんなさい。美しかったので。」
そう呟いた彼女の顔は、十年経った今でも写真のように鮮明に覚えている。私は目の前のベッドに眠る菊の手を握り、出会った時のことを思い出していた。
電話をもらったとき、深海に潜ったような気持ちになった。目の前が真っ暗で、心臓が圧力で押しつぶされそうだった。電話はお義母さんからで、菊が中央病院に運ばれたと告げられた。菊が家を出て1時間後のことだった。
お義母さんが、警察から聞いた話を話してくれた。菊は居眠り運転をしていた車に撥ねられたそうだ。不幸中の幸いは、運転手が直前でブレーキを踏んでいたことだった。菊は頭をぶつけて気を失っていたらしい。窓から見える並木の枝木と部屋の時計が静かな音楽を数分間奏でているかのように、淡々と明かされた。
「楓くん……伝えるかどうか迷ったんだけど……お医者さんにね。菊は後遺症が残るかもしれないって言われたの。」
彼女の表情は、生まれたての狼のようでもあり、長く生き延びた年老いた鹿のようでもあり、複雑だった。
それからどれほど経っただろうか。誰かが言っていた、静寂が最も美しい音楽であると。あの意味がようやくわかった気がした。もしあの世に天国があるのなら、きっとこんな空気を纏っているのだろうかと、無神論者のくせにそんなことを考えていた。
「……かえで?」
一瞬、天使に囁かれたのかと思った。菊があどけない子犬のような眼差しで私を見ていた。
ドアの開く音に気がついたとき、隣にいたはずの人影はもう消えていた。
「……なんで泣いてるの?」
そう彼女に問われて初めて、涙が頬に一筋伝っていることに気づいた。
お医者さんと菊の母が部屋に入ってきた。
「問題なさそうですね。明日また精密な検査をしましょう。」
義母さんの気遣いで私は家に帰った。明日はどうしても休めない日だった。私が担当した企画展の初日だからだ。ベッドに横たわり、目を覚ましたばかりの天使のことを考えていた。
朝起きてから足取りが重く、水の中を歩いているようだった。職場に着くと、桜さんが声をかけてきた。
「珍しいね。当日に有休取るなんて。しかも晴れ舞台の前日に。」
彼女は職場で唯一、私の恋人のことを知っている人だ。昨日の出来事と、菊の記憶障害の可能性を話すと
「電話出てもいいからね。」
今回の美術展の企画責任者でもある彼女はそう笑った。
十時になり、多くの来館客でギョッとした。私が選んだ画家にみんなが興味を持って来ているのだ。その画家は写実的だが淡い色使いが評判で、存命中は無名だった。八年前、学生の頃に今の職場の太陽光の入る展示室でその画家の作品を見た時、私はふたつのことを思った。一つはここで働きたいということ。もう一つは菊の写真みたいだな、ということだった。
結局、私はこの美術館で学芸員になり、菊は年数回の個展を開くほど有名な写真家になった。菊はデジタルを使わずフィルムだけで撮る。そのため、現像時に色味を巧みに調整する。私も習ったがうまくいかなかった。
「回数あるのみだよ。」
彼女はそう言った。
昔のことを思い出していると、ポケットの電話が鳴った。近くの同僚に桜さんの場所を聞くと、
「秋葉さんなら第三特別展示室にいると思うよ。」
と返答があった。私は太陽光が入る部屋で佇む桜さんに事情を話して、席を離れる旨を伝えた。彼女は天使の梯子を描いた二メートルはある大きな作品の前で、神に祈る修道士のように胸の前で手を絡めた。
電話に出ると義母さんだった。 私が受話器をとると、淡々と告げられた。
「楓くん……あのね、菊には記憶障害が残ったの……新しい記憶から消えていくそうよ。いずれ私のことも楓くんのことも、きっと忘れてしまう。」
私はその場で立ち尽くした。聖歌の一節が聞こえた気がした。
第三展示室に行くと桜さんの視線は私の胸の内を問うていた。私はゆっくり首を横に振ると、桜さんは私に近づいてきた。
「記憶障害が残ったそうです。」
「……皮肉ね。名前は麦原菊で、永遠の思い出なのにね。」
私は一瞬何を言っているのかわからなかった。麦原菊はヘリクリサムの和名で、花言葉が永遠の思い出だというのだ。本当に皮肉だと思った。秋葉桜という名前の彼女に言われたのだから。
閉館時間とともに病院に向かった。病室を開けると、思ったより元気な天使がいた。母と目を合わせると彼女は小さく首を横に振った。どうやら話していないらしい。私は菊の手を握ると、一筋の生暖かい涙が頬を伝った。義母さんは医者に呼ばれ部屋を出た。
「ねぇ、楓。私ってなんともなかったの?お母さんに聞いても誤魔化すだけで、ちゃんと答えてくれないの。」
「大丈夫だよ。きっと。」
結局、私も誤魔化してしまった。
ドアノブに手をかけて部屋を出ようとしたとき、義母さんの小さな声が聞こえた。
「付き添いに来ている彼女に判断は任せます。きっと私より彼女の方が付き添うことになるから。」
私は複雑な気持ちで家に帰った。
家に帰り、久しぶりに古い写真を引っ張り出した。学生時代に持っていた小さなデジタルカメラで撮った、ステージで力強く優雅に舞う菊の写真だ。写真を見て初めて彼女と出会った時の思い出に浸った。彼女が忘れてしまうなら、私が残そうと決めた。
翌朝、菊からもらったフィルムカメラを持って病院へ向かった。退院が早くて安心している自分と、いつ彼女に後遺症の話を切り出そうかと悩む自分がいた。
「え!カメラ持ってるの、珍しい。」
笑って驚く彼女をカメラに収めた。カメラがシャッと唸った。
それから毎日、私はカメラで何かを撮り続けた。菊のことも、一緒に見た景色もあった。菊は一週間に一度、定期検診に通った。
「昨日何食べたかとか、認知症みたいなこと聞かれるの。」
毎回、そんな文句をこぼしていた。
菊が倒れてちょうど一か月後、36枚撮りのフィルムを撮り終えた。菊が検診に行っている間に、仕事に行くと嘘をついて菊の実家を訪れた。
リビングに上がると、線香の匂いが漂っていた。痩せこけて笑う男性の写真が置いてある仏壇が目に入った。義母さんに案内され暗室に入ると、机にある古びたノートが目に入った。そのノートを見ると、明らかに菊の文字で丁寧に現像の方法が書いてあった。
「これって菊が書いたノートですか?」
「あら、懐かしい。それね。お父さんが書いたノートなのよ。」
菊は父の死後半年ほど引きこもっていたらしい。そんな彼女を立ち直させたのは、写真だった。菊の実家に暗室があるのも、菊のお父さんが使っていたからだそうだ。
暗室で現像の準備をしながら、自分の家族のことを思った。私の父親は私が"普通"でないことを嫌い、高校生の頃、彼女ができたことで「普通でいてほしかった。」と言われた。結局、その言葉で元カノと別れ、大学の進学時に父との縁を切った。
私は乾燥室に現像の終わったフィルムを吊るして、義母さんのもとへ。暖かいお茶と茶菓子があった。
「どう、現像は?」
「良さそうです。」
「……話すか決めたの?」
時計の針の音が静かに響く。
「すぐに決めなくていい。私も菊に話していないことがまだあるから。」
義母さんは紙を取り出し、ステージⅡの大腸がんの告知書を見せた。
「治るかもしれないけれど、確実に楓くんの方が長く菊に寄り添うわ。」
乾燥が終わるのを知らせるタイマーが鳴り、私は現像を光に透かしながら、どの写真を印刷するか考えた。天使の梯子の写真の現像が進む中、菊に記憶障害のことを伝えようと決めた。
「私は記憶障害のことを菊に伝えます。だから義母さんもガンのことを伝えてください。」
義母さんはゆっくり頷いた。
帰り道、道路脇に咲くヘリクリサムが舞うのを眺めていた。




