第2章 スラムの邂逅
灰色の夜が街を覆っていた。
かつては繁栄の中心だった区域――今はアーガスノルンの管理から外れ、
廃ビルと腐った鉄骨が並ぶスラム街となっている。
レイは、壊れた街灯の下で息を潜めていた。
マナ残量は「0.8単位」。
体の奥が軋むように痛む。
ふと、視界の上方に、色とりどりの光が瞬いた。
高層ビルの壁一面に貼り付いた巨大なデジタルサイネージ。
そこに、アーガスノルンのロゴが浮かび上がる。
――「ARGUS NORN」
荘厳な音楽と共に、男の穏やかな声が流れ出した。
「人類の繁栄・安寧・幸福を、我々は実現します。
全てのステークホルダーに実りある人生を提供するために、
アーガスノルンは歩みを止めません。」
映像の中では、白い制服を着た子供たちが笑い、
空を飛ぶ都市輸送艇が、美しい軌跡を描いていく。
だがその下の現実は――
瓦礫の街と、飢えた人々のうめき声。
「……笑わせるな。」
レイは呟き、血の混じった唾を吐いた。
マナに支配されたこの世界で、幸福を語るその声が、何よりも残酷に響く。
背後で、錆びた鉄板が軋んだ。
振り向くと、フードを深くかぶった女が立っていた。
その姿を見た瞬間、レイの全身が強張る。
「……また、お前か。」
エリス・ヴァンデル。
白銀の軍服は汚れたコートに隠され、軍章も外されている。
周囲に監視ドローンの反応はない。
彼女は単独で、ここに来たのだ。
「あなたを探しました。」
「俺を? 処分命令が出たんだろ。わざわざ、殺しに来たのか。」
「……いいえ。確認しに来たの。あなたが“まだ人間かどうか”を。」
レイは鼻で笑った。
「人間だと? こんな体になって、もう分からねぇよ。」
「でも……あなたの目は、あの日と同じだった。戦場で、仲間を守ろうとした時の。」
その言葉に、一瞬、レイの呼吸が止まる。
エリスは続けた。
「私たちは“管理”の中で生きる。
マナが私たちを健康にし、秩序を守り、幸福を与える。
でも……それは本当に“幸福”なのかしら。」
遠くでサイネージが切り替わる。
今度は、総帥アーガスⅨの顔が映った。
白髪の男が微笑みながら語る。
「すべての命は、マナによって再構築される。
それこそが、人類進化の最終形である。」
レイはその映像を睨みつけながら、低く呟いた。
「……あいつらは、神にでもなったつもりか。」
「ええ。だからこそ、あなたが生きている意味がある。」
「……意味?」
「“エラー”は、システムを壊す鍵になる。」
エリスは懐から小さなデータチップを取り出し、レイに差し出す。
「これは、あなたの処理記録。削除されたはずのデータの一部。
あなたを“再利用対象”に選んだ議会議員の名が入っている。」
「議員……?」
「アーガスⅨの側近。――“人間実験部門”の責任者よ。」
レイはチップを受け取り、拳を握り締めた。
周囲のネオンが瞬き、サイネージが再び宣伝映像に戻る。
「アーガスノルンは、あなたと共に未来を創ります。」
エリスはフードを深くかぶり直し、背を向けた。
「追っ手が来るわ。――南の下水区に避難して。明日、そこで。」
「おい、なぜ俺を助ける?」
「……私も、“エラー”なのよ。」
そう言い残し、彼女は霧のように暗闇へ消えた。
残されたレイは、空を見上げる。
サイネージの中で、幸福そうな笑顔が繰り返し映し出されていた。
「人類の繁栄・安寧・幸福を我々は実現します――」
レイの瞳に、青白い光が反射する。
「……なら、俺はその“繁栄”を壊してやる。」
その瞬間、遠くの街角でマナ警備ドローンの赤い光が灯る。
逃亡者の座標を捕捉。
レイは息を吐き、立ち上がった。
夜のスラムに、低い雷鳴が響いた。




