第七十二話 歌人の熱情
まずいね。今日はちょっと、いやかなり冒険し過ぎたかもしれない。
暮れ行く民家が並ぶ表通りを足早に抜けながら反省する。
人通りはまだ結構あるが、誰も僕のことを怪しい視線で見ることはない。どこから見ても宿へ急ぐ旅人にしか見えないだろう。
背中に背負った楽器がカタカタと音を立てて腰にリズムよく当たる。時々腰骨に当たって地味に痛い。
大きな楽器は逃げる時は邪魔で仕方ないな。とは言っても大切な物だから手放せはしないのだがーー
そんな事を考えながら、片手で楽器を押さえて進んだ。少し見た目が悪いがこの際仕方ない。
その姿勢を維持したまま、小走りで王都の郊外へと飛び出した。
しばらく進んだところで一度大きく息を吐いた。
そして、周囲に誰もいないことも、誰もつけて来ていないことも確認する
「……どうやら追っては来ないようだね」
僕は今度はゆっくりと息を吸い込んで体を休めた。空気が美味い。ここ最近息した中ではかなり美味く感じた。
それもそのはずだ。僕は今の今まで緊張で体が強張っていたのだからね。楽器を押さえていた手なんか疲れで手が震えているくらいだ。
……それにしてもあの少女には驚かされたな。
一息ついたところで僕は今日出会った少女のことを思い出す。そしてついつい口元を緩ませてしまう。
何と言っても容姿が僕の好みど真ん中だったのだ。初めて見た時は天使かと思ってしまったくらいだ。
光を全て吸収しそうな黒い髪。全てを見透かし取り込んでしまいそうな赤い瞳。ほのかな花の香りが鼻腔を満たし、少女の可憐さを引き立てる。
背丈は低いが、時折見せる大人の表情に心躍らされた。初対面の男に物怖じしない図太さも良かった。
自分の両肩を強く抱きしめ、服に残った彼女の残り香を摂取する。
香りなどとうの昔になくなっているのだが、それでも僕の鼻は何かの錯覚で彼女の香りを脳内で再現した。
あの香りは上院貴族ご用達のセテミルの花だ。上品でそれでいて、くどさを感じさせない甘い香り。最高だ。
僕は神など信じる口ではないのだが、この出会いはまさに運命だ。そう言わざるを得ない。
この世には、これほどまでに美しい人がいるだなんて思わなかった。
目を閉じればフードの隙間から覗く整った顔が蘇る。ほとんど表情が動かない少女なのに何故か惹きつけられる。今まで会って来た女性の中でも群を抜いている。
そう思うと、途端に胸を掻き毟りたくなって、身を思いっきりよじってしまう。こんな感情は生まれて初めてだった。
少女を思い出すたびに胸が熱くなるこの感覚。息遣いも浅く早くなっていく。
それが何かはもう答えが出ている。
僕はその答えを心の中で叫んだ。
年下だなんて関係ない、僕は、僕は彼女に一目惚れしてしまったんだ!
過ごした時間が、愛の深さに関係しない。という言葉を聞いたことがあったが、それを実感する日が来ようとは!
離れようとすればするほど、心が締め付けられるように苦しい。
ああ、これこそが、これこそが本当の愛なのだ!
もう一度会うだけじゃ全く足りない!
彼女と永久を共にしたい!
彼女の、リジーの全てが欲しい!
心のどこかでそう願う僕がいることに気づきまたも驚く。だがそんなものは些末なことだった。
僕のこの情熱を僕でも止めることはできないのだから。
「ふふっ……まだまだ捨てたものじゃないね。この歳になって夢中になってしまうなんて」
ゆっくり目を開け、独り言を呟き、そして小さくため息を吐いた。
……それだけに、彼女が僕の敵であることがとても残念だった。
僕の計画を最も邪魔する存在。彼女が王都に来てから計画は狂いっぱなしなのだ。
ベネスや王都リールで商人を使った魔力集めはことごとく摘発され、戦争で魔力を集める計画も失敗した。
まさか、地面ごとひっくり返して阻止するとはね。数年かけていた計画が消えた時は流石に笑うしかなかった。
そして何より、細心の注意を払って王都に潜入したこの僕をあっさり見つけて接触してきたことに驚かされた。
どうやったのかは分からないが、大勢いる中から見ず知らずの人間を探し当ててきた。それだけで、彼女が普通の人間じゃないことを物語っている。
それに、わざわざ接触してくる大胆さも驚くところだ。
敵のボスかもしれない相手に丸腰でやってくる。その彼女の意図は未だに理解が追いついていなかった。
小走りに進みながら朝の出来事を振り返る。
僕にぶつかったのもわざとだろう。どこからともなく現れたら僕だって避けられない。
その後はなるべく平静を装っていたが、バレているかは分からない。何せ彼女と行動する間も緊張の連続だったからだ。
彼女の仕草に見惚れる反面、魔力の微妙な揺れ動きに何か見透かされているような気分になって気が気ではなかった。
彼女と別れた後も、すぐに追ってくるものと警戒していたが、その気配はない。
諦めたか、とも考えたがすぐに自分で否定した。
あの少女に限って僕を逃すとは考えられない。何か策があるのだろうか。
しかし、いくら考えても他人の知恵だ。彼女が考えている内容までは見通すことはできない。
だが運の悪いことに、僕の探す答えは森に差し掛かったところで待ち構えていた。
「こんばんは。また会いましたね、アルさん」
僕の心臓は早鐘を打った。
目の前にはフードを取り払い、美しい顔をさらけ出したリジー本人が立っていたのだ。




